美嘉(1)
2月14日。この日はなんの日?
そうバレンタインデー。
チョコレート1つで気持ちを伝えられる特別な日。
友チョコなんてまだあの頃にはなかった。本命か義理しかないの。
大好きなあの人に、大好きです。って気持ちをありったけ込めて、真っ赤な四角い箱に小さくてまるいチョコレートを6個入れた。
仕上げは、白いリボンをお花のように結んで完成。
喜んでくれるかな?
ちゃんと食べてくれるかな?
私の初めてのバレンタインデー。
初めて好きになったあの人に届けたかった。
それなのに…
どうしてこうなってしまったの?
わかってる。分かってる。
自分で渡す勇気がなかった私が悪いんだ。
大好きな気持ちを、他人に預けたんだから。
でも…。ねぇ葉子?
私はちゃんと伝えたよ。
どうして伝えてくれなかったの?
そうすれば、こんな事になんてならなかったかもしれないのに…
葉子を殺さずに済んだかもしれないのに…。
「ねぇ、美嘉ちゃん。美嘉ちゃんはさ、今好きな人いるの?」
学校からの帰り道、葉子が小さな声で聞いてくる。
何もそんな小さな声で話さなくても、周りには人など殆どいない。数十メートル先に同じく下校中の生徒が見えるが、話し声など聞こえる距離ではない。あるのはこの歩道の脇一面に咲く色とりどりの紫陽花だけだ。
50メートルはあるだろう、直線の歩道の脇には、毎年梅雨頃になると一面に紫陽花が咲く。
通称アジサイロード。
都会と違って、やたらと学区が広いこの田舎町では学校に行くのも一苦労だ。
自宅から学校までどんなに急いでも40分はかかる。ゆっくり歩けば1時間。小学3年生の葉子と美嘉が2人で話し込むのには充分な時間と距離だ。
「…誰にも言わないって約束してくれる?」
「もちろん!!」
「絶対よ?…同じクラスの…健くん」
美嘉もまた、小さい声で答える。
伊藤健。元気で明るい健は、クラスのムードメーカーでもあり、学年でも1.2を争う程モテる。とにかく足が速いのだ。小学校では運動が出来る、とりわけ足が速い男子は無条件で女子から人気があった。加えて天性の人懐っこさと、姉妹に挟まれて育った環境からか女子にも優しく接する。
小学3年生の女子にモテるのも納得だ。
「葉子ちゃんは?誰か好きな人、いるの?」
美嘉は、私の最大の秘密を打ち明けたのだから。と言わんばかりに葉子の好きな人を聞く。
「うん!私はね、隣のクラスの悠介くん!」
葉子は恥ずかしげもなく、堂々と宣言した。
河野悠介。美嘉と葉子、それに健の隣のクラスの男子である。
健同様、学年でも人気のある男子だ。家が何か会社を経営しているらしく、裕福な家庭に育っている。
かといってそれをひけらかしたりはせず、勉強も、スポーツもどちらも優秀という、超優良物件である。
「美嘉ちゃんさ、健くんにバレンタインのチョコあげる?」
葉子がまた小さな声で話し出す。
「そんな!あげないよ…あげる勇気なんてない。」
バレンタインのチョコを渡す。
今なら、友チョコなどと言って、ただのクラスメイト、幼馴染、果ては同性の友達にでも気軽に渡せるのだろう。
しかしこの平成の初期、まだ友チョコなんて一般的でなかった時代にはチョコを渡す=告白と同義なのだ。
もちろん義理チョコというのは当時も存在していたし、本命チョコと義理チョコを両方用意して、本命にも義理のように軽く渡す、なんて事もあっただろう。
でも美嘉にはそんな器用なことなんて出来なかった。
クラスでも特別に目立つでもなく、かといって友達が全くいない訳でもない。特別に可愛い訳でもない。
学校から帰宅すれば、誰に言われるわけでもなく宿題や明日の用意をして、残りの時間はダラダラとテレビを見る。極めて普通。普通代表とでも言える美嘉が、学年でも人気のみんなの健くんにチョコを渡す。
そんなの絶対に出来ないと思った。
勇気を出して渡した暁には、翌日には学年中に広まっている事だろう。
『身の程知らず』
どこからともなくそんな声が聞こえる気がして、考えただけでも逃げ出したくなった。
それ程までに、伊藤健の壁は高いのだ。
「そうゆう葉子ちゃんは渡すの?悠介くんに」
悠介だって、健に負けず劣らずの人気者だ。
葉子は容姿こそ中の下(本人によると)だか、誰にでも明るく接する事が出来る。
人の嫌がる事は言わないのだ。勉強や運動は美嘉と似たり寄ったりで所謂普通。それでも葉子は自分にどこか自信を持っていた。
少なくとも美嘉には、そんな葉子が時折羨ましく思えた。
「…うん。渡そうかな、って思ってる。けどさ、やっぱ緊張しちゃうよね。」
いつも誰にでも気さくな葉子でさえ緊張するのだ。
河野悠介の壁もまた高い。
学年1の美少女、綾子ちゃんくらいの可愛さがあれば、自然な流れで渡せるのかな。ふとそんな考えが浮かんだ。
アジサイロードの紫陽花が、風に小さく揺れた。
梅雨が終わり、紫陽花の季節も過ぎて、待ちに待った夏休みを迎えた。
といっても、山程出された宿題の何から手を付けようか…と悩んでるうちに、気づけば3日も過ぎていた。
まずは少し時間がかかる読書感想文からやるか…。
学校から出される課題図書のほかに、もう一つ自分の好きな本を読んで感想を書いていかないといけないらしい。
好きな本…。
家にも何冊かあるが、これといって好きという訳ではない。両親が買ってくる本はどこか小難しくて一冊読み切った事が無かった。
相川美嘉は、母に読書感想文を書くのに新しく本を買いたいといって、お金を貰い本屋へと出掛けることにした。
本屋といっても田舎の小さな書店だ。
けれどここしかないから、みんな欲しい本がある時は自ずとここへ来るしかない。
売ってる売ってないは別として。
美嘉もなんの疑いもなく、自然とその本屋へ足を伸ばした。
一通りぐるっと店内を見回して見る。
漫画から幼児向け雑誌、歴史書から参考書、ミステリーから恋愛小説と広く浅く取り揃えてはいるが、どれもパッとこない。
諦めて、家にある本でいいか…と思っていた時、書店の端の方にひっそりと置かれていた本に、美嘉は何故か目を奪われた。
『林檎殺人事件』
なにやら物騒なタイトルとは裏腹に、真っ赤な綺麗な林檎に銀色のナイフが突き刺さったその表紙から目を離せなかった。
美嘉はそっとその林檎殺人事件を手に取り、母から貰ったお金で買うと、少し胸を弾ませて家路に着いた。
家に着くと、美嘉はリビングのソファに座り、先ほど買った林檎殺人事件を袋から取り出した。
『林檎殺人事件』
どこにでもいる平凡な主婦が、ある日夫の不倫を知ってしまう。
まさか。夫に限ってそんな事は…と思っていた主婦の元に、一つの宅配便が届く。
それは真っ赤に育った林檎だった。
平凡な主婦が、この世で唯一嫌いな食べ物である。
食べれない訳ではない。
でも嫌いなのだ。
味、食感、見た目全てが受け付けない。
でもこの事を知っているのは、両親と夫だけ。
世の中にはりんご味のものがとても多い。
それだけ好きな人が多いのだ。
だから、自分から進んで食べはしないが、特に嫌いだと人に言う事も無かった。
唯一、夫にだけは結婚前から打ち明けていた。
夫は、珍しいね。と優しい顔で笑っていた。
それじゃあこれは2人だけの秘密にしようと言って、その日から2人の間で林檎は正に禁断の果実となった。
そんな林檎が、箱いっぱいに届いた。
送り主は知らない名だが、確かに主婦宛に届いている。
主婦は夫の不倫相手だと直感する。
宣戦布告だった。
大嫌いな林檎を前にして、主婦はどうしようもない怒りと悲しみで気が狂いそうになった。
もちろん林檎にではない。
2人だけの秘密にしていた話を、あろうことか不倫相手に話している夫に。
そしてそれをわざわざ主婦に分かるように仕向けた不倫相手に。
その日主婦は、結婚して初めて、いや人生で初めて林檎料理を食卓に並べた。
驚いた夫は、主婦に訳を尋ねるが、主婦は笑って答えた。
『今日林檎が届いたのよ。捨てるのも勿体ないからどうせなら使おうと思って。』
夫は、訳がわからないという困惑した顔で、それでもその料理を口に運んだ。
それが主婦からの最後の晩餐とも知らずに…
え、林檎で??
殺しちゃったの?
随分と些細な事で人を殺してしまうんだな。
全てを読み終えた後の、美嘉の率直な感想だった。
ちなみにこの本にはまだ続きがある。
夏休みが終わり、新学期が始まった。
新学期最初の一大イベント席替えがこの後行われる。
『それでは、1人ずつ箱の中から紙を1枚とって書かれた番号の所へ机と椅子をもって移動してください』
担任の松岡が数字の書かれた黒板を指しながら大きな声で呼びかける。
相川美嘉は23番だった。番号は廊下側から1から順に横に進む。隣の席は24番か。
隣、誰だろう。
みんなが一斉に机と椅子を持って移動し始めた。
わぁわぁぎゃぁぎゃぁと騒ぎ出す。
「お、美嘉の隣はじめてだね。よろしく!」
美嘉の隣はあの伊藤健だった。
淡い期待はしていたが、まさか本当に叶うなんて奇跡みたいと美嘉は思った。
「う、うん!よろしくね」
「美嘉が隣なら、分かんないとこあっても大丈夫そうだな」
そういって健はにっこり笑った。
「美嘉ちゃん!帰ろっ!」
帰りの電車ホームルームを終えると、葉子が急いで席まで来た。
今にもマシンガンの様に喋りたいのを必死で我慢しているように、早く早くっ!と忙しない。
「美嘉、葉子、じゃあね!また明日!」
そう言って、伊藤健は数人の男子と帰っていった。
「みーかーちゃん!やったじゃん!!隣!」
葉子が満面の笑みで話しかけてくる。
「うん。隣になんてなれると思ってなかったから嬉しい!」
美嘉もいつになく浮ついて上機嫌だった。
つぎの席替えまで、健くんと色々お話し出来るといいな…美嘉はこれからしばらく毎日近くにいれる事が嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。
家に着いてからも、なんだか心がぽーっとしてふわふわと浮いているような感覚になった。
いつもなら帰ってすぐに取り掛かる宿題も、しばらく存在すら忘れていたくらいに舞い上がっていた。
丸一日、そんな様子だったからか、次の日理科の教科書を忘れてしまった。
やばい…完全に忘れた、どうしよう…。
今日理科の授業があるのは美嘉のクラスだけで、しかも教科書は毎日全て持って帰るよう先生にも言われている。
覚悟を決めて、早めに先生に言おう…
意を決して立ち上がろうとした時だった。
「美嘉。これ使っていいよ」
小さな声で健が自分の教科書を美嘉に手渡した。
「え?でも…」
「いいよ、大丈夫!俺しょっちゅう忘れものするから、慣れてるし!」
そう言って、健は
「せんせー!教科書忘れちゃいました」
といつもの調子で先生の元へ行き、予備の教科書を借りてきた。
健が貸してくれた教科書を開くと、これは何?動物?怪獣?というような落書きが所々にしてあった。
思わず、笑顔が溢れる。
自分の教科書を貸してくれた事に対しての申し訳なさと同時に、
あぁ、私、本当に健くんのこと好きだな…。
と改めて思った。