1 早くなんとかしないと
目を開くと、白色が目に入った。ぼんやり病院かなと予想する。まだだるい感じがするので目を瞑る。
腹部を刺されたばかりなので、ICUかな。刺された場所が悪かったし、結構血が出ていたしで、よく助かったものである。きっと誰かが救急車を呼んでくれたのかな。
けれど、この病院は病院にしては病院の廊下臭がしないのがなんとも不思議であった。
そうだ。それに、妙なことに夫がいない。ひどく取り乱すか泣き腫らすか、それとも泣き疲れて眠っているか。どれかのパターンかと思ったのだが。
どちらにせよ、ベッドサイド(あるいはベッド)にいてもおかしくないのに。
あの人なら他人に私を任せる真似を絶対せずつきっきりになるはずだ。
学生時代から社会人まで続いた半ストーカーだったのに、いつの間にか夫の地位を確保していた夫。彼は外出中私を1人にすることはない。曰く、私へ粉かけるやつが居たら社会的に滅殺してしまうからとのこと。冗談だろうけど。
GPS完備は当然として盗聴器付けたバッグで半径5mを超えない距離から監視する徹底ぶりである。
小学1年生の『はじめてのお買い物』かと正直内心ドン引きだったが、私のそそっかしさと迷子癖を考えれば仕方がない。方向音痴はどう頑張っても直せなかった。
さて、夫の事考えていたらだいぶ目が覚めてきた。意識不明の重体状態とかだったら困るし、いい加減起きよう。
そうして目を開き、徐々に焦点が合う頃には自分の置かれた状況を思い出した(絶望)
そうだった。転生先の自宅の悪臭がひどすぎて私は倒れたのだった、と。
最後に覚えているのは、地面に落ちていた馬糞をなんとか避けたこと。避けた先は知らないけど、蒸気上がる『これぞ出たてホヤホヤ』と鮮度を誇る状態の糞は避けることができた(と思う)。
……避けられたよね?
さて、ここは一体どこだろう。
周囲を見回す。
視界へ最初に入ってきた白っぽいものは天蓋。白いのはレース製と見せかけたガーゼ製なのだろうか。シンプルだが上品な仕上がり。ややロココ調なのは、流行だろうか。
前世思い出す前の『私』の記憶から、取り外し可能で交換できる特別仕様の天蓋付きベッドを職人相手にオーダーメードしていたことがわかった。咳の出る酸っぱいベッドに寝たくないと我儘を言ったのだろう。
すると、ぼんやりとだが、当時空気中にキラキラが舞う度息苦しくなったのを思い出した。
ついでに、以前の天蓋にあったピンク黒いブツブツとか、木枠の隅っこにできた黄緑と黄色と橙色の混じったやばい感じの物体とか。
今ならはっきりわかるが、あれは黴だったのだろう。
つまり、私は3歳時点でアレルギー症状を起こして死にかけていたわけか。小児喘息一歩手前だったのではなかろうか。
そんな生命の危険回避のため、我儘注文をした私。
ぼんやりと、このままではダメだと必死になったこと、特にお父様や職人相手に口うるさく頼み込んだことを記憶している。
ならば、前世の記憶が断片的に思い出したのは3歳だろうか。よくある命の危機というショックを受けて。
まてよ? ……だとするとつまり、鮮明に前世を思い出すきっかけとなった第三王子殿下の部屋(というか本人)の悪臭って命の危険に関わる程の臭さだったのか。
危なかった。転生早々本当に臭殺されるところだったのかもしれない。
二度と近寄らないでおこう。(失礼)
ところで、3歳時点で完全に思い出せなかった理由はいったいなんだろう。3歳の脳みそに30数年分の情報量は耐えられなかったからだろうか?
確か人間の脳の発達で言えば3歳は脳細胞が増え、6歳くらいまでで余剰分が死滅、7歳から伝達回路発達だった気がした。今思い出せたのは、ちょっと早熟な暫定6歳の脳だったからか。
そう考えると、果たして本当に前の私と今の私が同じ私か疑問に感じるが、これ以上考えるとドツボに陥るので置いておく。それに、『思い出した』ならば乗っ取りではなく同じ私の筈なのだから。
さて、衛生観念のない時代に生まれ齢3歳で生命の危機に陥っていた私。ぼんやり黴や埃が原因と気がついてよかった。
それを説明できていればもっとよかった。幼児期から我儘令嬢のレッテルを貼られずに済んでいただろう。
幸いにも今のところ、その一件で嫌われた様子はない。
どうやら今世の両親は一人娘である私を溺愛しており、地位に相応しい程の権力と財産もあるようだ。そうした背景から、多少無理な注文でも愛娘のために叶えてしまったのである。
そして、多分それからだった。周囲がやたら臭い・汚いと思ったのは。
乳母や侍女の接近を嫌がり、お父様やお母様へも滅多に笑顔を見せなくなった。だって顔を合わせれば必ずあのひどい悪臭が漂ってくるのだから。無愛想に思われたかもしれない……
元日本人の記憶がきっと、悪臭を許せなかったのでしょうか。
そして、ここは魔法なんてファンタジーがある世界だったので、高級な魔道具を揃えさせていた。多分、空気清浄機の代わりに。相当無理な注文を3歳児の言葉でしたがために、性能の割に高価な品となった。
いえ、この世界で言えばきっと高性能なのだろうけど。どうしても前世と比べてしまえばすべて見劣りするのである。
その証拠に当時の記憶では、『夢で見たのと違う』と毎度癇癪を起こしていた。
「だからこの部屋、臭くないのですね」
けれど今となってはその我儘には納得と感謝しかなかった。
実家が臭いのも耐え難いが、自分の部屋が臭いのはもっと無理。
きっと、目が覚めて臭かった場合、衝動的に自殺していたかもしれない。その程には絶望していたはずである。
起き上がり、自分の衣服を見下ろす。
シンプルだけど素材が良さそう。というか、白いガーゼ素材。この世界では白って確か相当高かったはず。洗濯も手洗いだし大変だろう。裾のレースが何とも小洒落ており、一体いくらかかったのか怖くなった。
部屋を見回すと、質が良くシンプルな調度品に囲まれていた。色も統一されている。派手すぎず地味すぎず、掃除しやすく。悪趣味なゴテゴテした成金風でなくてよかった。
やっぱり転生しても私は私だったか。
そこで、トントントンと音がした。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
扉がカチャリと開くと、見知った顔、カートと悪臭が入ってくる。そして、反射的に表情筋が固まった。今までもこうして耐えてきたのだろう。
愛想なく無表情な私を見た侍女はといえば、プロらしく表情を変えずカートを部屋に入れた。
流れるようにポットへ茶葉を入れ、蒸し、そこで紅茶の匂いがした。
「おはようございます、お嬢様。早速ですがモーニングティをお持ちいたしました」
寝台卓を用意し、その上へ白いテーブルクロス、同柄のカップ&ソーサーを載せた。そして私が起き上がると、ティーポットから茶を注いだ。
ポット口から流れる茶は透明感のある金色で、芳しい紅茶のアロマが一瞬だけ悪臭を忘れさせた。
「本日の茶葉は東イスカロー地方のアーリースプリング月下摘みにございます。特徴は爽やかな香りの中、仄かに香る花の香りでございます。また、本日用いたティーセットは南ノリターガ地方の……」
侍女マリアンの茶道薀蓄。
とても教養になるのでいつもは聞いているが、それ以上に気になったことが数点。
寝台卓上に置かれたティーカップを手取り、もう一度香りを吸い込んだ。確かに爽やかで花の香りがする。けれど、それをかき消す勢いで汚物の臭いが漂っていた。
それを一口含む。茶の香り・味ともに良く、ストレートなのに甘さを感じる。渋みもあまりなく、カラメル色素もほぼ出ていない。ホワイトティーだからというが、タイミングは茶葉に合わせると難しい。
やっぱりマリアンはお茶の達人。
でも、その努力をかき消すほど、水の味が良くない。金属臭はないけど、石と黴臭い。井戸水をちゃんと濾過・殺菌していないのでしょう。
もしかしたら、カップやティーポットの洗浄も不十分なのかもしれない。あるいは、洗浄用の水や拭いた布が不衛生だったか。
いずれにせよ、微妙に雑菌の香りもした。
「マリアン、少しいいかしら?」
侍女の名前を呼ぶと、びくりと肩を揺らした。だが、表情へ表さず「はい」とすぐ答えた。
「せっかく淹れ方が上手なのに、なぜ水の質へこだわらないの? 茶葉とお茶を淹れる技術の質と、水の質があっていないわ」
ため息混じりに指摘する。
「それと、思ったのだけど。あなたも含めてこの部屋以外の人は皆控えめに言っても臭いわ」
だから、せっかく美味しく淹れても紅茶の香りがかき消えてしまっている。
「毎日マリアンの紅茶を楽しみにしているのに、この2点の残念要素がすべてを台無しにしているのよね……」
どうにかならないものかしらね。
そう呟きながらまた一口お茶を口にする。
本当に、茶葉の使い方においてマリアンは専門家と言っても過言ではない。ブレンド茶淹れてもハーブ茶煎れても、温度調整とタイミングが絶妙で、香りと渋みの出方が美味しい時点で的確に提供してくる。
それだけでない。時間帯と私の状態を見て使用する茶葉を選定したりもするのである。例えば今日は王宮帰りで疲れているからか、あっさり目の優しい香り。カフェインも少な目で、空腹のお腹にも丁度いいのかもしれない。まさに今私が求めているものを提供してくれた。
多分ここまで技術や知識を身につけるのに相当鍛錬・研究を重ねたのだろう。それだけでなく、これは本人の味覚・嗅覚が鋭い等才能があったとも言える。素晴らしいことだ。
だからこそ是非、それを活かせる状態にしてもらいたい。このままでは勿体なさすぎる。
すぐに返事がなかったので言いすぎてショックを受けていないかなとマリアンの方を見た。傷つけるつもりはないので、誤解していたら謝ろう。
すると、予想に反してどちらかといえば戸惑った表情を浮かべていた。
「えっと。申し訳ありませんが、お嬢様がいつも不機嫌な理由ってまさか……いえ、えっと」
慌てた様子で大変失礼いたしましたと、青くなるマリアン。
今まで無表情だったマリアンが赤くなったり青くなったり表情をコロコロ変える様子に、思わず笑いが漏れた。
なんだか久しぶりに笑ったせいで、表情筋が引きつっている気がする。カップを空にしておいて正解だった。そう思ったら、また笑いがこみ上げてきた。
そんな私へ目を見開くマリアン。その視線を受けて、ゴホンと咳払いをした。
「あら、そう見えていたのね? でもそうねぇ……私にとって不愉快な臭いが多いと顔を歪ませそうになっていたかもしれないわ」
言語化したのは今日が初めてかしら?
そう呟くと、マリアンは何だか色々腑に落ちたといった様子で何度か頷いていた。紅茶を飲みながら、彼女の表情を見て考える。
側から見たら、確かに私って気難しい我儘令嬢に見えるのかもしれない、と。いいえ、実際そう見えていたのでしょう。
でもしかたがないじゃない。臭いものは臭いのだから。
私が我儘なのではない、周りが凄まじく臭いだけ。
糞尿の不法投棄がまず、不衛生な環境が臭くなる最大の理由だろう。
貴族邸の庭は割と野糞まみれで見た目だけ綺麗な有様。街はどこかしこも糞便だらけで、窓下にいれば糞まみれになる。そして馬が歩けば馬糞と蝿の道が出来上がる。
そうした路上を歩けば人々の靴に汚れがこびりつき、家屋の中へ持ち込む。だから使用人が掃除しても臭いまま。綺麗にした床上を糞便に浸った靴で歩いているのだから。
そして、もしかしたらそんな靴を履いたまま厨房で働いているかもしれない料理人たち。床に食材や鍋を置けばどうなるか、ぞっとする。
次に臭い原因は人の体臭とそれをごまかす香水。
滅多に体を洗わないから人々の体臭はひどい。多毛な野生動物並みにひどい。肉食文化だから尚のことひどい。このひどい体臭を誤魔化すため、財産持ちは湯水のごとく香水をつける。
ここで、香水の原料の一つはアルコール。蒸溜しても糖質の残るアルコール。消毒成分であるエタノールはその他香気成分と共にさっさと蒸発して残る糖質その他成分。
ベタベタしたそれに群がるダニや黴。洗濯できない衣服なのにそんなものが垢と共に蓄積したらどうなるか、あとは想像できることだろう。
「ねえマリアン」
大規模な疫病(食中毒)がいつ流行って全滅してもおかしくない下地。家や衣服で繁殖し、飛散するアレルゲン。
そんな、病気になってくださいと言わんばかりの環境下。
「はい、お嬢様」
私が我儘言うのは本当に悪いことなの? 病気にかかりたくないという本能的な訴えは、罪悪だというの?
だとしても、私は言いましょう。
「私、『ルルーティア・ベルン・グレンデル・フォン・イスカリオテ』が命じます。
私付きの使用人及び私の部屋とそこに入る者には毎回、私から『浄化』を掛けてもらうこと。
最低限相手を不快にさせない衛生的な環境を厳守すること。
そして、イスカリオテ家の使用人として、生活環境を損なうおそれのある物質をまき散らさない努力を私ルルーティア共々義務づける」
私だけは言い続けましょう。
言い続けて、私の周囲だけでも健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障します。
その代わり、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めます。
でもそのせいであなたたちが『異端』とされないよう、私が保証しましょう。だから私の名で命じるのです。
だって、結局これは全部ひっくるめて私の我儘なのだから。
私のために、私の周囲を改善していきましょう。貴族の義務として、国民の模範として、清潔を保ち人間らしい生活を営む傲慢さをもって、治めていきましょう。
それがきっと私の在り方なのでしょうから。
マリアンに『浄化』の生活魔法を使い、足元から頭のてっぺんまで悪臭を消す。ついでにカートの足元についていた茶褐色の物体も消す。悪臭退散。
驚いた様子のマリアン。だが、風呂上がりみたいにすっきりしている。
出来れば魔法ではなく風呂に個人では行ってもらいたいが、石油や電気のないこの時代ではまだ難しいので魔法で代用。
「はい、お嬢様」
だからまずは、世話係から。




