プロローグ
カチャリ、と陶器の触れ合う音が静寂に包まれた食卓に響く。いつもであればそんな些細な音なんて気にもならないはずなのに今は彼女の発する音、その一挙一動が痛いほど気にかかって仕方がない。
いつも通り帰宅し、いつもどおり宿題を片付け、いつもどおり母さんが作り置きしていた夕食を二人で食べている、だけのはずなのに、我が妹ハルの様子だけがいつもとは違っていた。
帰ってきてから無言、話しかけても無言。絶賛マナーモード待機中というわけだ。
自分で言うのもなんだが俺は妹に好かれている自負がある。仕事で忙しい母さんの代わりにハルの面倒を見てきたのは俺だった。だから普通の兄と妹以上に親密な関係が出来上がっている。親密すぎでハルにブラコンの気がないわけでもないのだが、それもまた可愛いところなので良しとしている。だからこそいつもは子犬のようにお兄ちゃんお兄ちゃんと不可視の尻尾を振って甘えてくるハルなのだ。なのにこのサイレントゥ……おかしい。怒っているのか?なんで?嫌なことでもあったのか?もしやいじめ――――
そんなとりとめもない思考をグールグルと渦のごとくかき混ぜていたところ、ようやく発せられたハルの言葉で現実へと引き戻される。
「ねえ、お兄ちゃん。あの女……誰?」
「え……なんだよ、ハル。いきなり」
あの女……? まったく思考の外からの一撃に思わずポカンとする。ここが漫画のワンシーンであれば大きなクエッションマークが俺の頭上に浮かんだことだろう。
「今日一緒に帰ってたじゃない。仲良しそうに、恋人みたいに」
わお! クエッションマークがエクスクラメーションマークに早変わりだ! ビックリマークのことね!
ていうか見られてたのか……。わざわざ学校の奴らにも噂されないように別の道を通ってたというのに。まさかハル、俺と帰るつもりで校門前で張ってたとか言うわけじゃないよな?
「こ、こここここ恋人って、あいつはただの幼なじみだよ。というかなんでお前がそんなに怒ってるんだ?」
目が泳ぐなんて言い方じゃ生ぬるい。目が100メートル平泳ぎ1分00秒08でチョー気持ちいいだ。つまり超ヤバい。何しろハルの疑いは当たらずしも遠からず。現状はただの幼馴染ということにはなっているが、お互いにただの友人以上の意識がある。後は俺に一握りの勇気さえあれば友人から恋人にクラスチェンジ可能な臨界点に達していると言えよう。今日の雰囲気も悪くなかった。「ああ、青春してんなあ」なんて惚けて意味もなく薬局でもしものための備えだってしたもんだ。
俺の弁明を聞いているのかいないのか光を閉ざした虚ろな瞳で見下ろすように妹はゆらりと立ち上がった。栗色のツインテールから覗く表情は、いつもの可愛らしいものではなく般若のように険しい。
「言ったよね。お兄ちゃんは私だけを見てればいいって。約束、破るんだ」
「そんな約束した覚えないっつの! ていうか俺が誰と付き合おうと勝手だろ? 一々噛み付いてくるなよな」
だめだ。ここで蹴落とされては兄の威厳が地に落ちる! ここはどっちが上かちょっとキツめにいってわからせてやる。
その言葉は効果的な一撃に迫りショックを受けたように妹はシュンと静まりかえる。
……一瞬だけ。
「嘘つき。子供の頃、お兄ちゃん私と結婚するって言ったのに」
「子供の頃って……そんなもん今になって引っ張り出してくるなよな。それに兄妹は法律上結婚できないんだぞ?」
俺がそう諭せば妹は静かに「そっか……」と言ってキッチンへと向かった。大バンザイ法律。ブラコン妹も方の前では無力なことよ。法治国家に生まれてよかったーー!!
今度こそようやくわかってくれたようだ。これで心置きなく――……って、キッチン?
「なら、死ぬしかないよね……?」
「いやいやいや!! なんでそうなる!! どうしてそうなる!!」
見れば、台所から持ち出してきたであろう包丁が妹の手に握られている。しかも怨念がましい瞳がこちらを捉えて離さない。
ああ、やばい、頭クラクラしてきた。走馬灯が見えてきそう。
「天国なら法律は関係ないよね? 安心して……私もすぐ逝くから」
なに『いいこと思いついた♪』みたいに晴れ晴れした笑みを浮かべてやがるんだこいつは! 実の妹がここまでぶっ飛んでたなんて知らなかったぞ。
「お、落ち着け。話せば分かる」
「遠慮はいらないよお兄ちゃん。フフ。さあ――――」
一緒に旅に出よッ!!
ドッ!! と、フローリングの床を妹の足が蹴り穿つ。逆手に持たれた包丁、銀刃(定価1980円)がヒュオンと風切り音を放ちながら俺の首筋を狙って振り払われた。
って、何実況してんだ俺!
「やめろ!! ちょマジでヤバイから!!」
俺は妹に背を向けて逃げ出した。とにかくこの家は危険だ、外に出ないと。
「待ってよ……お兄ちゃ――」
追いかけようとした妹だが、そこで俺が置いて行った携帯につまずく。そして体制を崩しそのまま転んだ。
「あ」
「あ」
転んだ瞬間、手に持っていた包丁が妹の腹部に回り込み、倒れたと同時に刺さっていた。
うわ、めっちゃ血出てるよ。
「あれ……? 私が先に行っちゃ……お兄ちゃんを連れていけないじゃない。こんな不幸……私は認めな……」
おいおいおい。
なんなんだこの展開は。
その嵐のような出来事を終え、俺はただ立ちすくむしかできなかった。
とりあえず身の安全が保障されてよかったか? まあ、とにかく。
「妹よ、俺を恨まずに成仏してくれ。南無」