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ルームシューズ

作者: 紫 媛

サラは、貧しい家の子だった。

ボロボロに着古(きふる)した二、三着の服と一足の靴。

それが、彼女の貴重(きちょう)な財産だった。



ロンドンの公立学校では、クラスに三、四人は彼女のような貧困層の家庭の子がいた。

そして、大抵(たいてい)、貧しい子はいじめの対象になった。

サラも例外ではなかった。



もっとも、公立学校で富裕層の家庭の子を見つけることは、まず不可能に近かった。

彼らはもっと良質な教育を受けることのできる、私立の学校や寄宿制(きしゅくせい)の伝統校に(かよ)っていたからだ。



そして、多くの中産階級の家庭の子どもたちも、それぞれの家庭の経済事情に見合った学校に(かよ)っていた。



したがって、公立学校に通う子どもの大半は、低所得者層の家庭の出であった。



その中でも、とりわけ貧しい暮らしをしている子どもたちが、周りの子どもたちから「貧乏人」と(ののし)られ、馬鹿にされていた。

貧しい子が、より貧しい子をいじめの対象にしていたのである。



サラのクラスの担任のジュリアンは、少女趣味を持っていた。

十四、五歳くらいの年齢の子を特に好み、週末になるとよく郊外に足を運び、それくらいの年齢の子を買い(あさ)っていた。


学校では、子どもたちに道徳じみた説教を()れるのが(つね)だった。

そのくせ、クラス内に蔓延(はびこ)るいじめには無関心だった。

それは、一つには、人間社会にいじめがなくならないことを理解していたからであり、もう一つには、本質的に、彼は自分さえ良ければ、周囲のことなどどうでも良かったからである。





ある日の夜、仕事を終えたジュリアンは帰路(きろ)につく途中、サラとばったり出くわした。時刻は夜の七時を過ぎていた。

教師としての社会的立場と、いつもの説教癖(せっきょうぐせ)()られた彼は、サラに言葉を向けた。



「サラ、こんな時間に何をしているんだい?

今日の宿題はもう片付けたのか?

君は昨日の宿題もまだ提出していないじゃないか。

まぁ、宿題のことは良しとしよう。

それよりも、家のお手伝いはどうなんだ?

いつも言っているが、周りをよく見て、困っている人間を助けてあげることが大事なんだ。

さぁ、お(うち)に帰ろう。

お父さんやお母さんも心配しているはすだ。」



「...()くしたの。」



消え()るような、か(ぼそ)い声で彼女は言った。



「何だい、どうしたんだ?

さぁ、もう一度、今よりも大きな声で先生に言ってごらん。」



「ウィルとコビーに、あたしの(くつ)、取られちゃったの。」



彼女の足に目を向けた。裸足(はだし)だった。12月の初めの頃で、アスファルトには冷気が充満(じゅうまん)していた。

ジュリアンは急いで彼女を()(かか)えて、まだ店の明かりがついているスーパーマーケットに足を運んだ。

彼女を店の前に()かれてあるマットに立たせ、室内用の安物のルームシューズをレジまで持っていき、代金を支払った。



明日、二人には厳しく説教しよう。

ジュリアンは、サラにルームシューズを()かせながら、そう言った。

サラは黙っていた。

彼女は9歳になったばかりだったが、ジュリアンの本質を理解していた。

「自分の体裁(ていさい)(たも)つために」説教するんでしょ。

失意のため息が、彼女の口から()れ出た。



ジュリアンはサラを彼女の家まで連れて行き、彼女の両親に事情を説明した。

彼女の両親はジュリアンにお礼の言葉を述べた。

その内容は、苦しんでいる彼女を救ってくれたことに対して、ではなく、ジュリアンがルームシューズの代金を彼らに求めなかったことに対して、であった。



貧困が、彼らの思考を(むしば)んでいた。



サラの父親は、小さな工場で働く期間工(きかんこう)だった。

ちょうど一週間前に、解雇通知(かいこつうち)を受けて(あわ)()っていたところだった。

サラの母親は、洗濯屋で働いていた。

もっとも、サラの家では、誰も清潔な衣服など着ていなかった。

サラの両親は、サラを含めた6人の子どもを養うのに精一杯(せいいっぱい)だった。



年長者のサラの前に、妹や弟がぞろぞろと寄ってきた。彼女の()いているルームシューズが物珍(ものめずら)しかったからである。

サラを(のぞ)き、兄妹はみんな裸足(はだし)だった。

サラは、彼らの好奇心を満たしてやるために、ルームシューズを()いで、彼らの目の前に置いた。

押し合いへし合いになって、兄妹たちはルームシューズを奪い合った。

やがて、争いに負けた子の泣き声が部屋中に(ひび)(わた)った。



サラは、競争に勝った弟が勝ち誇ったように()いているルームシューズをぼんやりと眺めていた。

彼女が()くものは、これ以外に何もなかった。

明日、これを()いて、またクラスの男の子たちにいじめられないだろうか。

彼女はそのことが心配だった。



彼女の学生としての寿命は、間もなく()きようとしていた。

クリスマスが過ぎ、新年を迎えた頃には、彼女は学校から姿を見せなくなっていた。



ジュリアンも、クラスメイトも、そして学校も、彼女に特に関心を示さなかった。

事情は様々であれ、不登校になる児童の数は少なくなかったからである。



サラは、街の通りで時間を(もてあそ)ぶようになった。



やがて、知らない大人の男から声をかけられることが多くなった。

男たちの目的が何か、彼女は理解していた。

空腹と寒さに我慢できず、日に日に()(おとろ)えていた彼女は、ほどなくして、自分の体を切り売りするようになった。

これまで手にしたことのない額の金銭が、彼女の(ふところ)に入った。

素直に喜んだものの、家族には黙っていた。彼女にも善悪の分別(ふんべつ)はついていたからである。



次第(しだい)に、家に帰るのが億劫(おっくう)になり始めた。

(かせ)いだ金を隠す場所に思慮(しりょ)(めぐ)らせることも、不登校の言い訳も、兄妹の面倒も、家事も、何もかもが彼女には(わずら)わしくなっていた。



二月の始めの、雪のしきりに降る日だった。

彼女は家を出て、それっきり実家に戻ってくることはなかった。





サラは、ベッドに横たわり、目を閉じて、六年ほど前の記憶に思いを()せていた。


今日は、彼女の十五歳の誕生日だった。


昨夜、ジュリアンが客として彼女のもとを訪れていた。


幼少の頃の直感に(くる)いはなかった。


彼の人間性を改めて確認し、(ひそ)かに安堵感(あんどかん)を覚えるとともに、思わずため息が口から()れ出た。


ジュリアンは、自分が買った女が、かつての教え子のサラだとは気付かなかった。

サラのことなど、すっかり忘れてしまっていた。


サラを()いて一通(ひととお)り楽しむと、ジュリアンは昔と変わらず、くどくどと説教を()れ始めた。若い女子がこんな商売をしてはいけない、と。


サラは、ジュリアンは女を抱くだけでなく、説教を終えるまでがこの男の楽しみであることを理解していた。

コクリ、コクリと黙って彼の話に(うなず)いていた。

ジュリアンは、気が済むと満足そうな表情をして部屋を出ていった。



サラは、ベッドから起き上がると、ルームシューズをゴミ箱に入れた。

いつかの日に、ジュリアンから買ってもらったルームシューズ。

何度も洗ってすっかり(かた)が崩れ、色もほとんど落ちていたが、貧乏性の彼女はそれを捨てることができなかった。


彼女は、裸足(はだし)で部屋の中を歩いた。


ひんやりとした冷気が、彼女の足を刺激(しげき)した。

彼女はベッドに腰を下ろすと、両手を顔に押し当て、声を上げずに泣き続けた。

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