人魚姫と物理の魔人
その日、人魚姫は夢を見ました。人間となり、日の光をたっぷりと浴びて、王子様と二人で楽しく話している夢を。美味しい紅茶を飲み、美味しいお菓子を食べ、綺麗な景色を見る。なんて優雅なお茶会でしょう。二人きりの静かな空間も、緩やかな時間の流れも、いいスパイスとなり降りかかっています。ゆったりと流れていく時間を感じていると、王子様が言いました。
「二人っきりでもっともっと、お茶会を楽しもう?」
と。それは、人魚姫を独占したい王子様の醜い欲望でした。ずっとずっと一緒にいたい、この時間をもっともっと楽しみたい。そんな白く眩しい光をも飲み込んでしまう黒く鈍い光。その言葉の答えを人魚姫はこう伝えました。
「私は――――」
「……の! …らの!! そらの、空野!!!」
「……っ、はい」
「授業中に居眠りとは、いい度胸じゃねーか」
「すみません」
「はぁ……。次からは気を付けろよ」
「はい」
いつから寝ていたんだろう。あんな夢を見るくらいだから、相当前だったんだろう。寝不足ではないはずだ。日付前には布団に入った記憶がある。ぱっと顔を上げると時計が目に入る。時刻は11時30分。もうすぐ3限が終わる。
「空野さん」
「……何、羽鳥クン」
授業が終わった後、いつも通り羽鳥君に話しかけられる。休み時間のたびに話しかけられて、だんだんイライラしてきた。貴重な休み時間が……。それでも話しかけてくれることが嬉しいと思う自分がいる。
「いやーよく寝てたなぁって。次、移動だよね? 一緒に行こう?」
「いいけど。どうして私と行動するの? 他の人と一緒に行動すればいいのに」
「一緒にいたいから、かな。誰と行動するなんて、僕の自由でしょ?」
「そうだけど……」
そういう問題じゃない。それに間もなく答えるなんて、なんかむかつく。殴りたい衝動に駆られたけど抑えた。誰か殴らなかった私を褒めてほしい。
「そ、空野さん……。その手をしまおう?」
「あ、ごめん」
「空野さんって、先に身体が動くタイプ?」
「え、多分? 自分の行動なんて意識しないから……わかんない」
「そうなんだ……。それは、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。自分の日常の行動なんて、意識する?」
「日常の行動……確かにしないかも」
「でしょ? だからわかんない」
「なるほど」
「そ。早く行こ。遅れる」
「あ、うん!」
4限開始まであと数分。急がなければまずいことになる。教科は物理、担当教師は郷田。郷田はゴリラみたいな見た目の熱血教師。名は体を表すとはよく言ったもんだ。体育教師になればいいのに。物理なんて似合わないし、似合ってない。それでも物理に対する愛はすごい伝わってくる。いい意味で理解させようとしてくる。要するに、教え方が上手いのだ。
「――――えー、だからこれがこうなり、こうなる!」
4限目。郷田の声と黒板を叩く音が響く。潜水艦のエンジンの音が静かな海に響くような、そんな音。つまらない。なんで語尾だけ音量を上げるんだ。黒板に手形が付く。あれ取るの結構時間かかるんだよ。前言撤回。悪い意味で理解できないな。ビクビクしながら聞いてる人いるし、魔人みたい。物理の魔人。
半分上の空で聞いていると、背中にウニの棘があたったような、尖った感覚がした。後ろを振り向けばクラスメートの女の子と目が合った。にやりと笑い、手紙のようなものを差し出すその子は、独特な空気を纏っていた。
「早く前を向かないと怒られちゃうよ?」
慌てて前を向く。怒られるのだけは避けなければ。郷田と目が合った気がしたけど、気のせいだ。受け取った手紙を開く。
《今日、あたしもお昼一緒していい?》
目に入ってきたのは短い文。綺麗に書かれた文字の羅列に固まった。お昼を、私と、一緒に? どうして? たくさんの疑問が浮かんだが振り払う。返事を見つからないようにこっそり渡す。
《いいよ。屋上集合で》
態度悪かったかな。クラスメートに敬語っていうのもな……。多分大丈夫か。仲良くなれるのかな、なんて思ってみたり。
早く授業終わらないかな。お昼がこんなにも待ち遠しいなんて、楽しみだなんて。
初めてだ