感情と鏡
人魚姫と海月はいつも一緒。
魚が蟹が噂をしている。太陽が笑ってくれない場所にいる、なのに、なんという。噂は絶えない、尾ひれというおまけまで付いてくる。一人歩きもする。厄介だ。75日には消えるというけれど、本当にそうだろうか。それは気休めで、対象を少しでも安心させるために流した噂。あるいは優しい嘘。なんと残酷なのだろうか。だからこんな声も聞こえない。
-もしかしたら、海月が姫を変えるかもしれない-
いつも通りの昼休み。私たちはあれから一言も言葉を交わすことなく過ごしている。一緒に行動をし、一緒にお昼ご飯を食べる。それが当たり前になった。離れるなんて考えはない。こいつは、羽鳥飛鳥は。聞いたことはあるのだ。
「……ねぇ」
「ん?」
「何で離れないの?」
「なんでかな。んー、一緒にいたいだけ、じゃあダメ?」
……なんて、彼氏みたいなことを言う。彼氏なんていたことないから、漫画の知識だけど。
「ダメ」
「何で?」
「何でも」
傍から見たらカップルに見えるだろう。世間の人はそう言う。私はこう思う。カップルはカップルだけど、バのつくカップル。まぁ、海老が黙っていないだろうけど。
「空野さんはさ、下の名前、何?」
「何で、知らなくてもいいでしょ」
知らなくても困ることはない。需要もない。なら教えなくてもいい。知らなくていい。
「でも、空野さんは僕の名前知ってるでしょ?」
「自己紹介聞いたからね」
「不公平だ」
「あっそ」
「あっそって……」
「なんか文句でも?」
「アリマセン」
「ん」
名前を知るのに公平さなどあるものか。聞いても大抵の人は忘れる。絡みがない人ならなおさら。公平さがあるなら、皆記憶力がいい。……まぁ、これは私の考えであって。世間一般はどういう考えなのか知らないけど。
「夕方、いつものとこ?」
「うん……」
「じゃあこれあげる」
「なにこれ」
渡されたのは可愛い包装のなにか。ちょっと重い。
「リンゴのパウンドケーキとジンジャークッキー。クッキーはお供えに、パウンドケーキは夕食のデザートに」
「あ、ありがと……」
じょ、女子力高いな……。パウンドケーキなんて作ったことない……。クッキーも、普通のじゃなくてジンジャー。なんか、負けた気分。
「いーえ。ジンジャーだから日持ちするし、堅いから割れにくいしさ」
「ありがと」
「どういたしまして」
にまにまと笑う顔が気持ち悪かったから見ないようにした。イケメンは何やってもイケメンだけど、笑い方はいつもと違うんだな。
「で、下の名前、教えてくれる気になった?」
「まだ諦めてなかったの」
「往生際は悪い方だからね」
「そう……」
「うん!」
ここで満面の笑みを浮かべるな。目立つ。腹立つ。
これは多分、言うまで帰してくれないな。視線が刺さる。痛い。
「はぁ……。奏。奏でると書いて、かなで」
「……」
何も言うこと無しかよおい。聞くだけ聞いといて。
「い……な……だ……」
「は?」
「いい名前だ!!!!」
「はぁ……」
いい、名前、かな。変な名前だと思うけど。
「奏と呼んでもいい?」
「ダメ。空野で」
「聞いた意味!」
「知らん。私が羽鳥君のことを飛鳥君なんて呼ばないのと同じ」
「じゃあ! じゃあ僕が奏って呼ぶから、空野さんは僕のこと、飛鳥って呼んで?」
「断る」
「えー……」
えー……じゃない。何でそうなるのかわからない。しかもじゃあって何、じゃあって。接続詞間違えてないか。
「そんな、捨てられた子犬みたいな顔やめて」
「してない」
「してる」
手鏡を見せる。まじまじと見る。自分の顔、面白いか?
「ほんとだ……」
「気づいてなかったのか」
「鏡は嫌いでさ。だからあまり自分の顔とか見ないんだ」
「そう、なんだ。ごめん」
鏡をしまう。罪悪感が心を支配する。鏡が嫌いな人っているんだな……。
「大丈夫だよ。でも空野さん、最近感情豊かだね」
感情豊かって言うのかな? と首をかしげている。表情豊かじゃないのか。確かによく感謝の言葉とか言うかもしれない。罪悪感とかも、久しぶりだ。久しぶりすぎて、怖い。
帰りは一人で帰った。あいつを避けるように。久しぶりに感じたものは恐怖しかなかった。昔に戻ってしまいそうで……。
でもその日、確かに私たちの距離は縮まったんだ。
絆が、深まった気がした。
お地蔵様には、花のお供え物がしてあったらしい