日常
-私の眼には空が棲んでいる-
そう、言われたのはいつだっただろう。幼稚園生の時? 小学生の時? 中学生の時?
それとも今?
騒がしい教室の中、囁きだけが聞こえる。ざわざわ、ひそひそ。まるで私だけ別世界にいるみたい。いや、違うか。私だけ船に乗り損ねた、それだけ。
先生が入ると、しんと静かになる。私はこの瞬間が好き。引き摺り落とす、この瞬間。皆が落ちる暗い海。乾いた甲板に濡れた人。ぽつりと座っている。誰かが来るのを待っている。そして私は、また暗い海へ真っ逆さまに落ちる。白が眩しい眼帯を纏って。
「そ、空野、さん!」
時刻は間もなく12時55分。お昼の時間。上が一番明るくなる頃。1人の青年が海に沈んでくる。優しさという、重い荷物を持って。ここに来てはいけない。海獣にばくりと食べられてしまう。そんな重い荷物を持っていたら、逃げられない。
「何?」
だから私は荷物を減らしてあげる。逃げられるように。
「あの! こ、今度の休み……」
「ごめん。無理」
『言葉』という鋭利な刃物で切り刻んでやる。ずたずたにぼろぼろに、引き裂いてやる。それが私のしてあげられる、唯一のこと。私なりの、優しさ。
そして何事もなかったかのように戻っていく。あるいは浮かんだところを引っ張りあげられたか。どちらにしろ、隔離されたこの世界から出て行った。それは変えることができないこと。
「空野と何話してたんだよ」
「何だっていいだろ……」
「あぁ、振られたか」
「言うなぁ……」
振ってはいないのだが。まぁ、そんなことはどうでもいい。問題は今目の前のもの。今は昼。言いたいことは分かるだろうか。お弁当、忘れた。
「こんにちは〜空野さん。お弁当また忘れたの?」
「うん」
「食べる?」
「うん」
この人は私の良き理解者、先生。名前なんて知らないし、自己紹介してくれたけど忘れたし。名札見ろって? それは無理だ。だって名札してないもん。だからか、皆、名前知らないけど優しい先生と呼んでいる。ちなみに担当教科は数学だそう。
優しい優しい言われているけど、私がお弁当忘れると教室に来る。エスパーか、と思ったくらいにドンピシャで。正直引くレベル。
「空野さんは好きな教科何?」
「数学と英語」
「わぁ……。先生の苦手なやつ……。」
「おい、数学教師」
その教科が好きで、好きで好きでたまらない。その教科だけ、楽しい。この教科を好きになってほしい。という人が教員になるのではないのか。そう思う人は少なくないはずだ。でも実際はそうではない。目の前の人が、それを証明している。
「そんなことより、今日は何のお話をしてくれる?」
「……今日は、」
様々な話をする。今日起きたこと。何が楽しくて何がつまらなかったか。いろんな話をする。どの授業が好きか、嫌いか。私はこの時間が好きだったりする。誰にも邪魔されない、私と先生だけの時間。ただ、私を1人の人間として、生徒として、見てくれる。普通の女子高校生として、振舞える時間。
「あ、もう時間だね。午後も頑張りたまえ!」
たまにキャラが分からない時があるけど。
そして放課後。部活や遊びに精を出す時間。午後の授業は、つまらなかった。何を言っているのか分からない、小さな声で授業をする先生。声が大きく、言っていることは分かるけど内容の無い授業をする先生。寝ている人が多くてやる気がなかっただけなのかもしれないけど。
「今日も、行こう」
今日もあそこへ行く。学校と家の丁度中間の森にひっそりと立っている、お地蔵様の所へ。昔、このお地蔵様を見つけた時から、毎日手を合わせている。お供え物はしたりしなかったり。できることなら毎日お供え物をしたい。だけどできない。大した理由ではない。ただの、お金の問題。
ハンカチで軽くお地蔵様の汚れを拭い、そっと手を合わせる。暫くしたら誰にも合わないように素早く家に帰る。
これが日課になってしまっていた。