ある夕刻の出来事
「そういえば、名前を聞いていなかったね」起き上がった彼が言った。「人に名前を聞くときはまず自分からって言うか――僕の名前はハルだ。涼川春。」
女の子みたいな名前なんだな、と思った。でも、私は思ったことを口に出すほど失礼な人間じゃない。表情には出てしまうかもしれないけど―― 「今、女みたいな名前だなって思わなかった!?」彼が私の表情をみて、それに突っ込む。さらに笑ってしまった。コホン、と咳払いをしてから、彼の質問に答える。 「私は冬月ヒナといいます。ヒナって呼んでください」
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あの運命的な出会いから一週間。彼女と行動していく内に、その関係は変わりつつあった。出会ったときは口数が少なかった彼女は、いまでは冗談をいえるくらいに喋るようになっていた。もとは明るい子だったのだ、と思う。だから彼女が少しづつ元気を取り戻していくのは、見ていてとてもうれしかった。
この一週間、僕たちは街から街を渡り歩いていた。同じ境遇に巻き込まれた人が他にもいるのではという期待からだった。そしてもう一つ、物資、主に食料の確保、という目的もあった。もっともスーパーやコンビニに行けば保存食の類は見つかった。防災倉庫を見つけ、そこからまとまった量を頂戴したこともある。とはいっても常に移動しながらの生活なので、あまり持ち運ぶことはできないのだが。肝心の味はというとあまり美味しいものではなかった。食べられるだけマシとしておこう。しかし、食料がこうも簡単に見つかる、というのはおかしな話だとは思った。なぜか動く時計に人がいないのに小奇麗な街といい、やはりここはただの異世界というわけではなさそうである。
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時刻は夕方、とはいっても昼と夜の区別がないので、夕方に当たる時間帯というのが正しい。ビルの壁面が赤く染まっている。僕らは、今日の寝床を探そうと、街の中心部に向かっている。ヒナは僕を急かすように先頭を行く。「――お兄さんあんまり遅いとおいていきますよ?」 彼女は悪戯っぽく言う。 「そりゃ困るな」わざと弱ってみせる。 また独りぼっちになるのは嫌だ」 彼女は笑いながら言う。 「冗談ですよ」 僕も一緒に笑う。別になんでもない会話だったが、楽しかった。
そんな愛おしい時間は、突然に遮られた。変な音が聞こえる、とヒナが言った。どうやら、次の曲がり角の方から聞こえているようだった。彼女は僕の後ろに隠れるように下がる。音を立てないようにして、音の発生源を探ろうと曲がり角を覗き込んだ。そこにいたのは、腰まで白髪を伸ばした挑発の男と、その傍らに寝転がるセーラー服を着た若い女。服装から察する限り、女子高生だろうか。男は、腰を曲げ座り込んでいる。
「あのー」角を曲がり、男に近づいて声をかける。ヒナは角に留まってこちらを覗き込んでいた。男がこちらを振り返った。血走った眼にボロボロになった歯並び、赤く染まったTシャツ。口の周りにこびり付いた血と肉片。――こいつはヤバい。今すぐ逃げなければ、と本能が訴えている。男は意味不明な単語を口走りながら立ち上がって、ニヤリと笑った。恐怖が頭のてっぺんからつま先までを支配する。ああ、これが夢なら覚めてくれ――