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赤い川

作者: 志内炎

この小説は完全なフィクションです。

 今月も妊娠していなかった。

(――っ痛い……)

 蒸し暑い部屋、鈍痛で目覚める。タンクトップにパンツという格好で暑さ対策をしていたが、腰回りにはしっかり毛布が掛かっている。

 腕以外はなるべく動かさないように、他の何も響かないように注意しながら、倒れた目覚まし時計を起こして、時間を確かめる。

(まだ九時か……)

 今日、一ヶ月で一番辛い日が、休日であることを心から感謝する。シフトを組んでいる上司は嫌いなので、某かの神様に感謝しておく。

 骨盤がゆっくりと内側に引っ張られているようだ。普段は意識する事のない背骨の、下から何本かが重い。知らないうちに鉛を埋め込まれたのではないかと思う程だ。

 男性に、

「どんな痛みなの?」と聞かれた時、よくこう答える。

「激しく歯並び矯正のブリッジを絞めたような」

 経験者には伝わるようだが、経験者は案外少ない。

「痩せすぎて腰骨が出っ張ってるのに床に俯せで長い時間寝転がっているような」

 これもなかなか。若い頃は出っ張っていたかも知れない腰骨も、今は見事に保護されている方が多い。私もしかり。

(ああ……)なるべく体を動かしたくない。

(顔洗わないと……)

 昨日はだるさに負けて、メイクを拭き取っただけで寝てしまった。

(皺になる……)

 違う事を考えてごまかそうとする。それも普段はかなり深刻な問題なのだが、今は二の次。まるで心臓が二つあるように、鼓動を打つたび、鈍い痛みで腰が重くなり、皺や染みの事など、意識の端へふっとんでいく。

 生理痛の多くは、子宮の壁から不要物が剥がれ落ち、その排出のために伸縮を繰り返す筋肉の痛みだと、大昔、中学の保健室の先生に聞いた。

 筋肉痛なら筋肉を鍛えれば軽くなりそうなものだ。初潮を迎えた小学五年生から、二十数年間、欠かす事なく、月に一度はその筋肉を使っているのに、一向に鍛えられていない。

(月一じゃダメなのかな……)

 額にできた吹き出物を気にしながら、ぼんやりと先生の言葉を思い返す。

(不要物……)

 確かに。

 妊娠していなければ胎盤は不要物に違いない。

 私はもう三百回近くも、その不要物を排出するために、痛みに耐えている。不要物と一緒に生命までならなかった卵を排出し続けている。

(あと何個身体に卵が残っているんだろう)考えてぞっとする。

 始まる時期によっても誤差はあるが、一度も妊娠した事がない私は、同じ歳の一度妊娠した人に比べて、十個は卵が少ない事になる。二度なら二十個、三度なら三十個……一度も実体になることもなかった上に、それだけの卵を無駄に排出し続けてきたのだ。

 そして今月も妊娠しなかった。

 あたりまえだ。もう何ヶ月もセックスしていない。彼氏は三年もいない。

(でもこないだ佐藤さんと話したのになあ……)

 佐藤さんは取引先のちょっと渋目のいい男。独身なのが不自然と、色んな噂がひろまっていて、さらに縁遠くなってしまっている。

 私は噂など気にせず、彼に好意を持っている。彼よりも遥かにどうしようもない男なのに、モテる人たちも知っているが、そっちの方が、私には不思議でしかたない。『男前』であることが足を引っ張るなんて、

(気の毒だなあ)と思っている。

 だが、一度も好意を伝えた事はない。理由はたくさんある。

 彼は取引先の人だし、お互い、仕事が忙しい。お気楽に好き好き言えるほど、お互い職場での責任も軽くない。それに趣味もちょっと違うようだ。そんなに重要な事ではないけど、襟足の髪の長さと、ほんの少し伸びた爪が気になる……

 要するに面倒くさい。

 恋愛の手順が面倒くさい。

 時間を作って、食事にいったり遊びにいったりしながら、お互いの意見を交換し、食い違いをすり合わせていく、非常に重要なその作業が面倒くさい。

 最初に美しく見せておいて、少しずつ本性に近付くべく、カードを提示していく過程が邪魔くさい。

 かといって、最初からさらけ出す事も女を棄てているようでプライドが許さない。

 昔は楽しかった事がどんどん億劫になって来ている。皺が増えるよりも、贅肉が増えるよりも年齢を感じる。心に皺が増えて来ているのだ。

(私が一番面倒くさいなあ)自嘲して、後悔する。お腹が痛い。

(話すだけじゃだめか……)

 あたりまえの事をぼやく。だが、彼との行為を想像しようとしても、キスするところすら思い浮かばない。

(でも佐藤さんの子供なら、かわいがれそうな気がする)

 彼の顔を思い浮かべ、子供の顔を想像しようとするが、それも上手くいかない。

(先輩に憧れる中学生みたいだ……)また自嘲して目を閉じた。

(もう少し眠ろう……)


 足元には川が流れている。まるで血のように赤い流れは、表面に時々泡を立てながらも、静かに下流へと動いている。

(ああ、これは夢だ……)

 そう思いながらも、何かに導かれるように、上流に向かって歩き出す。少し歩くと、三メートル程の川幅の向こう岸に、どこかで見た男が立っていた。

(先輩……)

 初体験の相手だった。高校一年の夏、少し痛くて甘酸っぱい、くすぐったい記憶が蘇る。先輩は私の感傷になど、私の存在にさえも気付く様子もなく、無表情のまま、遥か上流の方を見ている。

 少しいくと、今度は同級生が立っている。二人目のセックスの相手。

(なるほど、そういう事か……)

 予想通り、少し歩く度にセックスした相手が立っていた。覚えていた順番と多少違ったが、みんな一様に遠い目で上流を見つめている。私に気付く人は一人もいない。

 元カレを通り過ぎ、行きずりのような状態で最後にセックスした相手までたどり着き、私はワクワクした。

(ここからは未来だ)

 次は誰が立っているのか。

(結構な距離歩いたよね……)

 喜々として来た道を振り返った。

 はっとした。

 向こう岸の男たちに気をとられて気付いていなかった。三メートルあった川幅が、どんどん細くなっている。美しかった赤い色は濁り、表面は驚くほど平だ。言い知れぬ不安が全身を駆け巡り、子宮へ集中する。

 驚いて向こう岸を見たが、もう名前も覚えていないその男の顔も、無表情のまま遠く上流を見ていた。

(これは夢だ)

 わかっていても、私はその視線を追うことはできなかった。

 手を伸ばせば触れられる程近い男の顔と、川と呼ぶには弱々しくなってしまったその流れを、交互に見ながら、その場所から一歩も動けずにいた。


ちょっとぞっとする感じを出したくて執筆しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 主人公の心情と女性の機能部分が上手に絡みあっていて、独特の雰囲気が出ているなと思いました。  性の相手が登場しながら人生を振り返るのは面白いですね。最後の辺りで……どこか、まだ続く感じが印象…
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