ドラゴンまんじゅう 3
脇腹が鋭い痛みを帯びる。思わず歯を食いしばり脇腹を押さえた。
まるで抉るような熱い感覚は、ここ最近になって頻繁に感じるようになった。ぎりぎりと歯を食いしばり、蹲ってうめき声を殺す。
――――そこに、今は傷はない。
それだけを言い聞かせ、それのみをひたすら己に繰り返し、青灰色の青年はうっすらと目を開いた。
深呼吸一つ、ただ、闇の中の呼吸を聞く。
ぼんやり浮かぶ月明かりの下、ぬくもりと息遣いが聞こえてくる。
――――……一人ではない。
誰かがそばに居る呼吸音は、少しずつユークレースの思考を冷静に戻していった。
痛みの残滓を抱えたまま、ユークは寝台に寝ころんだ。荒い息を繰り返し、仰向けになり天井を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……ゆめ、か」
手のひらを握る。じんわりと汗がにじんで、感触が気持ち悪かった。
額に浮いた脂汗を拭い、ユークは体を起こした。上掛けが落ち、布団の中に潜っていた銀竜が小さく抗議の声を上げる。
「……あぁ、ごめん」
小さい声で謝罪をし、己は寝台から出ると布団を直してやった。銀竜は布団にもぐりこむと大人しく丸まり、しばらくすると小さい寝息のような音が聞こえてくる。
窓にかけられたカーテンの隙間から、外の明かりが差し込んでくる。欠けた月明かり、夜遅くまで営業している酒場や、空に散るわずかな星明りなどが集められたそれだ。
そのさまをじっと見つめながら、ユークレースはただ、寝転がることもせずぼんやりと寝台の背にもたれかかった。
聞こえる音は二つ分の寝息だけ。
ひとつは先ほど直した寝台の布団の中から、もうひとつは寝台の横に敷居があり、その向こうから聞こえてくる。
そこには記憶通りであれば、旅の連れであるアルフィリアが寝ているはずだった。敷居のせいでユークの場所から彼女の姿は見えないが、深く寝入っているような吐息と気配を感じることが出来る。先ほどの銀竜ジークハルトの声にも反応しないことから、それは確信の持てることだった。
ユークは先ほどまで眠っていたことが嘘のように、意識が覚醒していた。頭の奥底が冷えている馴染み深い感覚は、こうなれば今日はもう眠れそうにないことを告げている。
いや、最初だけでも眠れただけ良かったのかもしれない。どれくらいの時間が経てば朝日が出るのか、時計を見て確認する気力もない。
ふたつの呼吸音を聞きながら、ユークは心を落ち着けるため、昼間のことをひとつひとつ思い返すことにした。
自分が今何処にいるかを再認識するために。
ここは、昼間にアルフィと話していた次の街だ。
予定通り町を出発し、無事次の町に着いて宿を取った。
宿泊費の節約のため、今日も二人は同室だ(それをユークが渋るのも恒例になりつつある)。
そのかわり中層クラスの宿を取っているため、部屋の広さはごく一般的なものであり、寝台も清潔でサービスも良い宿だった。
敷居も貸してくれ、アルフィとユークが眠るベッドは仕切るようにそれが佇んでいる。
旅の道中も、食事の時間も、寝る前も、アルフィやジークとの様子はいつも通りのはずだった。
〝いつも通り〟であれば、眠ることが出来たはずだった。
「……やっぱり、あれが原因かな」
額に手を当てながら、小さい声を出す。目を閉じれば、血の気の引いた手のひらが冷たいことが分かった。
思い返すのは途中立ち寄った小さな宿場町での会話。
アルフィと竜のことを話した。そして、この先のことを少しだけ話した。
いつかは話をしなければならないと思っていたことだ。思いがけずその機会を得ることが出来、アルフィと話をすることが出来て、それから悪くない答えをもらった。充分だった。
それだけで、安堵できたはずだ。
ただそれだけのはずなのに、古傷を抉り出してしまったらしい。
ユークが夜に眠れないのは、ここ最近のことではない。
もともとユークは寝つきが良いほうではなかった。それどころか夜に眠れないことのほうが多いくらいだ。
以前はその症状が酷くて、眠るために様々なことをやらかした。浴びるように酒を飲んだり、その筋の女を宛がったり、さすがに薬に手を出そうとしたときは止められたものだが。
最近になって少しばかり回復し酒の力を借りることは少なくなっていたが、時折今日のような夜があり完全に治ったとは言えない。
それでも最近は比較的よく眠れるほうで、それはアルフィリアとの旅は気を使うことがなく、心穏やかにいられたからかもしれない。アルフィに合わせて行き先を決め、冒険者ギルドでのクエストに精を出し、美味しいものを共に食べる。何も考えず笑うことができた。
不確定に訪れる夜の闇を、ひと時でも忘れることができていた。
ジークの眠るあたり、毛布が不自然に丸く盛り上がっているその場所を優しく撫でる。
そうして物音が掻き消される深夜の空気を感じながら、ただじっと目の前の暗闇を見つめていた。
まるで世界に独りだけになったような空間。
静かな夜、月明かりも少ない暗闇はユークの良く知る光景と重なり合い、嫌がろうともまぶたに浮かび上がってくる。
あの、冷たく足元が崩れ落ちていくような感覚がせりあがり、目を閉じて遮断を試みた。
「……そういえば、」
ふと、ユークは気付く。やや気だるそうに首を曲げ、アルフィの眠る敷居に視線を向けた。
「……アルフィはどうして、聖王都に行きたがらないんだろう」
――――そもそも、私だって勇者選定の儀に行く気はない
昼間、そう言っていたことを思い出す。
そういえば、自分は詳しいその説明を受けたことはない。彼女は始めからそうだった。
美味しいものを食べ歩きするために冒険者になった、だから勇者には興味がない。ずっとそうだと思っていた。だからこそ疑問に思わなかったけれども。
もしかしたら、それだけではないのかもしれない。
なぜなら彼女が自分に対して竜のことを〝隠していた〟理由が分からない。気を使ってくれた、それだけでは弱い気もする。
世界の行く末に興味がないことと、選定の儀に〝あえて〟行かないということは、似ているようで少し違う。
他に何か理由があるのかもしれない。〝竜〟のことを隠したがった何かが。
ユークレースが〝勇者〟について知ることをなるべく回避しようとしていた理由。そして同時に、彼女自身が聖王都を避ける理由。
そしてこれは直感だったが、その理由は、彼女が〝魔法〟を使えるということを隠したがっている理由にも繋がっているのではないか、と。
「……」
そこまで思考を巡らせた後、ユークは目を瞑ってそれを中断した。
首を横に振り、自虐的な笑みを浮かべる。
「……なんにせよ、俺に聞く資格はないね」
アルフィのことは何も知らない。
性格、趣向、好みの食べ物、好きそうなもの。それとほんの少しのお互いの秘密。それを知っているだけで、過去や、出自、何者なのか。そういったことは全く知らない。
それはユークも同じことだ。
何も話さない。彼女が話さないから聞かない。自分が話さないから彼女も聞かない。
話したくなさそうなことだったから、聞かない。
話したくないことだったから、話さない。
話せば、何かが終わってしまう気がするから――――聞かない。
お互い何も聞かないこと。それは暗黙のルールでもある。
ユークにできることは、アルフィが何者であろうと、傍に居ることを許してもらえる限り護るだけだ。
しばらく、そのままユークは俯いていた。長い沈黙の後、ぽつり、と彼は声を出した。
「……――ねぇ、起きてる?」
静かに問いかけた言葉に返答はない。深い寝息が聞こえるだけだ。
先ほどから何度も気配をたどり、何度も確認したことだった。だからユークも確信していた。
「……――なら、」
夢の中にいるアルフィとジークを起こさぬよう、ユークは静かに語り出す。小さく、まるで寝物語に聞かせるように。
「俺の話、聞いてくれる?」
眠る彼女に声は届かない。だからこそ言葉に出すことが出来る。
そうしてユークは目を瞑る。それは寝るためのものではなく、思い返すための仕草だ。
「俺ね――――この世界の人間じゃ、ないの」
そうして彼は語り出す。
一人の英雄の物語。