鶏肉の葡萄酒煮込み 21
心地よい感覚で浮遊していた意識が、ぼんやりと覚醒する。
「……ん、」
吐息を漏らし、うっすらと目を開けた。まぶしい光が一瞬だけ目を焼き、そして、
「アルフィ?」
傍で聞こえる声を拾う。
「……アルフィ、起きたの?」
声と共に、青灰色の髪が視界に入り込んだ。
夜明け前の空の色をした瞳が心配そうに揺れている。白い光の中で、はっきりと存在感を持った姿。
アルフィの視界の中にはその青年しかいない。
なんとなく、その蒼くて深い色を見つめる。
――――なんだか、
この色を、ずっと呼んでいたような気がしたのだ。
「……アルフィ?」
ユークレースが声をかける。
覚醒しない意識の中、アルフィは目を瞬きさせた。
「……ユーク、どうした」
「どうした、じゃないよ。具合はどう? 痛いところとかない?」
眉を下げて問う彼に、アルフィは体を起こす。ユークも覗き込んでいた姿勢から体を起こし、それを手伝った。
きょろきょろと周りを見渡す。
寝かされていたのは寝台のようだ。木で出来た部屋に、小さなテーブルと小さな椅子。それにユークが座っている。寝台は一つ、窓が一つ。小さいが素朴で、よく見る部屋の間取り。
日の高さから推測するに、もうすぐ昼になる頃だろうか。
「宿、か?」
「そう。葡萄酒の村の」
問いかけに答えたのはユークだった。頷き、苦笑する。
「あれから馬車を動かしてこの村について、宿を取ったんだ。良かったアルフィ、ずっと寝ていたから心配した」
「……うーん、すまない」
ぽりぽりと頭をかき、アルフィは気まずそうに視線を逸らす。
「なぁユーク。いつのまに村に着いたんだ?」
「……――――え?」
「なんか、覚えてないんだ」
どうにも頭がぼんやりとしていて、この場所の実感が湧かない。思い出そうとすると白くもやがかかったようになってしまう。
とても奇妙な感覚だった。なにか、抜け落ちてしまったような。
この〝村〟に着くまでの記憶が、ぼやけてしまっている。
素直にそう説明すると、ユークが青い瞳を丸くさせた。
「覚えて、ないの?」
「なんだか記憶があいまいで……」
うーん、とアルフィは唸る。
「……あー、なんか、その。崖から、落ちたような気が」
「……アルフィ」
「そこから先がなんかぼんやりしてる」
眉を寄せて考え込むアルフィをユークは見つめた。青い瞳が細まり、笑みがすぅ、と掻き消える。
その表情を俯くアルフィは気付かない。
「んー、なんか、えぇと」
「アルフィ」
思考のふちにおぼれつつある彼女を呼び戻したのは、ユークからの少し強めな呼びかけだった。アルフィが顔を上げると、ユークはにこりと笑う。
「無理に思い出さなくていいよ。疲れてるんだ、そのうちきっと思い出す」
「そうか?」
「アルフィはね、崖から落ちて気を失ったの。幸いジークが一緒だったから、ジークに教えてもらって俺はアルフィを助けることができたんだよ」
「……そう、なのか」
「うん。そこからはね、アルフィ寝たままだったから馬を引いてこの村に向かったんだ」
「そうか、すまん。迷惑かけた」
アルフィが軽く頭を下げると、ユークが小さく首を振る。
「そんなことないよ、むしろ大きな怪我がなくて良かった。あ、ガイアスさんもラヴィも無事だよ、今は別の部屋で休んでる」
「ジークは?」
「ジークも隣の部屋で休んでるよ」
滑るように答えたユークは、その目を細めて問うた。
「それよりも、今どこか痛いトコとかない? 頭とか、肩とか大丈夫?」
「肩?」
言われてアルフィは気付く。右肩に包帯が巻かれている。
「……いや、今は平気だ。見るまで気が付かなかった。なんか気付いたら痛くなってきた気がする」
「ならごめん。ただの打ち身だから無理しなければすぐ治るよ」
ユークが笑っているから、アルフィは安心したように肩を落とした。
なんとなく思ったのだ。この青年が笑っているならきっと大したことないんだろうな、と。
どこかで何かが引っ掛かるような感じがしたが、その小さな違和感を振り切れば、それは驚くほどすんなりと意識を離れていった。
その〝忘却〟に、疑問を覚えることすら忘れたまま。
「いや、けど情けないな。結局私は足手まといだったようだ」
このクエストは森の中こそが肝心だったはずなのに。崖から落ちた挙句ずっと寝ていたなどと。
自嘲の意を込めて笑みを浮かべると、数秒の後に小さな声が返ってくる。
「……そんなことないよ」
「ユーク?」
アルフィが顔を向けると、青灰色の青年は顔を俯かせていた。
沈黙が流れた。
「……ユーク?」
黙り込んだ青年に向けて、アルフィは首を傾げる。
「どうした、ユーク?」
俯いたため顔が見えない。無意識のうちにアルフィはユークの顔を覗き込もうと身を乗り出した。
「……ごめん」
「ユーク?」
震える声が、耳を打った。
懇願するような響きに、アルフィは思わず訝しげに返していた。
俯いたその表情は、前髪に隠れて見えない。
「……ごめん、アルフィ」
泣きそうな声だった。
縋り付くような、弱々しい、懺悔の声だった。
「……ごめん」
膝の上に組んだ手が、小さく震えている。
それを理解した瞬間、アルフィは動いていた。
けがをしていないほうの手を上げ、思いきり振り下ろす。
その俯いた後頭部に。
「あいたっ!」
べしっ、といい音がした。
慌てて顔を上げたその顔を睨みつけ、額に向けて素早く第二撃。
すなわち、でこピン。
「だっ」
かなり痛そうな音がして青年がのけぞりかえる。
その頭をがしっと掴んだ。
そのままぐいと引き寄せ、顔の近くまで持ってくる。
「ばか」
目線の先、視界いっぱいの青年へ向けて罵倒した。
「自分で自己完結して謝るな。理由もわからないのに謝られたくない。お前は何を謝っているんだ」
ぱちぱちと瞬きをするユークは、まだ思考が追い付いていないようだ。赤く色が変わった額はなんとなく間抜けに見える。それでも反射的に答えが返ってきた。
「……その、アルフィの怪我は」
「それこそばかだ」
言葉を遮り、アルフィはむぅ、と眉を寄せる。
「いくらお前が私の護衛でもそこまで責任を負わせるか。
だいたい崖から落ちたのは私の不注意で、それから先はユークの責任じゃない」
「……でも」
「違う、ユーク。お前の責任じゃない。だから謝ることじゃない」
唇を尖らせ、その目を睨みつける。
「その責任は私のものだ。返せ」
瞬きをしなくなったユークは、数秒後、小さく笑い出した。
くしゃりと、表情を歪めるように笑い出すユークに、アルフィは憮然とした顔のままで「なんだよ」と問いかける。
「いや、アルフィらしいな、と」
「……どういう意味だ」
「悪い意味じゃなくてね」
一通り笑い続けたユークは、己の頭を掴むアルフィの手に自らのそれを重ねると、優しく手を外した。そのままアルフィの両手を包み込み、こつん、と額を合わせる。
「……アルフィらしいよ、ほんと」
でも、と。続ける。
視線を落とし、目を伏せて。
「だから謝るんだ。……ごめん」
「……謝られる覚えはないんだが」
「俺が許せないんだ。……自分自身が、許せないから」
目を伏せる青年は、辛そうに眉を寄せている。
「俺の覚悟が足りなかったから。俺がもう少しちゃんと、早く、思い出せていれば……こんなことにならなかった。もっと手をうてたはずだし、策も練ることが出来た」
「……ユーク?」
「だから、俺は俺が許せないんだ……」
懺悔するような、深い後悔を滲ませた声色。
それは青年の深い深い感情を込めたもの。
「……そうか」
否定をすることもできず、アルフィはただ相槌を返す。そしてアルフィもまた、ユークに習って目を閉じた。
包み込まれる手のひら。優しいぬくもりは少し冷たく、小さく震えていた。
冷たさを温めたくて、包まれる手のひらを動かして自分も指を絡めると、一瞬だけぴくりと動きを止めた指が、すぐに強く握りしめてきた。
ユークがどんな顔をしているのか知りたくなり目を開けると同時に、額のぬくもりが離れていく。
「……アルフィ」
「うん?」
「前も言ったかもしれない。でももう一度、ここで誓わせてほしい」
「ユーク?」
顔を上げ、ゆっくりと体を離したユークは、顔を上げてアルフィを見た。
泣いているのかと思った目に涙はない。だが、その光はわずか不安そうに揺れていた。
瞬きの後その揺らぎが消え、まっすぐに青の瞳が見つめてくる。
「……――――俺は、アルフィを守りたい」
ユークはそう告げた後、わずかに自嘲の笑みを口元に宿す。
「守ると言っておきながら、今までの俺は中途半端だった。結局そんな状態だったから、キミが危ない目にあったんだと思う。
だからそれじゃいけないんだって気付いた。俺はなにもかも失ってしまったけど、でも、だから、だからこそ……」
ユークは一瞬だけ目を伏せ、笑みを消してまっすぐにアルフィを見つめる。
片方の手が外され、その手のひらが頬に触れた。
「……――――今度は、せめてキミだけは。もう、怖い思いはさせないって」
どこにいても、
なにがあっても、
「キミを守るよ。
この〝世界〟にいる限り――――キミが危ない目にあったら、絶対にキミの元へ駆けつけるから」
決意を込めた青い瞳に、笑みを浮かべて返した。
「……ばか。お前は過保護すぎるんだ」
頬に当たる手のひらに己を重ねあわせる。
「別に完璧に守ってくれなくてもいいんだ。四六時中一緒に居たら私もお前も息が詰まるだろうし、お前が自分を犠牲にしてまで守る必要はないから」
やんわりと、そう諭して。
「けど、まぁ。たとえ離れても、お前が駆けつけてくれるって言うんなら」
その広い手のひらの、ぬくもりに頬を寄せた。
「お前が守ってくれるって言うのなら、怖いものなんてきっとなにもないよ」
ユークは強いから。
だから、きっと、信じられる。
「信じてる、ユーク」
ぬくもりに頬を寄せ、アルフィは知らず微笑んでいた。
目を伏せて、しあわせそうに。