鶏肉の葡萄酒煮込み 19
どれほど時間が経ったのだろう。
ふと耳元に暖かいぬくもりを感じた。吐息の音が聞こえる。自身を覆い尽くしていた圧迫感が無くなっていることに気づいた。
自身を抱きしめるように小さく蹲っていたアルフィリアは、その優しい吐息に導かれるように、おそるおそる目を開く。
涙で滲んだ世界に、赤い宝石がふたつ、覗き込んでいた。
銀色にきらきらと光っている。
視界を覆うように大きな羽根が見えた。蝙蝠のような骨格を持つそれ。
ゆら、と揺れる長い尻尾。するどい突起が先に生えている。
アルフィリアを守るように蹲った身体。
覗き込んでくるのは赤い宝石と、尖った大きな鼻、大きな口。
けれど優しくアルフィを促すそれは、痛くない。
「……――――」
呆然と、ただそれを見る。
ゆっくりと起き上がった。
傷を負っていたはずで、ぼろぼろに泣いていたはずで、けれどそんなこと気にしていなかった。
ただ、目を見開いた。
アルフィを守るように座る、一体の銀竜。
大きく逞しい後ろ足。銀色に伸びた腕の先には短剣の刃ほどの鋭い爪。長い尻尾。大きな翼。
細く長い首。銀色のたてがみ。
頭の上に生える耳。きらきらと光る鱗に覆われた体格。
そしてアルフィを見据える、紅い赤い瞳。
見上げるほど大きな体を、やや窮屈そうに折り曲げて。
神々しいともいえる美しいドラゴンが、そこに居た。
「……――――ジー、ク?」
どうして、あの子竜だと分かったのかは定かではないけれども。
気がついたら呆然と呟いていた。
目の前の大きな銀竜。馬よりも大きい、人を乗せてもびくともしなそうな大きな体のドラゴンを。
「キュウ」
呼びかけに、銀のドラゴンは答えた。いつものように。
ジークハルトは長い首を伸ばし、アルフィの頭辺りを優しく突いた。
アルフィはそこでようやく止めていた息を吐いた。
暖かいぬくもりに包まれている。そっと目の前の体に手を当てると、ざらざらとした感触があった。
硬質で鋭いはずのそれは、けれど不思議とアルフィの手のひらを傷つけない。
「キュ」
くすぐったい、とでも言いたげにジークはそう鳴いた。
そして、その瞳をゆっくりと周囲に向ける。
黒い魔物は、まだわずかだが残っていた。
魔方陣の外に吹き飛ばされた格好の魔物がそこらじゅうに散らばる中、かろうじて動ける状態の影たちがずりずりと這い寄ってくる。
突然現れた銀竜にも戸惑わぬように、虚ろな目には何も映さない。
くい、とアルフィリアはジークに肩を引かれる。
その鼻先が器用に己の背中を指し示すように動かされた。
「え、と」
いまだ思考が動かないアルフィを促すように、ぐいぐいと頭で背中を押す。
「あ、わ、わかった」
体が震えたが、なんとかアルフィは指示通りにジークの背中に這いあがった。腰が抜けて足に力が入らなかったが、ジークが上りやすいように体を動かしてくれた。
魔物がすぐそばまで来ている。
威嚇声を漏らし、ジークハルトはそのまま体を起こした。慌ててアルフィはジークのたてがみにを掴み、しがみつく。
「わっ、わ」
ずり落ちそうになるのを、首の根元を両腕で抱きしめて防いだ。そのままぎゅう、と抱きしめるのを感じたのか、ジークは満足そうに鳴く。
「キュー」
そして。
折りたたまれた大きな翼が、おもむろにばさりと広げられた。
その風圧に巻き込まれ数体の魔物が吹き飛ばされる。
ジークは首を上に向けた。視線の先には天井がある。
口を開け、息を吸う。
そしてその大きな翼をはためかせたかと思うと、天井へ向けて咆哮を上げた。
瞬間、地響きを起こすような声とともに、ジークハルトの口から光が溢れる。
突然動き出す体にアルフィは目を瞑りしがみついた。
耳を劈く轟音と共にばさりと音がし、続いて何かが崩れ落ちる音が立て続けに響き何も聞こえなくなった。ふわりと浮く体。そして風。
「うわ、あぁ!」
がらがらがらがら、崩れる音。瓦礫が出来る轟音。真っ白になる視界。
胃がふわりと浮くような、そして浮遊感と共にすさまじい風。
ともすれば振り落されそうになるそれに、アルフィは必死にしがみついた。
アルフィは分からなかったが、もしその光景を外から見た者がいたとすれば、こう表現するだろう。
銀竜が風の繭に包まれ、その口から光線を出し、空を崩して飛び去っていったと。
そして、ばさり、と音がして止まる。
頬を撫でる冷たい風にアルフィは恐る恐る目を開いた。
ばさ、ばさ、ばさ、ばさ。羽ばたきと共に映るのは真っ暗な空の色。
ぽっかりと浮かぶ月。太陽が沈みきる前の色。
そして、
「う、わ」
思わず息を飲む。
眼下に広がる森、そして屋敷。
頭上から見下ろす屋敷には、大穴が空いて地下室が覗けた。禍々しい光を帯びる魔方陣と、群がる魔物が見える。そして柱を失い、がらがらと崩れ落ちる屋根。
天井を突き破って空に舞い上がったらしい。
鳴き声が聞こえ、アルフィが視線を動かすとジークが首をもたげていた。
その口に白い光が集まる。やがてそれが光の渦となった、瞬間。
甲高い声と共に光が爆発した。
ジークハルトの口から放たれたそれが、眼下の屋敷へ降り注ぐ。
――――爆発が起き、白い焔が屋敷を覆い尽くした。
「お、おぉぉ……」
アルフィは思わず感嘆の息を漏らす。
白い焔は時折赤く変化し、屋敷を燃やしていく。夜の闇に伴って、それはとても光輝いて見えた。
魔方陣が白い炎に包まれていく。魔物が白い焔に包まれていく。
「壊したのか、すごいな」
「キュ」
そんな場合でない気がするが思わずそう呟くと、まんざらでもなさそうにジークが鳴いた。
それから、
「キュウ」
「わっ」
ばさ、と急に身を捻るものだからアルフィは咄嗟にしがみついた。
「きゅ、急に動くな!」
「……ギャウ」
空を旋回していたのだが方向を決めたようだ。全身に風が打ち付けられ、思わずぎゅっと目を瞑る。
気を抜けば振り下ろされそうで、ただ腕に力を込めた。
その瞬間、なんだか風の力が弱まった気がした。
「キュー」
ジークハルトの鳴き声が聞こえる。促された様で、そっと目を開く。
眼下の景色が流れていく。早いスピードだった。燃え盛る屋敷がいつのまにか遠くなっている。
ジークは上を向いて、山の上に向かって飛んでいるようだ。
「……あれ?」
やがてどんどん見えてくる風景、斬り倒された森の中に見つける色。
はたしてジークハルトの向かう場所だったようだ。
すでにジークは息をつめていて、その口に先ほどの光を集めている。
そして、
その頭上に到着したかと思うと、黒い魔物に囲まれていたユークレースたちの周囲めがけ、白い光を放ったのだ。
『葡萄酒煮込み』17話の前半に繋がります。
アルフィには分からないのですが、ジークは結構アルフィに気を使っています。
ユークは慣れてるから、ちょっと乱暴にしても振り落とされないんです。鞍もありましたしね。