鶏肉の葡萄酒煮込み 18
うつろな目。半開きの口。捻じ曲がった首。だらりとした両手。肌が浅黒い。
ボト、ボト、と音を立てて落ちてくる魔物の両手には、ねっとりとした液体が付いている。
這いつくばったもの、ふらふらとしながら立ち上がるもの。
部屋の出入り口を塞ぐように、魔物の軍勢がろうそくの炎に浮かび上がる。
視界を埋め尽くす黒い影に、アルフィリアは目を見開いて固まった。
「あ、あ、……」
カタカタと手が震える。短剣を握った両手からじんわり汗がにじんだ。
恐怖で目の前が真っ白になる。うまく息が吸えない。
一方ジークハルトは魔物に臆さず、唸り声を上げ、威嚇するように牙を見せた。
「グルルル」
それ以上近づくなと言うように体勢を低くする。口を半開きにし、力をすぅ、と息を吸った。ブレスを吐く準備をしたらしい。
影が動く。
空気が動いたかと思うと、その手が一斉に伸びてきた。
思わず取り落とした燭台が床に落ち、炎が掻き消え暗闇に閉ざされる。
瞬間ジークハルトが咆哮を上げる。その口から小さな炎の塊が出現、目の前の魔物に向かって放たれた。
炎に拒まれた魔物が途端燃え盛り、そのまま崩れ落ちる。不思議なことに焦げるにおいがなく、ただ黒い砂のようになり倒れていった。
だが数が多い。周囲のモノは構わず歩みを進める。
ジークがもう一度放つ。今度は周囲に向かって。
一度は退けられ、あるいは炎に飲まれて姿を消す。だがすぐ次の魔物が後ろから迫る。
炎に触れた途端燃え盛り腕が崩れ落ちたモノもいた。だが止まらずずりずり襲い掛かってくる。
足が燃えたものもいた。だが止まらず這うように襲い掛かってきた。
近くに居るだけで感じる、聞こえてくる、魔力の塊。
蠢く、濁った真っ黒なそれ。少しでも当たったら気が触れてしまうかのような禍々しい圧迫感。
ジークの炎をかいくぐり伸びてきた黒い腕に、アルフィは印を結んだ。
「――――aKLii veita dOmiVIo AuDI VenTus !!」
咄嗟に紡いだ呪文は滅茶苦茶なものだったが、アルフィの周囲に風が舞い上がる。瞬間を持って風圧を伴い、アルフィを中心に竜巻が起こった。
その風は魔物を押しのけ、空間をこじ開ける。
アルフィは風に飲まれる寸前、ジークの体を引き寄せた。
目を白黒させるジークを抱きしめ、風が収まる瞬間に空いた空間を、全力で駆ける。
目指すは部屋の外。逃げるのだ、この場所から。
だが、扉の取っ手に手をかけても動かなかった。
「なッ!?」
がちゃ、と軋む音がするが開かない。ぴったりと閉じられた空間はいくら引いても押しても、がちゃがちゃと音がするだけで動いてくれなかった。
「なんでだ!? さっきまで開いてたのに!」
叫んで、はっと息を飲む。
発動した魔方陣。
黒い幕に覆われた空間。
壁の魔方陣。――――空間、断絶、閉鎖
「とじこめ、られた?」
咆哮を上げたジークが暴れ、腕から抜け出した。
はっと振り返る先、浮かぶ炎に照らされ背後に魔物が肉薄している。
ジークが炎を吐き、アルフィに近づいた魔物の手が燃え上がった。
「ひっ」
アルフィが息を飲み、思わず逃げようとして反射的に扉へ背を押し付けた。
手のひらのダガーを構える。
どうしようどうしようどうしよう。
焦りが生まれ思考がぐちゃぐちゃになる。
まずは魔方陣をなんとかしなきゃいけない。閉じ込められた。魔物が襲ってくる。数が多い。手を伸ばす。
あぁ、なんだっけ。鍵を壊す魔法。いやまずは目の前の魔物をなんとかしなきゃいけないのか?
ダメだ思い出せない、なんだっけ。何を言えばいいんだっけ?
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
「いや、」
怖い。
ジークハルトが咆哮を上げ、炎を出す。燃え上がるそれを呆然と見た瞬間、その背後にのそりと影が落ちるのが見えた。
「ジークッ!!」
思わず叫ぶが、遅かった。
ひとまわり大きな黒いヒトガタが、ジークハルトを押さえつけたのだ。
「グアァァ!」
「ジーク!」
羽根を上から押さえつけられ苦しい声を出すジークに、思わずアルフィは身を乗り出した。短剣でその魔物に切りかかる。
「このっ」
振り上げ、魔物の手めがけて切りかかった。
「離せッ!」
だが、その切っ先が届く前に。
「っ!」
背後から冷たい手が、アルフィの腕を捕えた。
「グェエェェ!!」
ジークの警告する声が響く。
そのまま背後に引きずられるように、アルフィは押さえつけられバランスを崩した。
手首を掴まれ、その拍子にダガーが滑り落ちる。
「やっ、いた……!」
腕を掴まれ、床に引きずり倒された。冷たい床に倒されうめき声を漏らす。
ずし、と抑え込まれる。ぬらりとした感触。
思わず目を開けると、上から覗き込む空虚な顔。
「うあっ……」
逃れようともがくが、その手すら押さえつけられた。
暗い昏い闇がぞろりと背筋を駆け巡る。
「あ、あ、あ、あ、」
息が詰まる。目の前が真っ暗になる。何も考えられない。何も考えられない。
――――――――
埋め尽くす声。
――――――――タスケ
〝影〟から木霊する声。
――――――――タ ケテ
泣き叫ぶ声。
――――――――コ セ
ささやく声。
―――――――― ロセ
空間を覆い尽くす、魔力の残り香から聞こえる苦悶の声。
これは、
この場所の、
この場所で起きた、
断末魔の悲鳴。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
気が、狂いそうだ。
「やめ、やめろッ!」
ずりずりと引きずられる、石畳を四肢を押さえつけられ引きずられる。
魔方陣の中心に運んでいるのだ。ぬらぬらとした冷たい感触が肌を伝う。
そのことが理解できた瞬間、アルフィリアは無茶苦茶に叫んでいた。
渾身の力で暴れるも、多人数で押さえつけられるそれは振りほどけない。
「だれか、」
咽が痛い、手を伸ばす、届かない。
涙が浮かぶ。
「たすけて、助けてッ!」
脳裏に浮かぶ、
「――――――――助けて、ユークッ!」
床に転がる、赤く赤く光るダガー。
押さえつけられたジークハルトは、その切っ先を睨み付けた。
上から伸し掛かられ痛みを伴うそれを振り切るかのごとく、炎を吐き出す。
押しつぶすかのごとく体重をかけていた腕が崩れ落ち、ジークハルトの拘束が解かれた。
ジークは石畳が鱗を傷つけるのも構わず、その瞬間這うように脱出した。
アルフィリアはすでに魔物に囲まれている。間に合わない。
床に転がるダガーはほのかな光を帯びている。
ジークハルトは迷わずそれに〝かぶりついた〟。