鶏肉の葡萄酒煮込み 13
「……………………死ぬかと、思った」
「……………………やろ」
「……………………すみません、正直ナメてました」
「……………………わかってくれたら、ええんよ」
「……………………もう二度と乗んない」
「……………………もう二度と嫌や」
「おいおい二人してひっでぇな」
口元を引きつらせる赤毛の男性を尻目に、青灰色の青年と黒髪の女性はかつてないほどぐっったりと地面に転がっていた。
森の中、周囲を見渡してもやはり森。加えて街道もない。完全に森の中。
目の前には湖が広がっている。岸辺に馬が同じくぐったりとしていた。水を飲んだ後、へなへなと座り込んでしまったのである。
頑丈だったはずの馬車は屋根が吹き飛んでいた。車輪は幸い無事だが、ところどころネジが外れそうだ。
道なき道を暴走し、疾走し、ようやく立ち止まった場所である。
「オレのおかげで助かったんだろーが。結果的に良かったじゃねェかよ」
湖の水を調べていたガイアスが、拗ねたようにそう言った。水は飲めるらしく、水筒を浸している。
「……確かにそうですが」
仰向けに転がったまま、目を隠すように腕を置いていたユークレースがそのまま答える。
「……馬車に乗りながら〝あ、俺このまま死ぬかも。なんか打ちどころとか悪くて〟とか感じる日がくるとは思いませんでした」
「……アレは馬車やない。武器や。兵器や。断じて認めんで」
ラヴェンダーが青い顔をしたままぐったりと呟く。
「まだ頭がぐるぐるしてる……」
「いやや、まだ死にとうない……」
「なっさけねぇな。ほれ、水だ。飲め飲め」
ガイアスが二つ分の水筒を差し出し、二人はそれぞれ億劫そうに手を伸ばして受け取った。
唸っていた二人だが、しばらくすると回復し、動けるまでになった。
まだ青い顔をしているが、だいぶ顔色の良くなったユークは湖の傍にへたりこんだ馬の様子を見ることにした。
馬はかなり疲れているようだが、目立った外傷はなくユークを見上げてくる。いたわるように頭を撫でてやると鼻を鳴らした。休ませれば動けるようだった。
ちょっと見てくるわ、と言って周辺を回ってきたラヴェンダーが戻ってくる。
「今のとこ気配は感じんよ」
「そうか。けどまぁ、長居はしないほうがいいだろうな」
ガイアスが頭をかきながら答える。ラヴェンダーは肩をすくめた。
「せやな。それと……元の街道に戻るんは、道が分からへん。トコどころなぎ倒しおってに、道がぐちゃぐちゃになっとる」
「調子に乗りすぎたかー?」
「……もうちょい早く反省してほしかったわ」
ひく、と黒髪の女性は口を引きつらせる。
さて、とガイアスは湖畔に転がっている岩に腰かけた。
「これからどうすっか」
軽い調子でそう言うが、苦虫を噛み潰したような顔をしていることから、重い意味を込めているのはユークにも感じ取ることができる。
ラヴェンダーも乾いた地面に腰を下ろしながら、己の武器を確認していた。矢の数によって命取りになるからだ。
逃げる際に威嚇のためだいぶ連射をしていたが、問題はないのだろうかとユークは思う。
馬に水を与え、ユークも二人の元へ戻った。斬り倒された木の側面に腰かけたところで、ガイアスがこちらを見ていることに気づく。
「……あー、馬はどうだった?」
「疲れているようですが、大きな外傷もなさそうですし大丈夫でしょう。少し休んだら動けます」
「そうか。……なんだ、その、ユーク」
「なんですか?」
「……悪かった」
言い辛そうにガイアスが言う。ユークは目を瞬きさせた。
「いや、その。怒鳴っちまった」
「……子供じゃあるまいし、そんなことでいちいち怒りませんよ」
そうではない、とガイアスは首を振る。
「オレだってアルフィが心配だ。心配してないわけじゃない」
ユークは数秒閉口したが、やがて首を振った。
「……ガイアスさんは間違ってませんよ」
咄嗟のこととはいえ、アルフィを蔑ろにするような言動をしたこと。ガイアスはそれを気にしているのだろう。
「頭に血を上らせた俺が悪いんです。むしろ言ってくれたおかげで冷静になれました」
ガイアスはそうか、と頷いた。頷いて、赤毛をぼりぼりとかく。
その様子を見ながら、ユークは思った。
言動からして傍若無人のように振る舞っているが、実質は繊細な面も持っているようだ。
根は良い人間なのだろう。
――――あの程度のことで謝るくらいには。
戦闘時、大切なのは冷静でいることだ。
そのために時には感情を切り捨てることもある。
目先のことに捕らわれると命を落とすことにも成りかねない。なにがあったとしても理性を失ってはいけなかった。だからガイアスの行動は正しかったのだ。あそこで止めてくれなければユークは斜面に飛び込んでいた。
今は、それがどんなに無謀なことか理解できる。
だからこそ本来なら謝られることではない。ニンゲンとしての感情を挟まなければ、あれは正しい判断だった。
それが例えアルフィリアのことであっても。
崖下に落ちていく小さな体に届かなかった手のひらを、痛いほどに握りしめる。
時間を戻してほしい。切実にそう願う。そうして呑気にしていた自分を思い切り殴りたい。
己の感情を認識することが出来ないのだ。憤怒なのか、後悔なのか、絶望なのか、入り混じるどろどろとした黒い物が腹の底を暴れている。
今、胸を焦がすじりじりとした焦燥と、訳もなく叫びたくなるような激情を必死に抑え込んでいることを自覚していた。
できることならば今すぐにでも飛び出していきたい。
できることならばあの場所に戻りアルフィを探したい。
できることならばどうして止めたとガイアスを罵りたい。
それでも今はそれをするべきではない。
感情を抑え込むのはユークにとっては〝日常〟で、それは呼吸と同じ感覚で容易いものだった。
理性を切り分けて、そのまま冷たく思考を鎮める。目の前の物事を他人のような感覚で見つめる。
――――今回は、それをすることに酷く苦労をしているけれど。
「……アルフィは」
黙々と作業をしていたラヴェンダーが、ぽつりと呟いた。
「無事、やろか」
「……」
ガイアスも眉を寄せて黙り込む。
「無事ですよ」
答えたのはユークだった。ガイアスとラヴェンダーの視線を感じたが、ユークは地面を見つめたまま顔を上げなかった。
「絶対、無事です」
ガイアスとラヴェンダーは何も言わない。神妙な顔をしているのを感じたが、ユークはあえてそれ以上何も言わなかった。
言葉だけ聞いていればただの希望的観測だ。だがユークには根拠がある。
それぞれが沈黙し、考え込んだことから場に静寂が流れる。その沈黙に合わせ、ユークもまた思考することにした。膝に両ひじをつけ、組んだ手のひらに額を乗せた格好で今の状況を反芻する。
日が少しずつ傾き、しばらくすれば夜になるだろう。夜の森は今よりも更に危険だ。
かといって今の状況ではすぐに馬車を動かすことは出来ない。馬が本調子ではないし、なにより馬を引く役のアルフィリアと逸れてしまった。先ほどの様子だとガイアスに馬車を引かせるのは最終手段にしたい。
だがこのまま湖に留まることも危険だ。敵がいつ襲ってくるか分からない。
二度目の襲撃を予想していたとなると、敵はかなりフットワークも軽く、罠を仕掛けて迎え撃ってきたようだ。ガイアスの無茶苦茶な滑走により時間を稼ぐことは出来たが、敵陣の真っただ中であることに代わりはない。見つかるのも時間の問題だろう。
敵がいつ襲ってくるか分からない。
集団で襲い掛かってこられれば後は消耗戦だ。馬車が動けない以上こちらは身動きが取れず、じりじりと防戦一方になり、やがては体力も消耗する。
なにより――――アルフィの身が心配だ。
いや、アルフィの傍にはジークハルトがいるはずだ。そうユークは自分に言い聞かせる。
カバンがなかった。馬車の中にもなかった。ならばアルフィは持っているはずだ。……そうであって欲しい。
ジークハルトのカバンがない。そのことがユークの理性を取り戻させたのだから。
ジークが傍にいるならある程度は無事だが……今のジークは、力も弱い。
それにある程度旅慣れているとはいえ、今のアルフィは荷物を持っていない。食料も、防寒具も、なにも。
斜面を転げ落ち、怪我をしているかもしれない。
夜になると危険性も上がる。
だが、山道を当てもなく探しに行くのは危険すぎる。
行くか、留まるか。八方塞だ。
事実はじりじりとユークレースの胸を焦がす。焦りと、怒り――――不甲斐無さ。
ユークは手の甲に目を押し付けた。真っ暗な視界の中、ぎり、と唇を噛む。
抑え込んでいたはずの感情が溢れだしそうになる。それを押さえるために、片方の手のひらを強く握りしめ、爪が食い込む痛みを与えなければならなかった。
予想は、出来たはずだ。しなければならなかったのだ。
アルフィが狙われることなど――――最初の襲撃で、気付けたはずなのに。
「……くそ、」
小さく舌打ちをする。腸が煮えくり返りそうだった。
守ると誓った。
護衛すると約束した。
それでこのザマか?
〝また、〟
繰り返すのか?
焦燥に思考が埋め尽くされる。汗がにじむ。
歯を食いしばる。駄目だ冷静になれ、言い聞かせるも動悸が収まらない。
傷のない脇腹が痛い。思わず片手で押さえた。じくじくとないはずの傷が痛みだす。
後悔と焦燥と憤怒、感情がぐちゃぐちゃに乱れていくようだ。どうすれば良いか分からず叫び出しそうになる。
溢れそうになる感情をこらえた。血が滲むほど唇を噛む。
「……――――キッカ」
ぽつり。無意識に、呟いた。
「……お前なら、どうする?」