鶏肉の葡萄酒煮込み 11
「――――アルフィッ!!」
血の気の引いた声を上げ、ユークレースは崖に向かって駈け出した。
斜面に身を乗り出した瞬間、肩を強い力で引き寄せられる。
「馬鹿てめぇ! 落ちる気か!」
「ッ!」
痛いほどの力で引き留められ、ガイアスの強い叱咤が飛ぶ。痛みに顔を歪ませたユークは、己の行動を邪魔されたことに強い苛立ちが沸きあがった。
「離せ!」
「頭に血ィ上らすな! 冷静になれこの馬鹿が!」
振りほどこうとした腕が更に強い力で押さえつけられる。
それでも抵抗をするユークに、ガイアスは退かなかった。退かず、その目に激情を宿し怒鳴りつける。
「――――今は戦闘中だ! 目先のことに捕らわれるなッ!!」
その言葉に、ユークははっと息を飲んだ。
瞬時に動きを止めたユークに、安堵したようにガイアスは息を吐く。
「ガイアス様」
ひらりと傍に黒い影が舞い降りた。しなやかに身を翻し、連射式ボウガンを構えたラヴェンダーが強張った表情で降り立つ。
そのラヴェンダーが促した先に視線を向け、思わずガイアスは舌打ちした。
「……マジかよ」
ラヴェンダーが矢を構えた先、先ほどアルフィリアが襲われた森の側面から新手が出てきた。
数は少ないがそれぞれ武器を持った人型の魔物、そして新たに黒い大型の獣が三匹。姿かたちは狼に似ているが、だらりとした尻尾や痩せ細る体は生気が感じられず、不気味だ。
そして人型の魔物と共通していて、虚ろな瞳を宿している。
前面と側面を魔物に囲まれた上、馬車を動かす者がいない。
背後は急な斜面だ。下は暗く森が生い茂り、見ることができない。当然馬車で下れるものではなく、落ちていったアルフィの身も気になる。
状況は一気に追い詰められる結果になった。
ふと、ガイアスの掴んだ手が動く。
ユークが身じろぎをし、腕をやんわり外したのだ。その視線は斜面を見下ろしていたが、やがてぐるりと周囲を巡らす。
青い瞳が馬車の運転席を捕えた。――――カバンは、ない。
「……――――来るでッ!」
ラヴェンダーの警告が響く。武器を構えた視界の中、牙をむき出しにして襲い掛かる獣、そして武器を振り上げて突撃する魔物の姿があった。
「………………う、」
脳天を突き抜ける痛みは、それだけで覚醒を促した。
息を吐きながらうっすら目を開ける。黒く塗りつぶされた視界が、ぼんやりと輪郭を持った。
意識が浮上するたびに自覚する体の痛み。……全身が、ひりひりと痛んでいた。
その視界の隅、薄暗い色の中に蠢く何かがある。白く、ぼんやりとした姿。
「キュ? キュ?」
聞き覚えのある鳴き声と共にしめっぽい何かが頬に触れた。つんつん、と尖った何かで突かれる。
「……ジーク?」
ぼんやりとした意識の中、呟いた名前は無意識のものだった。心もとない呼びかけだったが、目の前の白い色はその瞬間「キュッ!」と元気よく返事をした。
アルフィリアは瞬きを繰り返し、そっと起き上がる。全身がひりひりと痛んだが、どうにか動かせるようだった。
顔のすぐ横に銀色の前足があった。体を起こすと、ちょこんと座った銀色の子竜が赤い瞳で見上げている。
冷たく、湿った柔らかいものが体の下にある。見ると、生い茂った草と柔らかな土だった。
周囲を見回す。ぐるりと首を回しても、あるのは木、木、木。森。土。
首を巡らす。背後にはむき出しの地面があり、斜面となって高く続いていた。斜面の先は、ここからでは見えない。
ずきずき痛む肩を押さえ眉をひそめたアルフィは、思い出した光景に息を飲んだ。
「そうだっ! 魔物は!?」
脇腹から獣に突っ込まれ、同じように転げ落ちたのだ。記憶が正しければ周辺に居るはずだ。
だがジークハルトの「キュ!」という声に、視線を落とす。
いくぶんか胸を張ったらしい子竜は、尖ったくちばしをある方向へ向けた。
アルフィが視線を向けると、そこには黒いなにかが蹲っていた。
ぴくりとも動かない、狼のような獣だった。毛皮がところどころ焦げている。全身が傷だらけで、焦げ臭い匂いが漂っていた。
「……やられてる?」
少なくとも命は落としているだろう。投げ出された全身が物語っている。
「……ジーク、お前がやったのか?」
「キュ」
そうだよ、とでも良いだけにジークが返事をした。獣の喉元に鋭く噛みついた跡がある。ジークハルト自身も良く見ると泥だらけだ。
「っ、怪我は!?」
大型の獣と戦ったのだ。アルフィが慌てて問いかけると、ジークは首をぷるぷる振り「グエ」と鳴いた。怪我ないよ、と言いたいらしい。
「そうか、良かった。……ありがとうな」
安堵して、息を吐いた。
それから感謝の意を込めてゆっくりとその頭を撫でる。ジークは気持ちよさそうに目を細めた。
状況を鑑みるに、アルフィはユーク達とはぐれてしまったらしい。
参ったな、とアルフィはため息をつく。ジークハルトのカバンを持ったままだったのは僥倖だった。
斜面を転がり落ちたが、柔らかい腐葉土がクッションとなり大きな怪我もないようだった。両手足は動かせるし、骨も折れていないようだ。しいていえば、ところどころに擦り傷や打ち身があるくらい。険しい斜面を転がり落ちてこの程度の怪我で済んだのなら、幸運としか言いようがない。
ただ、覚醒を促した肩の痛みは酷いほうだった。ゆっくり腕を回してみれば、ずきりと痛む。上着をまくってみると青あざができていた。熱も帯びている。
動かせないほどではないが、あまり無理をするのも考え物だろう。
ため息をつく。全身を確認したが手当できるようなものはない。ダガーと手首のブレスレットはなくさなかったようだ。
ふと、ジークが足元にすり寄ってきた。
アルフィが全身の状態を確認している間ふらふらとどこか歩いていったのだが、戻ってきたようだ。
何かを口にくわえていた。草のようだった。
丸い形の葉が生い茂る草を、ジークは差し出してくる。
「……なんだ?」
受け取ると、ジークは「ペッ」と軽く咳き込んだ。……苦かったのだろうか?
しばらく口の周りを拭く仕草をしていたが、アルフィが受け取ったまま動かないことに気が付くと、とてとてと側面に回ってきた。肩のあたりに鼻を押し受け「キュ」と鳴く。
「……薬草か?」
見上げてくる仕草でピンときた。ジークが返事をする。
草をそのまま肩に当ててみた。ひんやりとした感触が広がってくる。
しばし迷ったが、近くにある石で草を潰すことにした。緑色の液が滲みだしたころ、再度肩に押し当ててみる。
氷のようにひんやりとした感触があり、なるほど、とアルフィは思わず呟いた。湿布のような効果があるのだろう。
草の強い匂いが漂う。上着の裾から見つけたハンカチでそれを覆い、その上から上着を四苦八苦しながら結んだ。多少形が崩れてしまったが仕方ない。
「これでいいのか?」
「キュ」
ジークが返事をした。
草の汁で濡れた手を服にこすり付けて拭きながら、ふと、アルフィは考える。
「お前、良く知ってたな。人間が使う薬草とか」
つくづく思うが、ジークハルトは頭がいい。ドラゴンにも効能のある草なのだろうか。
ジークは首を傾げている。それから「ギャウ」と鳴いた。
唐突に、悟った。
「……そうか、」
息を飲んで告げる。
「……――――もしかして、ユークが使ってたのか?」
「キュ」
ジークが返事をした。
銀色の子竜は覚えていたのだろう。己の主人が使用した草の種類を。
鼻が覚えていたのだ。己の主人もまた、このように使用したはずだと。
同時にそれは、
「……ユークも同じように怪我を負って、自分で手当てをしていたんだな」
山で同じような目に遭いその場にある薬草を使った。同じ状況があったからこそ再現できたのだ。
「なんだか信じられないな。あいつが怪我するなんて」
そんな状況ではないはずなのに、思わず笑みが零れてしまう。
アルフィの知っているユークレースという人間は、強い。
普段は頼りないが剣を抜くと雰囲気を一変させる。身がすくむような恐ろしい魔物に一歩も退かない。しなやかな動きはそれだけで相手を圧倒していたように感じる。
アルフィの知る限り、怪我をした様子はなかった。
……いや、とアルフィは考え直す。
――――――――うめき声を聞いたことがある。脇腹を必死に抑えて苦痛の表情を浮かべていた、夜。
「あいつだって怪我することぐらいあるよな」
ジークが首を傾げた。なんとなくアルフィは眉を下げる。
「……お前たちは、ずっと一緒に居たんだなぁ」
怪我の治療をする姿を、銀竜はこうして眺めていたのだろうか?
この草は打ち身にいいのだと、教えてもらっていたのだろうか?
アルフィの知らないことも、ジークは知っているのだろう。
あの脇腹の傷も。彼が呟いた、名前の意味も。
「……ユークが心配しているぞ、きっと。戻らないとな」
アルフィはそっと銀竜の頭を撫でた。
草の強い匂いがこびりついていたはずなのに、ジークは抵抗せず大人しくしていた。