白ご飯のおにぎり 10
岩場に立った細い姿を、ぎょろりとした目が捕えた。
すぐさま触手が鎌首をもたげる。だがそれを遮るように火球が空間を彩った。
「ジークッ!」
ジークハルトのフォローを感じながら、けれどすぐさまアルフィリアは右手に印を結び、言葉を乗せる。
「ブレスを吐き続けてくれ! できれば五秒間!」
突然の命令に戸惑いを覚えたのかそうでないのか、アルフィの立つ場所からジークの姿は見えない。だが咆哮を上げひときわ大きな火球が出現する。了承の意をくみ取り、アルフィも素早く印を結んだ。
その唇から、独特の音律が滑り落ちる。
「――――ApaRinNi AiNei KaA IeliEe NeraU UroNauS」
触手が無数の火球の間を縫って飛んできた。空を切り切迫する。
そのひとつを、間に入ったユークレースが叩き落した。
瞬間、アルフィの凛とした声と共に片手が突き出される。
「AuDI ……FlaMMA―――― !」
――――同時に。
ジークの口から出した炎が、ひときわ大きく輝いて空間を圧迫した。燃え上がるそれは数倍の質量になり、叩き落そうとした触手ごと燃え広がる。
ぎょろりとした目が大きくなり、その口から不気味な声が轟いた。
悲鳴のようなそれは別の触手で燃え広がる触手を切り落とす。炭になったそれはぼろぼろと水面に零れ落ちた。数本巻き込んだらしい。
ユークレースが呆気にとられた顔を浮かべる。水蒸気で湿度が上がったせいではない、汗がぽとりと落ちた。
「……ち、外したか」
しかしアルフィはユークの背中で舌打ちする。
「だがいつもより調子がいいな。――――今度は目を狙えジーク! 小さいやつでいい! 援護は私がする!」
ジークも意図を悟ったらしい。咆哮ではない普通の鳴き声が聞こえ、低いうなり声を出す。
ユークもまた我に返るのが早かった。
「火を強くできるんだ」
状況を悟った問いに、アルフィは目線を向けず答える。
「あいにく私はジークのように〝火種のない場所から炎を出す〟ことはできないがな」
――――魔術言語。
それはひとつの理を崩す物。特定のキーワードと発音を用いて、超自然現象を可能にするもの。
しかしそれには制限がある。――――〝その場にないもの〟を出現させることはできない。
「火種があれば火を起こせる。強くできる。……あくまで自然の摂理を無視することはできないが」
例えば水をお湯に変えることはできるが、水を火に変えることはできない。それが魔法の原則だ。
簡単な説明だったが、ユークはひとつ頷いた。それから前を見据えてこう言う。
「アルフィ、目を狙わなくていい。周りの触手をすべて落としてほしい」
「ジーク次第だが……どうするんだ?」
「俺のほうが確実だから」
ユークは剣を持ち直した。
「あと俺が使う竜術は、もろもろの都合上一日一回にしてるの」
「……その一撃にすべてを掛ける?」
「お膳立てよろしく」
ユークの語り口調がいつものそれに戻る。その雰囲気は余裕の表れだ。活路を見出した者の。
アルフィはため息をついた。
「……これ、実は結構疲れるんだ」
「肩もみます」
「いらん。それよりあれ食べたい。アレアまんじゅう」
「……買わせていただきます」
短く交わす言葉は視線を合わせない。けれどもお互い、不敵に笑う。
剣を構えてユークが疾走する。
アルフィが詠唱を開始した。呼応するようにジークが火球を出す。複数の小さなそれを連発し、いたるべき場所に散らす。
触手が伸び、小さなそれをいくつかが風圧でかき消した。だが数が多く、すべてを消すことはできない。
炎が空間を満たす。小さなそれが浮遊する瞬間、アルフィの呪文が完成する。
「――――……AuDI FlaMMA aL !」
凛とした声が叫ぶと同時に、クラゲもどきの周辺が爆発した。
いや、爆発したように小さな火球が炎上したのだ。
かっ、と赤く光を帯びて満たした炎の渦はクラゲもどきを包む。ぎょろりとした目を見開いた瞬間、周囲の触手が燃え広がった。
一瞬の光景だった。
魔物の周囲を囲った火が消えると同時に、水が弾ける音と黒い炭が落ちてくる。
その時にはもう、ユークレースは到着していた。
浮遊するように立つ魔物の下。正面。ジークの待つ岩場へ。
衣服が風をはらみ、落ち切る前にユークは姿勢を低くする。まっすぐ見据える青の瞳は静かだ。
そのまま剣を持ち変える。
水蒸気が空間を満たし、炎で明るくなった空間が暗くなる。そのわずか数秒で、ユークは剣をためらいなく投げた。
「――――ジークッッ!!」
ユークレースが叫ぶ。同時に、ジークハルトの咆哮が重なる。
投擲された剣はその剣先が炎に彩られると同時に、見開いた目玉の正面に突き刺さった。
肉を裂く音と共に、不気味な叫びが空間を震わせた。耳を塞ぎたくなる音のさなか、暴れる魔物を押さえるかのように剣を中心として炎が燃え広がる。
「……――――AuDI 」
血を流し異形の生物が痛みでもがき苦しむ中、アルフィは冷静に呪文を紡いでいた。正面に掲げた手を魔物に向け、最後の一言を乗せる。
「……――――FlaMMA !」
呼応するかのように、ジークハルトの炎が魔物の体内から燃え上がる。
それは炎柱と化して、業火は断末魔の悲鳴ごと飲み込んだ。
余韻に浸ることなく、早々に洞窟から引き上げることにした。
燃え落ちたとはいうものの、あのクラゲもどきが完全に倒したのかは確認しなかったし、それに時間を取られるのならば退散したほうがいいとユークが判断したからだ。
また、焦げ臭い匂いと蒸し暑いじっとりした空気に満たされた空間は長居したくなるものではない。
リコリスは今だ意識を取り戻していなかった。怖い思いをさせたが、リコリスに戦いを見られなかったのは救いだろう。
その判断は良かったのだが、その先はあまり褒められたものではなかった。
リコリスの傍で茶虎のネコがじっと見ている。ユークは固まっている。
「ね、ね、」
「……ナァくんだ、きっと」
化け物を見ても引かなかったのに、自分よりはるかに小さいネコ一匹にしり込みをする青年を、アルフィは黙って見つめた。
体はちょっと大きかったが、普通のネコだ。だがユークのこの様子だと本当に苦手らしい。
さてどうするかと首を捻った時、ジークが興味深そうに近寄っていくのが見える。
びくっとネコがする。
近づく。後ずさる。近づく。毛を逆立て威嚇する。ユークがびくっとなる。ジークは首を傾げる。
アルフィはとりあえず静観した。ユークがびくっとなったついでにアルフィの腕を取り、振り払っても良かったのだが諸事情により動きたくなかったのでじっとしていた。
ジークがネコに向かってひと声鳴いた。キューッという鳴き声だ。
キューキュ。ギャウ。キュイ。
毛を逆立てたネコが、毛を収めた。怪訝そうにこちらを見やり、ジークを見、それから。
しぶしぶ、といった調子でその場から離れ、背を向けて歩き出す。
「……動物対話?」
なんにせよ、ユークは主人思いのドラゴンを持ったものだ。
ネコが離れたので、とりあえずリコリスに近づけるようになった。
ユークはまだビクビクしていたが、離れた場所で動こうともしないネコの様子を見つつ、恐る恐るリコリスに近づく。そして腰を落とした。
「運ばせてもらうね?」
律儀に小さなナイトにひと声かけると、ユークはリコリスを抱え上げる。
それから背中にいるアルフィを首だけで振り返った。
「アルフィはこっち」
「へ?」
よいしょと背中を向け、催促するユークにアルフィは目をきょとんとさせた。ユークは少しだけ困った表情を浮かべる。
「……足、痛いんでしょ? 歩けないんじゃない?」
アルフィは思わず息を呑んだ。
先ほどの戦闘で、ユークを庇ったときに右足を捻ったらしかった。時間が経つにつれじくじく痛み出しているが、アルフィは顔に出さないよう努めていた。
「痛くない」
「嘘。捻ったでしょ」
「……捻ってない」
「アルフィ」
悔しくてアルフィは顔を背けたが、ユークはまるで幼子を諭すような声で名前を呼んだ。
「大人しく負ぶさってきなさい」
「……、」
その言葉になんとなく抵抗を感じる。背中を向けしゃがんでいるユークにまるで抱きつくようにしなければならないし、単純にその格好自体が気恥ずかしいのだ。
「……一人で歩ける」
「認めません」
笑みを含んだ声は、しかし容赦がなかった。有無を言わせぬ一言に思わず声が詰まる。
「……重いだろ」
「女の子二人くらいへーき」
なんでもなさそうに言うユークだが、直後、ぼそりと一言。
「……たぶん」
「やっぱり自分で歩く!」
微妙に乙女心を刺激されたアルフィはすかさず抗議した。だがユークは譲らない。
「いい加減俺も体勢きついんだけど」
「……っ」
「恥ずかしいなら、リコリスおんぶするから手伝って」
言われるがままリコリスの体勢を変えると、ユークはよっこいしょと立ち上がり、アルフィに手を差し伸べる。
「ほら」
「……え、と」
「せめて寄りかかって。……でないと強制的にだっこする」
笑顔で言われた一言には妙な威圧感があった。
そんなわけで、アルフィはユークの肩を借りながら歩くことになった。ちなみに再度作った灯篭はアルフィが持った。
のだが。
「……あんまり変わらん」
「なにが?」
肩を抱かれるように引き寄せられているので、気恥ずかしさは変わらなかった。残念ながら。
アルフィを気遣ってゆっくり歩くユークをちらりと見上げる。先導して歩くジークと、その隣を歩くネコを見ながら進むユークはこちらを見下ろしていない。
先導する二匹と多少どころか明らかに距離を置きすぎているのと、ネコが振り返るたびにびくっと怯える姿は情けないが、幼子を抱え、更にもう一人を支えながらだというのに、その体はびくともしない。
戦いの後でもいつもと変わらない様子で、冷静に物事を判断していた。アルフィが呆然とする中、名前を呼んで気を引き、町へ戻ろうと提案したのも彼だ。その後に見せた表情は情けないものだったが。
なんだか不思議な気がした。先ほどはそれこそ命を懸けた戦いをしていたのに。こうしていつもと変わらない会話をして、いつもと変わらない態度でいることが、酷く不思議に感じる。
ふと、ユークが何かを見つけて頭を落とした。足元の石を見つけて軌道を変えたらしい。ぐい、と抱きしめられ、その拍子にふわりと息がかかる。
煤で汚れた頬と、涼やかな整った顔立ちがすぐ近くにある。細身であるが意外にがっしりした体と、暖かいぬくもり。
今更ながらこの体勢はなんだ。近づきすぎじゃなかろうか。
途端、顔が赤くなった。足は痛いが、突然落ち着かなくなる。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
こちらを伺うユークを、顔を伏せることで避けた。赤い顔を悟られないように。
「……ん?」
一方アルフィに顔をそむけられ、首を傾げながら前を向いたユークが疑問の声を上げる。
ジークが立ち止まり、鼻を鳴らしていた。
「ジーク?」
声をかけると、答えるようにひと声鳴く。それから短い手足でちょこちょことわき道にそれるジークを、ユークが慌てて止めた。
「ちょ、ジークそっちは違うよ」
だが戻ってきたジークがくわえていたものを見て、ユークは目を見開いた。