表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

三度目の曲だけ、予定どおりに終わりません

作者: 七尾 いと
掲載日:2026/08/23

「三回です」


 ベアトリス先生は、私とクレマン様の手を重ねた。


「王宮の式典まで、臨時の組として三回。転ばず、踏まず、逃げず。以上」


「最後だけ難易度が高くありませんか」


「あなたは逃げるでしょう」


 逃げません。後退を前進のように見せるだけです。


 二十歳の伯爵令嬢として、舞踏会から露骨に逃亡するのは減点対象だった。臨時の組なのだから、三曲ぶん立っていれば合格。恋まで採点表へ紛れ込む余白はない。


 向かいに立つクレマン様は、いつもの社交用の微笑を浮かべていた。口角よし、背筋よし、手袋の白さよし。欠点は、私を見ている時間が少々長いこと。


 きっと、断り方を吟味している。


 採点、継続。


「先に申し上げておきます」


 彼は重ねた手に力を入れず、けれど離れもしなかった。


「あなたを選ぶつもりはありません」


「ご安心ください。わたくしも、三曲で生涯を決めるほど足し算が苦手ではございません」


「それはよかった」


「本当に安心したお顔をなさらないでください。腹が立ちます」


「困りました。どの顔なら正解でしょう」


「少し後悔なさっている顔です」


「努力します」


 曲が始まった。


 右、左、寄せる。回る。三歩目で、クレマン様の歩幅が私より半足ぶん短くなる。五歩目でまた半足。私の左足へ体重が落ちないよう、腰の向きを変えている。


 拒絶した相手への礼儀としては丁寧すぎる。たぶんこの方は、椅子にも怪我をさせない。


「歩幅を合わせすぎです」


「先生の命令ですから」


「先生は半足まで指定しておりません」


「では、私の趣味です」


 趣味が地味。


 一曲を終えた私は、控えの長椅子で一度だけ靴を脱いだ。


 踵へ食い込んでいた宝石飾りの裏が、赤く濡れていた。


 すぐ隣で、クレマン様の微笑だけが消えた。


    *    *    *


「一、二、三、四、五、六、七」


「階段は八段ありますよ」


「存じております。七つずつ数えるほうが落ち着くのです」


「最後の一段は」


「余りです」


「階段に余りを作る令嬢は初めて見ました」


 二度目の稽古場へ上がる私たちを、ベアトリス先生が下から眺めていた。


「歩幅は合っている。今日も同じ組」


「数え方まで採用基準なのですか」


「転ぶ者は数えない。踏む者は相手を見ない。この二人は数えて見すぎる。組ませるにはちょうどいい」


 見すぎる、のところでクレマン様が私を見た。


 一回。


 いや、数えるな。そこは採点項目ではない。


 二度目の曲は速かった。右、左、回転。四拍で列が交差した瞬間、隣の組の踵が私の左足へ滑り込んできた。


 クレマン様の右手が私の腰を引く。私の身体が半回転し、相手の踵は空を踏んだ。


 代わりに、彼の右足が不自然な角度で床をこすった。


 顔は笑っている。足首は笑っていない。


「今、ひねりましたね」


「あなたこそ、左足をかばっていますね」


「質問に質問で返すのは減点です」


「踊りながら採点するのも減点では?」


 次の回転で、彼の重心が浮いた。


 私は握られている左手を一段高く押し上げ、彼の肩を支点に変えた。右足へ乗るはずの体重をこちらへ引き取る。私の左踵が痛む。彼の右足首も痛む。素晴らしい。二人合わせて一人前の歩行能力だ。


「交代を申し出ますか」


「そちらこそ」


「わたくしは無傷です」


「私もです」


「嘘がお上手」


「お互いさまで」


 口は動く。足も動く。どちらかが痛いと言えば、組はその場で解消される。


 だから私たちは、曲が終わるまで毒舌だけを交換した。


 最後の礼で顔を上げると、クレマン様は列の向こうではなく、まっすぐ私を見ていた。


 二回。


 数えていない。断じて。


    *    *    *


「最後の式典ですが、クレマン様の代役を立てられます」


「一、二、三、五」


 ベアトリス先生の言葉を聞いた途端、私の足から四が逃亡した。


「四」


「存じております」


「では、もう一度」


「一、二、三、四、六」


「五も逃げたわね」


 代役候補は、健康な足を二本持つ侯爵令息だという。立派。左右とも痛くない。それだけで舞踏相手として百点満点である。


 百点満点すぎて腹が立つ。


「その方でよろしいのでは」


 クレマン様は窓辺に立ち、私ではなく庭を見ていた。横顔の微笑は一度目より上手だった。後悔している顔の練習だけは続けていたらしい。


「あなたの足に合わせられる方なら」


「健康な方は、健康な歩幅で歩きます」


「そのほうがいい」


「何がです」


「私が組を外れれば、あなたは左足を悪化させずに済む」


 庭を見たまま、彼の右踵がわずかに浮いている。


「ご自分の足でまともに立ってから、他人の足を心配なさってください」


「立てています」


「右だけ逃げ腰です」


「あなたの左よりは働き者ですよ」


「比べる基準が低すぎます!」


「そこまで」


 ベアトリス先生の杖が、私の左靴と彼の右靴を順に指した。


「痛い足で完璧を気取るなら、せめて左右で揃えなさい」


 クレマン様の社交用の顔から、綺麗に表情が抜けた。


 私もたぶん同じ顔だった。痛みを隠し通していたつもりの二人が、左右不揃いという理由で叱られている。舞踏教師の観察眼は、医師より容赦がない。


「続けるなら、飾りではなく足に合う靴を履くこと。歩幅も同じ。見栄を履いて大広間へ出るな」


「ですが、式典で革靴は」


「転んで寝台へ運ばれるよりは上品よ」


 反論の余地がない。寝台は踊らない。


 式典当日、私は履き慣れた茶色の革靴を選んだ。クレマン様も艶を抑えた革靴だった。


 大広間の扉の前で、彼は私の足元を見て、ようやく息を吐いた。


「お似合いです」


「宝石がなくても?」


「歩いて帰れる靴が、いちばん似合います」


 返事を探しているうちに扉が開いた。


 また数が飛んだ。


    *    *    *


 大広間へ踏み出した途端、視線が革靴へ集まった。


 一、二、三十人。そこから先は数えない。社交界の好奇心を正確に集計しても、私の機嫌が悪くなるだけである。


 磨いた床に宝石靴が並ぶ中、私たちの足元だけが散歩帰りのようだった。ひそめた声が右から左へ渡っていく。革靴。式典に。まあ。


 まあ、何だ。


 最後まで言っていただきたい。こちらには採点表がある。


「やめますか」


 クレマン様は前を向いたまま、右手を差し出した。


「それは、わたくしが逃げると思ってのご質問?」


「私が逃げたいので、道連れが必要なのです」


「正直で結構です。加点一」


「満点まであといくつですか」


「未定です」


「厳しい」


 私はその手を取った。


 手袋越しの指が一度だけ強く閉じ、それから正しい位置まで緩む。肩より少し下。私の左足を前へ出さなくて済む角度。初回と同じ、半足ぶん短い歩幅。


 曲はゆるやかに始まった。


 右足を後ろへ。左は置くだけ。彼の右足へ体重が集まらないよう、私は腰を左へ向ける。彼は私の左踵を守るため、回転の中心を自分側へ寄せる。


 互いに互いをかばった結果、円が少しずつ楕円になる。


 優雅さ、七十二点。


 生存率、満点。


「近すぎませんか」


「離れると、あなたが左へ乗ります」


「クレマン様こそ、右足を引きずっています」


「床の模様を眺めていただけです」


「足裏で?」


「新しい鑑賞法です」


 一列目との交差。彼の右手が私の腰を押す。私は左足を滑らせず、踵を浮かせたまま半歩だけ送る。右、寄せる、回る。彼の視線が一度、私の足元へ落ちる。一度、顔へ戻る。もう一度足元。


 三回。


 かばわれた回数まで数えるな、私。そこは採点項目ではない。


 次の旋回で、若い令嬢が私たちを見て笑った。隣の男性が耳元へ何か囁き、令嬢は自分の宝石靴を見下ろす。


 クレマン様の指が固くなる。


「靴の選択を後悔していますか」


「いいえ」


「では、なぜ怒っていらっしゃるの」


「笑われるのが私だけなら、もっと楽でした」


 足が止まりかけた。


 危ない。心臓が十年先まで走り出したせいだ。十年後、朝食の席でこの人は私の靴を確認するのか。階段を七つ数えるたび、最後の一段で待つのか。いや待て、なぜ十年。三回限り。今日で終わり。明日からは健康な足が二本ある誰かと——


「一、二、三、四、五、八」


「今、六と七を捨てましたね」


「不要でした」


「あなたの数え方で不要になるなら、階段の余りも報われません」


 クレマン様が笑いかける。


 作った笑顔ではない。けれどすぐ、口元だけの微笑へ戻ってしまった。


 減点。今の顔を隠したので減点十。


「代役の方は、踊りがお上手だそうです」


 口から出た。


 なぜ今。私の口は頭の許可を得ずに嫉妬を提出しないでほしい。


「そうでしょうね」


「健康ですし」


「ええ」


「お若い令嬢からも人気があるとか」


「私より一つ年上ですが」


「年齢の話はしておりません」


「では、何の話を?」


「もう結構です!」


 数がまた飛ぶ。右、左、五、腹立たしい男、七。


 クレマン様は少し俯いた。肩が揺れている。


「笑っていますね」


「いいえ」


「笑いました」


「光栄です。あなたが私の代役をそこまで詳しく調べてくださったので」


「一般知識です」


「私の縁談相手に関する一般知識もお持ちですか」


「何人かは」


「何人」


「足元を見てください」


「ごまかしましたね」


「次は回転です」


 右手が腰へ添えられる。近い。近い近い近い。社交上の適正距離より指一本ぶん近い。いや負傷者二名の安全距離としては正しい。正しいなら仕方ない。仕方ないが、私の数はどこへ行った。


 楽団の弦が高く跳ね、曲が速くなる。


 私たちは半歩をさらに半分にした。


 右足を出す。左は引きつけるだけ。彼が右足を着く前に、私が手を押して重さを受け取る。腰を正面へ。視線は肩越し。次の一拍で位置を交換。私の左踵が床へ触れそうになる前に、彼の腕が身体を浮かせる。


 そのたびに、彼の右足へ負担が落ちた。


「クレマン様」


「大丈夫です」


「まだ何も言っておりません」


「顔が言っています」


「わたくしの顔を見ているのですか」


「ずっと」


 今度こそ、左足まで止まりかけた。


 ずっと。


 たった三文字で足運びを破壊するのは、舞踏会の規則に反する。


 彼は私を立て直すため、右足を強く踏んだ。


 息が詰まる音がした。微笑は残ったまま、眉の内側だけが寄る。手の高さが半寸落ちた。


 同時に、楽団の一人が拍を落とした。


 弓が空を切り、低音が一つ遅れる。次の奏者が拾おうとして、今度は二つの音が重なった。


 大広間を満たしていた三拍子から、一拍がこぼれた。


 クレマン様の右足が床につかない。


 私の左足は、彼を支えるには弱い。


 六で止まれば彼が痛い。


 なら、七まで行く。


「わたくしに合わせて」


 返事を待たず、私は握った手を上へ押した。


 一。右足を斜め前へ置く。


 二。彼の右足が下りる前に、腰を近づける。


 三。左足は滑らせるだけ。踵を使わない。


 四。彼の身体を半回転。右足ではなく左足を軸にする。


 五。重心を二人の間へ落とす。


 六。止まらない。止まれば、彼が痛い。


 七。余った一歩を、彼の右足の外側へ置く。


 型から外れた私の革靴が、床を鳴らした。


 列席者のざわめきが膨らむ。


 クレマン様は一瞬だけ目を見開き、次の一拍で私の動きを理解した。


 一で手を引く。二で私の左側へ入る。三で腰を支え、四で自分の右足を浮かせる。五で私を回し、六で呼吸を合わせる。


 七で、二人同時に余る。


 真正面で顔を見合わせた。


「これは舞踏ですか」


「わたくしに聞かないでください!」


「あなたが始めたのに」


「足は無事でしょう」


「はい」


「では加点です!」


 次の七つが来る。


 今度はクレマン様が先に動いた。左、寄せる、押す。私の左踵が床へ下りない高さで腰を支え、五つ目で向きを変える。六つ目で彼の右足が震えたから、私は肘を張って彼をこちらへ引いた。


 七つ目で、二人とも横へ跳ねた。


 革靴が揃って鳴る。


 優雅ではない。まったくない。王宮の大広間で披露するものとしては、採点不能。けれど彼は倒れない。息が苦しいのは、痛みではなく速さのせいだ。


 してやったり。


 私たちの足は、今のところ社交界より賢い。


 楽団の低音が、私たちの七つ目を拾った。


 一人の奏者が遅れた音を長く伸ばし、別の奏者が短い二音を差し込む。指揮者の手が迷い、ベアトリス先生を見る。


 先生は腕を組んだまま、止めない。


 ならば続行。


 三度目の七つで、クレマン様の額に汗がにじんだ。


「無理をなさらないで」


「あなたに言われたくありません」


「わたくしは上手に無理をしております」


「私もです」


「右足が震えています」


「あなたの手も」


 握られた指先が震えている。


 違う。痛みだけではない。クレマン様の顔を見上げたせいで、呼吸の数まで分からなくなった。


 視線が絡んだまま、彼は左足を出した。私も右足を出す。手の高さが揃う。腰の向きが揃う。傷めた側を互いに外へ逃がして、健康な側だけで一つの軸を作る。


 回る。


 革靴の底が、七つ目で同時に鳴る。


「三回で終えるつもりでした」


 彼の声は、息の合間から落ちた。


 次の一。私が右へ。


「あなたの縁談を邪魔しないように」


 二。彼が左へ。


「私が隣にいなければ、あなたはもっと条件のいい方を選べる」


 三。手を押す。


「健康な足の方?」


「そこを重視していたわけでは」


 四。腰を回す。


「では、若さ?」


「私より年上です」


「人気?」


「どうしてそこへ戻るのですか」


 五。彼の肩が揺れた。今度は笑いではない。右足へ重さが落ちかけ、私は腕を引いた。


 六。


 私たちは近づきすぎた。額が触れそうな距離で、息だけがぶつかる。


 軽口は、そこで途切れた。


「三回では、足りません」


 七つ目を、彼は踏まなかった。


 代わりに私の手を胸元へ引き寄せる。速い鼓動が、手袋越しに伝わった。


「式典が終わっても、次の曲でも、その次でも。あなたが数を間違えるたびに、隣で拾いたい」


 視界が滲み、彼の輪郭が二人に増えた。困る。クレマン様が二人では、どちらの足をかばえばいい。


「返事は、今でなくて構いません」


「今、踊っております」


「はい」


「右足も痛いでしょう」


「かなり」


「では、余計なことを仰らないで」


「余計ではありません」


 彼の手が震えた。


 私の頬を拭こうとはせず、踊るための位置に戻る。腰へ添えた手は低すぎず、高すぎず、私の左踵を守れる場所にある。


 それが腹立たしいほどクレマン様らしかった。


「それでも」


 一。彼が左足を置く。


「私を選んでくださいますか」


 二。


 私は目元を拭かなかった。そんなことをすれば、握った手を一度離さなくてはならない。


 三。


 指を絡めるほど強く、彼の手を取り直す。


 四、五、六。


「あなたを選ぶつもりはありません」


 七つ目を、二人で踏んだ。


    *    *    *


 クレマン様が足をもつれさせた。


「今のは、どちらの意味ですか」


「言葉どおりです」


「手が言葉と合っていません」


「手は舞踏中ですので」


「では、曲が終わったら聞きます」


 そのとき、ベアトリス先生の指が上がった。


 楽団へ向けて、一度、二度、最後に七つ目を鋭く振る。


 低音が跳ねた。弦が追う。管が一拍余らせる。


 七拍子が大広間いっぱいに広がった。


「一、二、三、四、五、六——どこ?」


 近くの若い二人が、七つ目の足を同じ場所へ置いて膝をぶつけた。顔をしかめたあと、先に令嬢が吹き出す。


 年配の夫婦は六つ目まで完璧だった。七つ目で夫が妻の裾を踏み、妻は彼の肩を杖のようにつかんで立ち直る。


「あなた、昔から余った足の置き場所が下手ね」


「余ったことがなかったんだ」


 二人揃って笑いだした。


 三組目は、左右どちらも七つ目を譲ろうとした。譲り合った結果、そろって後ろへ下がり、背中から別の組へぶつかる。四人の足が絡まり、誰かが「八!」と叫んだ。


「七です!」


 反射的に訂正した私の声を、大広間のあちこちが拾った。


「七!」


「今のは六だ!」


「一つ余った!」


「そちらへ置かないで!」


 宝石靴が鳴り、革靴が鳴り、裾が回る。七つ目の足をどこへ置けばいいのか、誰にも分からない。分からないまま隣とぶつかり、ぶつかった相手と笑い、また最初から数え始める。


 楽団も無事ではなかった。


 一人が落とした拍を別の奏者が拾い、拾った者が次を落とす。指揮者の肩が震えている。管楽器の奏者は唇を引き結び、弦の奏者は俯いたまま笑いをこらえて弓を動かす。


 完璧な舞踏は、もう大広間のどこにもなかった。


 クレマン様の顔から、社交用の微笑が剥がれ落ちた。


 口が開き、目尻が下がり、肩まで大きく揺れる。こんなふうに笑う方だったのか。二十二歳にもなって、七つ目の足を私の革靴へ軽くぶつけ、ますます笑っている。


「笑わないでください」


「あなたも笑っています」


「笑っておりません」


「では、その声は?」


「呼吸です!」


「ずいぶん楽しそうな呼吸ですね」


 否定しようとして、腹が痛くなった。踊りながら笑いすぎて、腰が折れる。クレマン様の肩につかまると、彼も支えきれずに傾いた。


 二人で七つ目を踏み損ねた。


 今度は私たちが隣の組へぶつかり、六人まとめて笑った。


 目元から落ちた雫は拭かなかった。手はクレマン様の手を握ったまま。革靴の中で爪先を動かす。痛みはある。けれど新しく濡れる感触はない。彼も右足を床につけ、顔をしかめず立っている。


 これなら帰れる。


 この人と、歩いて帰れる。


 曲が終わった。


 最後の音が天井へ消えても、私たちは手を離さなかった。


「終わりました」


 クレマン様が言う。


「ええ」


「お返事を」


「わたくしは——」


 近くでまた誰かが七つ目を踏み外し、「八!」と叫んだ。


 大広間がどっと揺れる。


 クレマン様まで笑うものだから、私も続きが言えなくなった。返事を待つ顔で笑わないでほしい。こちらも笑ってしまって、今度こそ曲が終わらない。


 ベアトリス先生が指揮者へ顎をしゃくった。


 楽団が、三度目の曲を最初から弾き直す。


 これは予定にない。臨時の組に命じられた三回は、今ので終わった。もう並ぶ義務も、手を取る理由もない。


 クレマン様の指が、ほんの少し緩んだ。


 私は離れる前のその手をつかみ直し、自分から一歩目を踏み出した。


「次も七つでよろしい?」


 彼は答えず、ひどく崩れた顔で笑った。


 一、二、三。


 三度目の曲だけ、予定どおりに終わらない。


 四、五、六。


 七つ目は二人同時に余らせて、手を離さないまま、また最初から踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ