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泣き虫令嬢は、嘘の封蝋を覚えている

作者: Sophia Rose
掲載日:2026/05/28

 泣くな、と言われるたびに、私は泣いた。

 泣きたくて泣いているわけではない。

 強い声を向けられると、胸の奥がぎゅっと縮む。誰かの怒鳴り声を聞くと、目の奥が熱くなる。悪意のある笑い声が近づくと、勝手に涙がこぼれる。

 それだけのことだった。

 けれど社交界では、それだけで十分だった。

 私はいつの間にか、泣き虫令嬢と呼ばれるようになった。

「ミレーヌ、また泣いているのか」

 婚約者のエドモンド様は、いつも呆れたように私を見る。

 王立学院の卒業舞踏会まで、あと三日。

 侯爵家の嫡男である彼は、今日も私の隣ではなく、義妹リゼットのそばに立っていた。

 リゼットは、私の父が再婚してできた妹だ。

 明るく、可愛らしく、誰にでも甘えるのが上手い。私が黙っている間に、彼女はいつも周囲の視線を集める。

「お姉さま、大丈夫ですか?」

 リゼットが心配そうに首を傾げる。

 その声は優しい。

 けれど、その指先はエドモンド様の袖を掴んだままだった。

「また涙が。私、何か悪いことを言ってしまいましたか?」

「違うわ」

 私は首を振った。

「なら、もう少ししっかりしてくれ」

 エドモンド様がため息をつく。

「君はすぐ泣く。公の場には向かない。リゼットを見習ったらどうだ」

「申し訳ありません」

「謝ればいいというものではない。侯爵家に嫁ぐなら、堂々としてもらわねば困る」

 涙が頬を伝った。

 エドモンド様はさらに眉をひそめた。

「ほら、まただ」

 周囲の令嬢たちが小さく笑う。

 私はハンカチを目元に当てながら、視線だけを下げた。

 泣いている時、私はよく誤解される。

 取り乱していると思われる。

 話を聞いていないと思われる。

 何も見えていないと思われる。

 でも、本当は違う。

 涙で視界が滲んでも、私は見ている。

 エドモンド様の左手の袖口に、王宮慈善基金の封蝋と同じ赤い蝋が付いていること。

 リゼットの白い手袋の親指に、青いインクの染みがあること。

 彼女の足元に落ちている小さな紙片に、帳簿番号らしき数字が書かれていること。

 私は、泣きながらでも覚えている。

 昔からそうだった。

 泣いている間の方が、むしろ鮮明に覚えている。

 誰が、どこに立っていたか。

 どの言葉で周囲が笑ったか。

 どの封筒に、どんな封蝋が押されていたか。

 私の涙は、記憶を曇らせない。

 むしろ、焼き付ける。

 それを知っている人は、ほとんどいなかった。

 ただ一人を除いて。

「オルフェ嬢」

 学院の廊下で声をかけられ、私は振り返った。

 黒い制服を着た男性が立っている。学院の教師ではない。胸元には、王宮監査院の銀章があった。

「王宮監査官のクラウス・レーヴェです。少しお時間をいただけますか」

「王宮監査官……ですか」

「はい。王宮慈善基金の帳簿について、確認したいことがあります」

 私は息を呑んだ。

 王宮慈善基金。

 学院の卒業舞踏会で集められる寄付金は、孤児院や施療院へ送られる。学院生にとっては名誉ある行事で、運営委員を務める者は評価も高い。

 今年の運営責任者は、エドモンド様だった。

 補佐はリゼット。

 私は記録係に任命されていた。

 ただし、名目だけだ。

 実際の帳簿は、エドモンド様とリゼットが扱っている。

「私で分かることであれば」

 そう答えると、クラウス様は静かに頷いた。

「あなたは三日前、東棟の資料室にいましたね」

「はい」

「その時、泣いていたと聞きました」

「……はい」

 まただ。

 どうせ、泣いていたから役に立たないと言われるのだろう。

 そう思った。

 けれどクラウス様は、私を責めなかった。

「では、よく覚えているのではありませんか」

 私は顔を上げた。

「なぜ、そう思われるのですか」

「以前、学院の廊下で見かけました。あなたは泣いていた。しかし、落とした本の順番を正確に戻していた。革表紙の傷、栞の位置、頁の折れまで見ていた」

「そんなことを」

「覚えています」

 クラウス様は淡々と言った。

「職業柄、観察する癖がありますので」

 私は思わず少しだけ笑った。

「私も、そうかもしれません」

「では、伺います。三日前の資料室で、何を見ましたか」

 私は目を閉じた。

 三日前。

 東棟の資料室。

 雨が降っていた。

 窓の外で、細い枝が揺れていた。

 部屋には帳簿が三冊。封筒が二通。青いインク壺。赤い封蝋。銀のペーパーナイフ。

 リゼットがいた。

 エドモンド様もいた。

 私は泣いていた。

 リゼットに、「お姉さまは帳簿に触らないでください。数字を見ただけで泣いてしまいそうですもの」と笑われたからだ。

「リゼットが、青いインクで追記していました」

 私は言った。

「寄付金の受領記録です。本来なら黒インクで記入する規定ですが、彼女は青いインクを使っていました」

「なぜ分かりますか」

「彼女の右手の手袋に染みがありました。親指の腹です。癖で、ペン軸を深く持つので」

「帳簿番号は?」

「第三帳簿。表紙の右上に、金文字で三。裏表紙の角に、擦れた跡がありました」

 クラウス様の表情が少し変わった。

「続けてください」

「その後、エドモンド様が封筒を開けました。王宮慈善基金の封蝋でした。赤い蝋に、百合と秤の印」

「封蝋は割られていましたか」

「いいえ。温めて剥がしていました。小さな銀の匙を蝋燭で熱して」

 私は覚えている。

 熱された匙の匂い。

 蝋が少し柔らかくなる音。

 その時、私は泣いていた。

 でも見ていた。

「エドモンド様は封蝋を剥がし、中の受領証を取り出しました。その後、別の紙を入れて、同じ封蝋を押し直しました」

「その場で?」

「はい」

「あなたは、それを誰かに話しましたか」

「話そうとしました」

「誰に」

「父に。けれど、リゼットが先に泣きつきました。私が帳簿を盗み見て、嫉妬から寄付金の記録を乱したと」

 クラウス様は黙った。

「エドモンド様も、そう証言しました。私は、泣いてばかりで帳簿係に不満を持っていたのだと」

「それで、あなたは反論しなかった?」

「しました」

 私はハンカチを握った。

「でも、泣いていましたから。誰も信じませんでした」

 クラウス様は、しばらく私を見ていた。

 その目に、同情はなかった。

 代わりに、仕事としての静かな誠実さがあった。

「オルフェ嬢」

「はい」

「卒業舞踏会の翌日、王宮裁判所で証言していただく可能性があります」

 私は息を止めた。

「私が、証言台に?」

「はい」

「泣いてしまうかもしれません」

「構いません」

「言葉が詰まるかもしれません」

「待ちます」

「誰も、信じないかもしれません」

「証拠と照合します」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。

「証言は、泣かない人だけのものではありません」

 クラウス様は言った。

「見た人のものです」

 卒業舞踏会の日、私は白いドレスを着ていた。

 リゼットは淡い桃色のドレスを着て、エドモンド様の隣で笑っていた。

 誰が見ても、二人の方が婚約者同士に見えただろう。

 私はそれを見ても、もう傷つかなかった。

 傷つく時間は、終わっていた。

 広間の中央で、エドモンド様がグラスを鳴らした。

「皆様、本日は王宮慈善基金へのご協力、誠にありがとうございます」

 拍手が起こる。

「ですが、残念なことに、この神聖な基金を汚す者が現れました」

 空気が変わった。

 私は静かに立っていた。

 エドモンド様がこちらを見る。

「ミレーヌ・オルフェ。君だ」

 ざわめきが広がった。

 リゼットが口元を押さえ、悲しげに目を伏せる。

「お姉さま……どうして」

 ああ、上手い。

 昔の私なら、ここで泣き崩れていた。

 今も涙は出ている。

 けれど、足は動かなかった。

「君は記録係の立場を利用し、寄付金の帳簿を改竄した。さらに私とリゼットに罪を着せようとした」

 エドモンド様は、よく通る声で告げた。

「この場で婚約を破棄する。侯爵家は、罪人を迎え入れることはできない」

 広間がざわめく。

 父の顔が青ざめている。

 リゼットは涙を浮かべながら、エドモンド様の袖を掴んだ。

 その袖口に、赤い蝋の跡があった。

 まだ残っている。

 私はそれを見て、なぜか少し安心した。

 嘘は、いつも何かを残す。

 エドモンド様が勝ち誇ったように言った。

「何か言うことはあるか、ミレーヌ」

 私は涙を拭わずに答えた。

「あります」

 広間が静かになる。

「王宮監査院へ、証言を提出済みです」

 エドモンド様の顔が固まった。

「何?」

 その時、広間の扉が開いた。

 入ってきたのは、クラウス様だった。背後には王宮監査院の職員が二人いる。

「エドモンド・ハーシェル侯爵令息。王宮慈善基金の帳簿改竄、および寄付金流用の疑いで、帳簿と関連書類を押収します」

 リゼットが小さく悲鳴を上げた。

「な、何かの間違いですわ」

「判断は王宮裁判所で行われます」

 クラウス様は淡々と答えた。

「ミレーヌ・オルフェ嬢には、証人として出廷していただきます」

 エドモンド様が私を睨んだ。

「君が? 証人? 泣き虫の君に何が証言できる」

 涙がまたこぼれた。

 でも、私は俯かなかった。

「泣いていても、見たものは忘れません」

 翌日、私は王宮裁判所の証言台に立った。

 高い天井。

 白い石壁。

 正面には裁判官。

 右手には王宮監査官たち。

 左手には、エドモンド様とリゼット。

 二人は私を見ていた。

 怒りと、焦りと、まだ残っている侮りを混ぜた目で。

「証人、ミレーヌ・オルフェ」

 裁判官が言った。

「あなたは、三日前の東棟資料室で見たことを証言できますか」

「はい」

 声は少し震えた。

 涙も出ていた。

 でも、言葉は出た。

「資料室には、第三帳簿がありました。表紙は深緑色。右上に金文字で三。裏表紙の右下に、擦れた白い跡があります」

 監査官が帳簿を掲げた。

 法廷内がざわつく。

「リゼット・オルフェは、青いインクで受領額を書き換えていました。本来の金額は三千リラ。書き換え後は千二百リラです」

「嘘です!」

 リゼットが叫ぶ。

「お姉さまは私を陥れようとして」

「静粛に」

 裁判官が制した。

 クラウス様が証拠品を提出する。

「押収した第三帳簿です。青いインクによる追記が確認されています。さらに、リゼット嬢の私室から同じ青インクの壺が発見されました」

 リゼットの顔が白くなる。

 私は続けた。

「エドモンド様は、王宮慈善基金の受領証を封筒から取り出しました。封蝋は割っていません。銀の匙を蝋燭で温め、封蝋の裏を柔らかくして剥がしていました」

 裁判官が眉を動かした。

「封蝋の印は?」

「百合と秤です。蝋の色は深い赤。ただし、押し直した時に印の左上がわずかに潰れました。匙の熱で蝋が柔らかくなりすぎていたからです」

 クラウス様が封筒を差し出した。

「押収品です。証人の証言通り、封蝋左上に歪みがあります。また、封筒内の受領証は差し替えられていました」

 エドモンド様の手が震えた。

「そんな細かいこと、なぜ覚えている」

 彼は私を睨んだ。

「君は泣いていたはずだ」

「はい」

 私は答えた。

「泣いていました」

「なら、見間違いだ!」

「見間違いではありません」

 私はハンカチを握った。

「私は泣くと、忘れられなくなるのです」

 法廷が静かになった。

「泣いた理由も、言われた言葉も、誰が笑ったかも、その人がどこに立っていたかも。忘れようとしても、残ります」

 エドモンド様の顔から血の気が引いた。

「あなたは、資料室で私に言いました。『君はすぐ泣くから、誰も君の話など信じない』と」

 彼は黙った。

「リゼットは言いました。『お姉さまが泣いてくれれば、皆が勝手に罪悪感だと思いますわ』と」

「言ってない!」

 リゼットが叫んだ。

 私は彼女を見た。

「言いました。窓のそばで。右手には青いインクの付いた手袋。左手には、私の記録係用の鍵を持っていました」

 クラウス様が新たな証拠を出す。

「リゼット嬢の小物入れから、記録係用の予備鍵が発見されています」

 もう、リゼットは何も言えなかった。

 裁判は長くはかからなかった。

 帳簿改竄。

 寄付金流用。

 証拠隠滅。

 そして、ミレーヌ・オルフェへの冤罪工作。

 エドモンド様は学院での栄誉を剥奪され、侯爵家の継承順位を見直されることになった。王宮慈善基金に関わる資格も失った。

 リゼットは社交界への出入りを禁じられ、父の保護下で厳しい監督を受けることになった。

 私とエドモンド様の婚約は、彼側の有責により正式に解消された。

 裁判が終わった後、廊下でエドモンド様が私を呼び止めた。

「ミレーヌ」

 私は足を止めた。

 彼は疲れた顔をしていた。

 昨日までの自信は、もうなかった。

「なぜ、言わなかった」

「何をですか」

「君が、そこまで覚えていることを」

 私は少し考えた。

「言いました」

「いつ」

「何度も」

 エドモンド様は黙った。

「泣いていても聞いています。泣いていても見ています。そう言ったことがあります」

「私は……」

「あなたは笑いました」

 彼の顔が歪んだ。

「すまなかった」

 謝罪の言葉は、思ったより小さかった。

 それでも、嘘ではないのだろう。

「謝罪は受け取ります」

 私は言った。

「ですが、もう私に届くものはありません」

「ミレーヌ」

「あなたは、私の涙を弱さだと思っていました。だから踏みにじってもいいと思った」

「違う」

「違いません」

 私は首を振った。

「もう、泣く私を恥じる場所には戻りません」

 彼は何も言えなかった。

 私はそのまま歩き出した。

 廊下の先で、クラウス様が待っていた。

「お疲れさまでした」

「はい」

「見事な証言でした」

 私は笑おうとして、また涙が出た。

「すみません」

「なぜ謝るのですか」

「また、泣いているので」

 クラウス様は少しだけ首を傾げた。

「証言は終わりました。今は泣いても問題ありません」

 その言い方があまりに真面目で、私は少し笑った。

「監査官のお仕事では、泣いている人は困りますか」

「困る場合もあります」

「そうですか」

「ですが、記録が正確なら助かります」

 私は瞬きをした。

 涙が一粒、頬を落ちる。

「オルフェ嬢」

「はい」

「王宮監査院では、証言記録を整理する補佐官を募集しています」

「私に、ですか」

「あなたの観察力と記憶力は、十分に職務に値します」

 私は返事ができなかった。

 泣き虫。

 役に立たない。

 公の場に向かない。

 そう言われ続けてきた私に、初めて仕事の話をしてくれる人がいた。

「でも、私は泣きます」

「承知しています」

「強い声を聞くと、涙が出ます」

「監査院には、強い声を出す者もいます」

「困るのでは?」

「慣れていただきます。こちらも配慮します」

 私は思わず笑った。

「真面目なのですね」

「よく言われます」

「では」

 私はハンカチで目元を押さえた。

「泣いてもいい職場でしょうか」

 クラウス様は、ほんの少しだけ表情を和らげた。

「ええ。記録が正確なら」

 その春、私は王宮監査院の補佐官になった。

 最初の仕事は、慈善基金事件の証言記録を清書することだった。

 青いインク。

 嘘の封蝋。

 剥がされた受領証。

 笑われた言葉。

 すべてを、私は書いた。

 けれど最後の頁には、こう記した。

 証人ミレーヌ・オルフェは、証言中に涙を流していた。

 ただし、証言内容に揺らぎはなし。

 その一文を見たクラウス様は、静かに頷いた。

「良い記録です」

「ありがとうございます」

「次からは、もう少し字を大きく」

「はい」

「それから、泣いた時は無理に拭わなくて構いません。インクが滲みます」

 私は目を瞬いた。

 そして、笑ってしまった。

 窓の外では、春の光が王宮の白い壁を照らしていた。

 私はもう、泣き虫と呼ばれても構わない。

 涙が出る自分を、恥じるのはやめた。

 泣いても、見ている。

 泣いても、覚えている。

 泣いても、証言できる。

 そしてこれからは、私の涙を弱さだと決めつける人のためではなく、誰かの嘘に押し潰されそうな人のために、その記憶を使っていく。

 机の上には、新しい記録帳がある。

 表紙には、王宮監査院の銀章。

 私はペンを取り、最初の頁に日付を書いた。

 それから、少し考えて一行を足す。

 泣いていても、真実は見える。

 インクは滲まなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


涙が弱さではなく、誰かの真実を守るものになることもある。

ミレーヌがこれから、自分の目で見たものを信じて歩いていけますように。


面白いと思っていただけましたら、


評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。


現在、別作品として婚約式を題材にした異世界恋愛の連載も投稿中です。


そちらでは、婚約者に何度も後回しにされてきた令嬢が、婚約式をきっかけに自分の人生を取り戻していくお話になっています。


本作の雰囲気がお好きでしたら、ぜひそちらも覗いていただけますと嬉しいです。

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