87 月下
小宴の灯りが届かない場所に、小さな神殿はあった。
音と喧騒だけが、風に乗って流れてくる。
街の中心にある大きな神殿とは違い、石造りの簡素な建物だ。
広間の奥に至聖所があるだけの、静かな祈りのための場所。
扉は半ば壊れたまま開いていた。
リネアは吸い寄せられるように中へ入る。
広間の屋根の一部は崩れ、夜空が覗いていた。
割れた窓から淡い光が差し込み、埃の舞う空気を白く照らしている。
神殿は、あまり好きではない。
リネアは五歳の日から、祈りの場所がどこか息苦しかった。
祈れば救われると言われても、自分だけが場違いでその輪の外にいる気がしていた。
それなのに、気づけばこういう場所に辿り着いてしまうのは皮肉だと思う。
祭壇にもたれかかるように座り込み、目を閉じる。
遠くから音楽が聞こえてくる。
街は、少しずつ息を取り戻している。
良かったはずだ。
それなのに胸の中は、空洞のようだった。
どれくらいそうしていたのかわからない。
遠くで、誰かの声がした気がした。
祭りの喧騒に紛れて、すぐに消える。
気のせいだと思った。
けれどしばらくして、石畳を踏む足音が近づいてくる。
広間の入口で、その足音が止まる。
◇
「ここにいたのか」
低く落ち着いた声にリネアは目を瞬かせた。
「クロウ? どうして」
クロウは答える前に、小さく息を吐いた。
「……探した」
リネアは少し視線を彷徨わせた。
「戻らないのか?」
「……少しだけ、ここにいたい」
「そうか」
それだけ言って、クロウは隣に腰を下ろした。
聞きたいことはある。
そんな気配は伝わってくる。
けれど、クロウの方からは何も口にしなかった。
しばらくして、リネアは崩れた窓の向こうへ視線を向けた。
「……戻ってよかったね」
祭りの灯り。
遠くの笑い声。
星蝕が収束して、止まっていた街がまた動き始めている。
「ああ」
クロウも同じ方を見る。
「復興にどれくらいかかるのかな……」
「技術者も多い街だ。時間はかかるだろうが取り戻せる」
リネアは小さく頷く。
助けられた人もいる。
失った人もいる。
壊れた場所も、まだ残っている。
全部元通りになるわけじゃない。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
広場から流れてくる音楽だけが、二人の間に静かに落ちる。
遠くで、曲調が変わった。
ゆっくりとした導入の、どこか聞き覚えのある旋律。
プロムで踊った曲だった。
「……一年のプロムでは、踊らなかったな」
クロウも気づいたように、遠くの旋律へ耳を澄ませる。
リネアは小さく笑った。
「うん」
あの時は、何もかもが遠かった気がする。
星蝕は増えている。
プロムがまた同じように開かれる保証はない。
もし――大星蝕が来たら。
もし、生きて乗り越えられたとして。
その時、自分はまだクロウの星約でいるのだろうか。
答えは出ない。
音楽が遠くで続いている。
「このまま星蝕が増えたら、どうなるんだろうね」
プロムも、と。
リネアは呟いた。
クロウは少し考えたあと、短く息を吐く。
「なら」
立ち上がる。
「今、踊っておくか」
「え?」
差し出された手を、リネアはすぐには取れなかった。
こんな場所で。
こんな格好で。
けれど、クロウの表情は冗談ではなかった。
戸惑いながら見上げるリネアの手を掴んで、引っ張り上げる。
そのまま広間の中央に進むと、一度手が離れて数歩離れた。
クロウは真面目な顔のまま礼をとる。
まるで本当の舞踏会のように。
音楽はちょうど、ポロネーズの拍へ変わっていた。
格式高い、始まりのダンス。
リネアは思わず笑いそうになりながら、おずおずと礼を返す。
月が雲の間から顔を出す。
崩れた天井から光が差し込み、リネアを白く照らした。
その瞬間。
クロウには、リネアが淡い水色のスカートをつまんでいるように見えた。
あり得ない。
彼女は埃まみれの演習服のままなのに。
けれど確かに、あの日のダンスフロアが重なる。
眩しさに目を細める。
そしてそのまま、その手を取った。
あの日、触れられなかった距離。
壁際から見ていただけの背中。
届かないと思っていた時間。
今は同じ床の上にいて、同じ音を聞いている。
それだけなのに、クロウの胸の奥が静かに熱を持つ。
最初の一歩は、わずかにずれた。
リネアが息を呑み、クロウの指先がほんの少しだけ力を込める。
急かさないように、合わせるように。
ただ、隣に歩幅を合わせてくれる。
お互い笑いそうになって、少し視線をそらす。
照れくさい。
でも、楽しい。
未来を考えるほど、胸が苦しくなるから。
だから今は、考えないことにした。
無力感も、焦りも、痛みも。
音楽の中に溶けていく。
リネアは思う。
これが最初で最後かもしれない。
だから、覚えていたい。
クロウの手が温かいことを。
一方で、クロウは違う未来を見ていた。
次のプロムでは、きちんと申し込む。
ちゃんとしたドレスを贈って、正式に。
その時には、今日みたいにリネアを迷わせないように。
温度差など気づかないまま、二人のステップは続く。
月光が床に円を描く。
崩れかけた神殿の中で、音楽だけが静かに流れていた。
遠くの広場で曲が終わり、拍手のような歓声が遅れて届く。
やがて、どちらともなく名残惜しそうに、手は離れた。




