26 時計塔のお茶会
休暇の終盤、八日目の夕暮れ。
図書棟上階の閲覧室は、昼間の熱をまだわずかに残していた。
窓の外では西の空がゆっくりと色を失い、橙から群青へと溶けていく。
机いっぱいに広げた理論式に、リネアは細い線を書き足していた。
「ここで一度、緩衝域を挟むなら……」
独り言のように呟く。
隣に座るセイルが、静かに口を開いた。
「その場合、密度変化は段階的に。急に落とすと、流れが乱れる」
「……うん」
ペン先が止まり、また動く。
焦りはまだ残っていた。それでも数日前よりも落ち着いた思考の感覚が、久しぶりに戻っている。
窓の外が完全に夜へと沈むころ、セイルは時計を見た。
「今日はここまでにしようか」
「もう?」
「精度が落ちる時間帯に続けても、いい結果は出ないよ」
やんわりとした声音だったが、結論は揺るがない。
それに、と続ける。
「僕は教員室に寄る約束があるから、そろそろ行かないと」
採用試験関連の資料確認。
それとは別に、セイルには本科生として学院に残る話も出ている。その相談かもしれない。
セイルは立ち上がる。
「一緒に戻る?」
「ううん。あと少しだけ整理だけしてから」
「ほどほどにね」
それだけを残して、階段へ向かった。
足音が遠ざかる。
図書棟は静かだ。
◇
ほどなくするとひと段落がつき、リネアはペンを置いて窓辺に歩み寄った。
夜の学院は昼とは別の顔をしている。
寮の灯りが点々と揺れ、遠くで風が木々を鳴らす。
背後で、扉の開く音がした。
「セイル?」
何か忘れたのかと思い、振り返ると、ここにいないはずの黒髪の青年が立っていた。
金色の目が、薄暗い室内で静かにこちらを捉えている。
「……え、クロウ?
帰るのは、最終日じゃなかった?」
夏用の薄手の外套を羽織って、手には小さな箱と革の包みがある。
「早く終わった」
それ以上の説明はない。
クロウは室内を一瞥し、机の上の紙に目を落とす。
「遅くまでやってたな。……セイル・フォレストは?」
「今日は、先に戻ったよ」
一瞬の間。
「そうか」
声はいつも通りだ。
けれど、小さな箱を机に置く動作が妙に丁寧だった。
「土産。王都の菓子」
「ありがとう」
机の上に置かれた小箱を、リネアはそっと開いた。
薄紙に包まれた焼菓子。
表面に繊細な模様が施され、控えめなのに上品な甘い香りがした。
「……綺麗」
思わず目が輝く。
「王都らしいね」
ひとつ手に取り、光にかざす。
形が崩れるのが惜しいくらい整っている。
クロウは、その横顔をじっと見ていた。
「上で食べるか?」
「え?」
「茶器もあるし、丁度いい」
言いながら、もう包みをまとめている。
◇
図書棟の最上階から繋がる時計塔には、小さなバルコニーが付いている。
備え付けられたベンチに並んで座ると、涼しい風が抜けていった。
目の前には点々と小さな灯りが光る、学院の夜景が広がる。
軍用で使われる小型の湯沸かし器が静かに魔力を灯し、湯気が夜に溶けていく。
リネアは焼菓子を一つ口に入れて、目を丸くした。
「……おいしい!」
「そうか」
それにつられて、クロウの口元がわずかに緩む。
しばらく、穏やかな時間が流れた。
「休みは、どうしてた」
クロウが尋ねる。
「ほとんど図書棟。時々、セイルに教えてもらってて」
その名に、クロウのカップを持つ指先が一瞬だけ強張る。
「魔力回路の設計の話、してたの。
密度を変えるって発想が面白くて」
楽しそうに語る声。
「二学期の演習で、試してみたい」
いい?と聞くリネアに、黙ってクロウは頷いた。
理論の話は、嫌いじゃない。
むしろ得意だ。
(……それは、俺とでも考えられた)
口には出さない。
「流量だけじゃなくて。
伝達速度の設計ができたら、負担が減るかもしれないって」
「……なるほど」
短く相槌を打つ。
本当はもっと踏み込める。
具体的な式も、応用例も、きっとリネアとの会話の中でならすぐに浮かぶ。
なのに。
「楽しそうだな」
「うん」
笑顔で即答する。
クロウが、リネアの星約だ。
その連携は自分が担う立場のはずだ。
休みの間、隣にいたのはセイルだった。
幼稚だな、と思う。
それでも自分の場所を、少しだけ取られたような気分になる。
レオニスとセラフィナが並んでいるのを見ても、感じたことがない感情だった。
「二学期からは」
言葉がついて出た。
「一緒にやる。演習も、理論の試行も。
……星約だろ」
――そういうことにしておく。
自分の中で、綺麗に収まる言葉。
それだけの理由で十分だ、とクロウは自分に言い聞かせた。




