01 神殿
学院の夜は静かだった。
学生寮は、正門を出た先の校舎から少し離れた場所にある。寮をぐるりと囲む木々を春風が柔らかく揺らし、葉と葉が触れ合う音が、遠くでさざめく。
入学式を終えたリネアは、自室のベッドに背を預けて、天井をぼんやりと眺めていた。
視線は遠く、記憶の先にある。
ここよりももっと高い、神話が鮮やかに描かれた神殿の天井画を見ていた。
◇
この国特有の白い石で造られた回廊。
磨かれすぎて冷たい床。
香の匂いと、微かに聞こえる祈りの声。
五歳。
数え年で同じ歳の子どもたちが集められ、生まれてからすぐに封じられていた恩寵が一斉に解かれる日。
リネアは、そこにいた。
小さな手で、母の指をぎゅっと握りしめながら。
――戦闘、観測、分析、回復、増幅、干渉。
神殿の最奥の至聖所では神官が、神から与えられ、そして人間が分類した恩寵の名を子どもたちに次々と告げていく。
怖かったわけではない。
けれど、何が起こるのかよくわからない場所で、知らない大人たちに囲まれるのは、落ち着かない。
「大丈夫だ」
父が宥めるように背中に手を添えてくれて、母が優しく微笑んだ。
ほどなくリネアの番が来て、儀式は滞りなく進んだ。
神官が名前を呼び、額に触れ、封印を解く。
神体に手をかざすと身体が淡い光が瞬き、恩寵が記録されていく。
痛みはなかった。
ただ、胸の奥に、何かが“通った”感覚が残った。
リネア・フォレスト。回復する者。
そう告げられたとき、頭上の空気がわずかに揺れる。よく分からないまま、両親がほんの一瞬だけ線を交わしたことが印象に残った。
儀式が終わると、子どもたちは解放された。
神殿の説明を受ける大人たちと合流するまでの、ほんの短い時間だった。
神殿の裏手。
中庭のよく手入れされた花壇の隅で、リネアは小さな鳥が動かなくなっているのを見つけた。
病気か、どこか痛めたのか。
ただ、か細い存在感で、今にも消えそうだった。
――かわいそう。
その感情が先に立った。
"対価"という言葉を、まだ知らなかったリネアは本能的に手を伸ばした。
胸の奥で、何かが熱を帯びる。
神官が触れたときと同じ、あの感覚。
光が、淡く滲んだ。
――その直後。
世界が、ひっくり返った。
胸が、締めつけられる。
呼吸がうまくできない。
腕も脚も、鉛のように重い。
その場に崩れ落ちて、初めて理解した。
――痛い。
涙も、声も出ない。
視界が白く滲む。
そのとき。
「……大丈夫か?」
誰かの声がした。
覗き込んできたのは、同じ年頃の子どもだった。
儀式を終えたばかりの、まだ幼さの残る顔。黒い髪からのぞく金色の眼だけが妙に落ち着いていた。
「立てるか?」
リネアは何も言えなかった。
言葉を紡ぐ余裕が、なかった。
少年は、少し困ったように眉を寄せてから、何も言わずにしゃがみ込んだ。
そして、ふっと身体が浮いた。
背中に回された腕。
どこにそんな力があったのか、小さな背にそのまま、背負われた。
背丈の変わらない子どもの背中だ。安定感はあまりない。
それでも、わけの分からない苦しさの中で背中越しに伝わる体温に、リネアは安心した。
「落ちるな」
目を瞑り、意識を手放しそうになると短く言われる。
リネアは、少年の無意識に服をぎゅっと掴んでいた。
一歩一歩、小さいのに着実に歩む足音。
遠くから両親の驚いた声が聞こえる。
そこで、リネアの意識は完全に途切れた。
◇
次に目を覚ましたとき、リネアはベッドの上にいた。
全身が、焼けるように痛かった。
数日、熱が下がらなかった。
「どうしてこの子だけが……」
母の泣き声混じりの声も現実かどうか判断がつかない。
――恩寵の対価。
あれが、自分の力に対する”対価”だと知ったのは、もう少し後のこと。
痛みと熱に浮かされて、おぼろげな意識の夜の中。
枕元にぼんやりとした白い光を放つ鳥を見た気がした。
それから、リネアは何度も繰り返し、同じ夢を見ることになる。




