17 幻想
それから数日、演習は順調に進んでいた。
リネアの体調は安定していて、恩寵の使い方も無理がない。回路の調整も上手くできるようになってきた。
クロウとの連携も噛み合い、危うい場面はほとんどなかった。
その代わり――
「……増えてない?」
昼の座学前、セラフィナがクロウの腕に視線を落とす。
包帯はないが、制服の隙間から薄い傷跡がいくつか覗いている。
どれも浅く、すでに治りかけているものばかりだ。
「気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないでしょ」
セラフィナが呆れたように、でも面白そうに言う。
「治そうかって聞いても、いらないらしいのよ。この人」
「……別に、支障はない」
クロウはノートを閉じながら答えた。
本当に、気にしていない様子だった。
リネアは、いたたまれない気持ちで目を伏せた。
「……ごめん」
「謝るな」
短く、即座に返る。
「残らない程度には治ってる」
「だから問題ない」
それを聞いて、レオニスが軽く肩をすくめた。
「随分、信頼してるじゃないか」
レオニスの声音には、からかうような含みがある。
無視を決め込んだクロウは涼しい顔のまま。
その隣でリネアだけが居心地が悪そうに姿勢を正した。
◇
その日の放課後。
クロウが一人で教室を出ると、すぐ背後に気配があった。
――視線。
何度か、同じものを感じている。
最近の演習後や座学の合間。
振り返ると、一人の女子生徒が立っていた。
手入れされた淡い金の巻き髪。
明るい紫の大きな瞳に、柔らかな笑み。
アメリア・ロズウェル。
同じクラスの、子爵家の令嬢だった。
回復の恩寵を持ち、後方支援に回ることが多い。あまり交流のない生徒だ。
「クロウ様」
呼びかけは、穏やかだった。
「少し、お話よろしいでしょうか」
距離は、三歩ほど。
近すぎず、遠すぎず。
ただ、その視線は――クロウの腕へと落ちて痛まし気に歪められる。
「最近、お怪我が増えていますよね?」
断定ではない。
確認するような口調だった。
「演習のたびに。
きちんと処置はされているようですが……」
一拍置いて、続ける。
「完全には、治していない」
クロウは、表情を変えなかった。
「それが、何だ」
「……いえ」
アメリアは、少しだけ首をかしげる。
「前線に立つ方としては、非効率だと思いまして」
善意のようだ。
少なくとも、本人の中では。
「差し出がましいとは承知しています。
ですが、もし必要であれば」
そこで、初めて視線が合う。
「私が、治します」
「必要ない」
声は低く、迷いがなかった。
アメリアは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
「……ですが。あなたほどの方が、その状態というのは――」
「問題ない」
余分な温度のない声だった。
「了承している。連携にも、支障は出ていない」
アメリアは、指先をきゅっと握る。
「……リネア・フォレスト、ですね」
名前を口にするときだけ、声がわずかに硬くなる。
「正直に申し上げますと、セラフィナ様や、イリス様と比べると……」
言葉を選びながらも、目は逸らさない。
「彼女の回復は、合理的とは言えません。あなたには、もっと――」
「やめろ」
クロウの声が、初めて鋭さを帯びた。
「誰が、誰にふさわしいか。
それを決めるのは、お前じゃない」
一歩、距離を取る。
「今のやり方で、俺は困ってない」
アメリアは、息を呑む。
「……これ以上、口を出すな」
それだけ言って、クロウは踵を返した。
◇
1人残されたアメリアは、しばらくその場を動けなかった。
その頬は薔薇色に染まって、目は潤んで輝いている。
拒まれたはずなのに、嫌な気持ちにはならなかった。
(……近かったわ)
あんな風に、すぐ側で見つめ合ったのは初めてだった。
声も。
視線も。
子供の頃、夜会の隅から遠巻きに見ていた姿が重なる。
――まだ幼かった頃。
広間はきらきらしていて、音楽も大人たちの声も、全部が遠くて。
背の低い自分は、母の影に隠れるようにして立っていた。
そのとき、視線の先にいた人。
同じくらいの年頃の少年が、少し離れた場所に立っていた。
誰かと楽しそうに話すわけでもなく、
無理に笑うわけでもなく。
ただ、静かにそこにいるだけ。
(……あの子、とってもきれい)
子供心にも、はっきり思った。
そこに佇んでいるだけで、目を引く。
触れたら壊れてしまいそうなくらい、整っていて、遠い。
名前を知ったのは、そのあとだった。
クロウ・ノクエル。
伯爵家の嫡子。
胸が高鳴った。
(王子様みたい)
物語の中に出てくる人みたいだと、本気で思った。
それからずっと。
学院に入って、
星約を結んで、
一緒に戦って。
傷ついた彼を、後ろから支える。
そんな未来を、何度も思い描いた。
王子様とお姫様の運命的な恋物語のように。
だから。
今日の言葉も、拒絶だなんて思えなかった。
(……今は、気づいてないだけ)
あの方は、きっと分かっていない。
誰が一番、彼を支えられるのか。
物語にふさわしいのかを。
アメリアは、そっと胸に手を当てた。
まだ少し、どきどきしている。
(……きっと分かってくれるわ)
悪いことなんて、何も考えていない。
ただ、助けたいだけ。
守るだけだもの。
アメリアは、静かに微笑んだ。
この想いを疑う理由は、どこにもない。
なぜだか強くそう思えた。




