15 並走
意識が戻った瞬間、リネアは息を詰めた。
見慣れない天井。
――いや、違う。
天井ではなく、高い書架の影。
紙の匂いと、日が沈みかけた時間特有の冷えた空気。
「……っ」
上体を起こそうとして、身体が言うことをきかない。
反射的に手をついて、視界が揺れた。
「起きるな」
すぐ近くで、低い声がした。
斜め向かいの席。
椅子に深く腰掛けたクロウが、こちらを見ている。
弓がすぐ側の壁に立てかけられ、両腕は組まれていた。
「……え、あ」
言葉が追いつかない。
「ここ……」
「本科棟の図書室だ」
「……あ、ごめ、なさ……」
謝ろうとして、言葉が途切れる。
呼吸が少し乱れているのを、自分でも自覚した。
「落ち着け」
クロウは、声量を変えずに言った。
「急に起きると、余計に眩む」
リネアは深呼吸をひとつして、ようやく状況を思い出す。
休養日。
荷物を取りに来て、少し休むつもりで座って――。
「……寝てた?」
「しばらくな」
否定も、呆れもない平坦な声色。
視線を落とした拍子に、枕代わりにしていた本が目に入る。
魔術理論。
専門寄りの、やや古い刊行物。
それを、クロウがスッと抜き取った。
「これ、借りるのか?」
「……うん、そうしようかな」
「なら、手続きしてくる」
断るよりも早くクロウは立ち上がって、本を司書のいるカウンターに向かっていってしまう。
気がつけば、リネアの荷物も全部持って。
まだ起き抜けでぼんやりとする頭で、リネアは慌てて追いかける。
図書室の入口ではクロウがすでに待っていた。
「寮まで送る」
◇
薄暗くなったあたりに溶け込もうとする校舎を、街灯の灯りがじんわりと照らしていた。
人影は少なく、リネアとクロウの二人分の足音だけが静かに響いていた。
クロウは半歩前を、普段よりもゆっくりと歩く。振り返らないけれど、距離は一定だ。
「昨日」
少し間を置いて、クロウが切り出した。
「演習のあと、様子がおかしかった」
「……」
淡々とした声。
けれど、責められている感じはしない。
クロウが足を止めた。
「一人で抱え込むな」
体ごと振り返って真っ直ぐに、目を逸らさずに言う。
夕闇の中、浮かび上がる金色の眼は、いつもより少し優しく見えた。
「連携には、支障が出ないように……」
「そうじゃない」
穏やかに首を振る。
否定の言葉が、じんわりと胸に響く。
「……心配、かけた?」
「ああ」
頷くと再び背を向けて、クロウが歩き始める。
「俺は、お前の星約だ」
「うん」
「言えることは、言え」
「……うん」
それ以上は聞かない。
踏み込まない。
その距離感が、今はありがたかった。
◇
寮の部屋に戻ると、外はすっかりと夜の色に沈んでいる。
リネアは制服のまま椅子に腰を下ろし、鞄から一冊の本を取り出した。
――本科棟の図書室で、たまたま手に取った魔力理論書。
装丁は古く、紙の縁も少し黄ばんでいる。
最新の研究成果とは言い難いが、その分、実験的な記述が多い。
注釈が多くて書き込みの跡も残っていた。
回復の恩寵に関する章をめくると、すぐに目当ての記述が見つかった。
「回復は、必ずしも接触を必要としない」
近距離であれば、魔力の指向性を整えることで、触れずとも効果を及ぼすことは可能。
ただし――
(……精度が個人によっては、かなり落ちる)
効果範囲が曖昧になりやすく、不要な部位にまで魔力が流れる。
結果として、無駄な消費が増える。
リネアはまさにこのタイプだった。
だから、基本は接触。
効率を優先してきた。
さらにページを進める。
「魔力回路を段階的に開放することで、負荷の集中を避ける」
(……分割、遅延……?)
回復そのものを一度で完結させない。
細い回路に分け、複数を短い時間差で流す。
即効性は落ちるが、反動は緩やかになる。
リネアは、思わず指を止めた。
ふと、初めての演習の光景を思い出した。
――イリス・アーヴェル。
同じ回復の恩寵を持ちながら、彼女の戦い方は異質だった。
魔物に恩寵を使って、内部から崩すような制圧。
(あれは……)
極限まで魔力回路を開放し、さらにエドガル・ルモワンの増幅を重ねて――
針に糸を通すような精度で、魔力を送り込んでいた。
送り込み、溜めて、最後に一気に解放する。
内側から破壊するための、回復の使い方。
(……やっていることは、真逆だけど)
理論としては、辻褄が合う。
リネアが考えているのは、
力を分けて、遅らせて、削らない方法。
イリスは、力を極限まで集めて、正確に壊す方法。
どちらも、魔力回路の扱い方の話だ。
(あれは……彼女だからできる)
恩寵の強さ。
魔力回路の制御。
増幅との相性。
どれか一つ欠けても成立しない。
でも――
(考え方は、借りられる)
リネアは、もう一度本に視線を落とした。
完全に治す必要はない。
実践で求められるのは、戦線を維持できる状態。
致命傷を防ぎ、
動けるだけ回復させて、
残りは――時間に任せる。
回路の“太さ”を落とし、回数を分ける。
それは、今まで考えたことのない発想だった。
(……だから、対価も一気に来てたんだ)
無意識に、効率と完全性ばかりを求めていた。
一度で終わらせることが、最善だと信じて。
セイルの言葉を思い出す。
『無理に力を出さなくても、君は考えて動ける』
(……考えて、動く)
恩寵を使っても、対価を受けすぎない方法。
クロウの声も重なる。
『一人で抱え込むな』
今まで思いつかなかったのは、「できない」と決めつけていたからだ。
リネアは、そっと本を閉じた。
「……明日、試してみよう」
小さく、でもはっきりと言葉にする。
完全な回復じゃなくていい。
“必要な分だけ”を、正確に。
一人で抱え込まない。
考えて、工夫して、できることを増やす。
――頑張ろう。
ベッドに腰を下ろし、灯りを落とし、目を閉じる。
眠りにつくまでのあいだ、その表情には、ほんのわずかな決意の色が宿っていた。
珍しくこの日は、いつもの夢を見なかった。




