第8話 何者でもない夜
ギルドを出たあと、レインはしばらく街を歩いた。
目的はない。
行くあても、急ぎの用事もなかった。
夕暮れから夜へ移る時間帯。石畳は昼の熱を残し、街灯が一つ、また一つと灯っていく。人々の笑い声、酒場から漏れる音楽、露店の呼び声――どれも、これまで何度も通り過ぎてきた風景だ。
ただ一つ違うのは、今日はどこにも戻る必要がないということだった。
宿に帰らなくていい。
ギルドに顔を出さなくていい。
明日の予定も、報告書も、依頼もない。
それは自由であるはずなのに、足取りは重かった。
レインは橋の上で立ち止まり、川を見下ろした。夜の水面に、街灯の光が揺れている。触れれば壊れそうな、不安定な光。
――自分は、何者だったのだろう。
鑑定士。
Aランクパーティ随行。
支援職。
肩書きを一つずつ外していくと、最後に残るのは、名前だけだった。
レイン・アルクス。
それだけだ。
ギルドの水晶に映らない力。
証明できない鑑定。
数字にならない貢献。
それらは確かに存在した。何度も仲間を救い、致命的な失敗を避けてきた。だが、それを証明する術はない。誰かが記録しなければ、ただの偶然として処理される。
――俺が間違っていたのか。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
数値で測れない能力など、最初から信用されるはずがなかった。ギルドも、王都も、貴族も、ただ合理的だっただけだ。間違っていたのは、そんな場所に居続けた自分かもしれない。
橋を渡りきり、裏通りへ入る。人通りは少なく、空気が冷える。安宿の看板が並び、壁際には荷物を抱えた労働者が座り込んでいる。
レインは、その中の一つに入った。
部屋は狭く、簡素だ。木の床、硬い寝台、小さな窓。だが、今の彼には十分だった。
荷を下ろし、腰を下ろす。
沈黙が、部屋を満たす。
そこで、ようやく胸の奥に溜まっていたものが、じわじわと浮かび上がってきた。
怒りでも、憎しみでもない。
ただ、空虚。
誰にも必要とされなかった、という事実だけが残る。
レインは、革袋から古い帳面を取り出した。使い込まれた鑑定ログだ。ページの端は擦り切れ、文字は細かくびっしりと書き込まれている。
ページをめくる。
――洞窟狼:親個体出現率高。毒袋あり。
――湿地帯:足場崩落の危険。前衛配置注意。
――新規加入剣士:成長限界低。短期火力は高いが連携難。
過去の鑑定。
過去の警告。
過去の“無視された言葉”。
レインは帳面を閉じ、天井を見上げた。
もし、これらがすべて間違っていたら。
もし、偶然当たっていただけだとしたら。
――それなら、仕方ない。
だが、そうではないことも、彼自身が一番よく分かっている。
帳面を胸に抱き、目を閉じる。
静かな夜だ。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
夜の区切りを告げる音。
レインは、ゆっくりと息を吸った。
ここが底だ。
少なくとも、今の自分にとっては。
ならば――。
この先は、上るしかない。
まだ、何をするかは分からない。
どこへ行くかも決めていない。
それでも一つだけ、はっきりしていることがあった。
――評価されない場所に、戻る理由はない。
レインは目を閉じ、深い眠りに落ちた。
明日、何者でもない朝を迎えるために。




