第15話 遅れた一手
夜明け前の渓谷は、息を潜めていた。
霧が薄く流れ、空の端がわずかに白み始めている。時間は、もう残っていない。
レインは岩陰に伏せたまま、最後の確認を続けていた。敵の巡回間隔。人質の位置。見張りの癖。ほんのわずかな違和感でも、見逃さないように。
――まだ、何かある。
そう思ってしまった。
確信に届かない違和感。
それを潰しきれないまま、決断することへの恐れ。
「……レイン」
カイルの声が、抑えきれない苛立ちを帯びる。
「もう動かねえと、本当に間に合わねえ」
「分かっている」
レインは即答した。
本当に、分かっていた。
だが、判断が下りない。
選択肢のどれを選んでも、犠牲が出る可能性がある。その中で、どれが“最も正しい”のか。これまでなら、迷わず切り捨てていた要素が、今回は切れなかった。
――全員を救える道が、あるはずだ。
その願望が、判断を鈍らせていた。
セレスが、低い声で告げる。
「時間だ。動くなら、今」
レインは、唇を噛んだ。
「……三案で行く」
交渉。
成功率が低く、時間切れの可能性が高い選択。
それでも、人質を“切り捨てない”唯一の道。
カイルが目を見開く。
「正気か?」
「成功しなければ、即座に二案へ移行する」
「その時点で——」
「分かっている」
それでも、レインは首を振らなかった。
合図とともに、交渉役が姿を見せる。
盗賊たちがざわめき、渓谷に声が響いた。
「こちらは傭兵団だ! 包囲は完了している!」
「人質を解放しろ! 命までは取らない!」
数秒。
十数秒。
沈黙。
レインの胸が、嫌な予感で締めつけられる。
――遅い。
次の瞬間だった。
鋭い悲鳴が、渓谷に響いた。
一瞬で、空気が凍りつく。
「……ッ!」
誰かが息を呑む。
盗賊の怒鳴り声。
そして、崖下へ投げ捨てられる影。
人質の一人だった。
落下音が、遅れて届く。
レインの思考が、真っ白になった。
「動け!」
カイルの怒号で、時間が再び流れ出す。
傭兵たちが一斉に動き、戦闘が始まる。奇襲、分断、制圧。作戦自体は、レインが事前に組み上げていた通りに進んだ。
盗賊団は崩れ、残りの人質は救出される。
味方の負傷も、最小限。
――作戦は、成功だ。
それでも。
戦闘が終わり、渓谷に静けさが戻ったあと。
レインは、崖下を見下ろしていた。
動かない人影。
もう、助からない。
「……俺が、遅れた」
誰に言うでもなく、呟く。
セレスが、隣に立った。
「結果論だ」
静かな声。
「交渉を選ばなければ、最初から助からなかった可能性もある」
「それでも」
レインは、視線を逸らさなかった。
「俺は、選べなかった」
即断できなかった。
救えない命を、受け入れられなかった。
カイルが、険しい表情で近づいてくる。
「……助かった人間の方が多い」
「分かっている」
「だったら——」
「分かっている!」
思わず、声が荒くなる。
カイルは言葉を飲み込み、拳を握った。
「……あんたがいなきゃ、全滅してた」
それは慰めだった。
だが、レインの胸には届かない。
助けられた命より、
救えなかった一つが、重すぎた。
夜明けの光が、渓谷を照らす。
新しい朝。
だが、レインにとっては違った。
――正しい判断でも、人は死ぬ。
その現実を、初めて突きつけられた朝だった。
レインは、拳を握りしめる。
迷いは、命を奪う。
その事実が、深く、深く刻み込まれていた。
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