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この世界は少しだけズレている  作者: 名雪 琳


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1. バスと遅刻と、ノートの違和感

 バスのドアが開くと同時に、颯太は立ち上がった。

 通学に使っているバスは、いつもより人が多く、降車ボタンのランプはアナウンスがされる前に点いていた。

 到着がいつもより遅れ、焦りが心の中を占めていたのは自分だけではないようだった。


「すみません、降ります!」

 声を上げながら混み合うバスの車内を抜け、外に飛び出す。


 バスを降りた瞬間、春のまだひんやりした空気が肌に刺さった。 

 ブレザーの右ポケットからスマホを取り出す。画面の数字をもう一度見て、思わず小さく息を漏らす。


――やばい。走らなきゃ遅れる。


 始業まで、あと8分。

 このバス停から2年の教室棟まで、歩いて10分ちょっと。

 数字の意味を考えるまでもなく、体は勝手に動いていた。

 

 同じバスを先に降りた数人の学生は、すでに走り出していた。みんな似たような必死さをしている。誰も悪くない。バスに長時間乗らないと通学できない、田舎が悪い!


 前の子のリュックにつけているマスコットキーホルダーがバタバタ大きく揺れていた。

 他の学生が間に合ってしまったら、自分の遅刻をなおさら言い訳できない。1人が走ったら、みんな走るしかない。

 電車の遅れは遅刻免除になるのに、バスの渋滞による遅刻は免除にならない。

 走りながら、「もう1本早い便に乗るのはきついな」と内心で愚痴る。この便はいつもなら、始業30分前にバス停に着いている便だ。渋滞無しの定刻だと1時間前に着く。颯太が住む市外から、学校のある市内への道路はひどく渋滞するので、毎日1時間半ほど乗っている。


 渋滞で車が並ぶ大通りが視野に入りつつ、全力疾走を続ける。リュックの中でペンケースが跳ね、重たい教科書が暴れる。

 バスで通って来た道を少し戻らなければ、学校へ行く路地に入らないのが、なんとも悔しい。


 大通り沿いのパン屋から甘い匂いが流れてきた。今日の昼ごはんはパンでもいいな。

 前を走っていた男子学生が「腹減ったー!」と声を出す。颯太は笑いそうになったが、息が続かなくなるのでこらえた。


 大通りを渡るための信号が青から点滅に変わる。

 颯太はネクタイを軽く引き下げつつ、横断歩道を駆け抜けた。春の風が首元を抜けて、少しだけ気持ちいい。


 角を曲がって小道に入る。

 並木の向こうに学校の屋根が見えた。

 前方から自転車のベルが鳴る。反対方向へ、他校の女生徒が勢いよく駆け抜けていった。

「すみませーん!」という声が風に混じる。

 あんなに速くこぐなら、もう少し余裕を持って家を出ればいいのに、と心の中で文句を言う。完全に八つ当たりだ。

 

 息が切れる。リュックが肩に食い込む。

 それでも、足は止めなかった。


 もう少し。


 小道を抜けて学校に至る最後の通りに出た瞬間、見慣れた後ろ姿が目に入った。

 歩き方のクセで、すぐに分かる。大物のようにゆったりと歩くその姿。


 颯太は乱れそうな呼吸を整えつつ、小さく息を吸い込んで、声を張った。


「透!」


 ――

 

 声をかけると、透がゆっくり振り向いた。

 軽く片手を上げて、爽やかな笑顔をこちらに向ける。

「おはよ、颯太。珍しいね、こんな時間に」

「バスが遅れた!」

「そりゃ災難。まあ、朝のバスは遅れるもんだよ」

「いや、“まあ”じゃねえよ!ゲホッゴホッ」


 息が乱れてむせる。脇腹が痛い。透に追いついたので、颯太はそのまま横に並んで歩く。全力で走ってきたので、呼吸はまだ落ち着かない。

「はぁはぁ。透、なんでそんなに余裕あんの?」

「え? 余裕って?」

「あと5分ないよ? 走ろうぜ」

「なんで? いつもこの時間だよ?」

「だから、遅刻魔なのか」

「気持ちは急いでるのに」

「……」


 透はいつもより歩幅を少し広げ、早歩きをし始めたが、走る気配はない。ものすごく焦っている自分との温度差に、颯太は思わず無言になってしまう。

 一方透は歩きながら、桜の木と青空、走り去って小さくなった学生の後ろ姿を組み合わせて写真を撮っている。


「ほら、早く早く!」

「急いでも、間に合わない時は間に合わないじゃん?」

「いや、まだ間に合う!」

「諦めが早いのが俺の長所」

「短所だから!」


 言い合いながら、颯太は透の背中をリュックごと押して進む。

 前から来た他校の生徒が道の端を譲ってくれる。透は軽く会釈して、まるで散歩みたいな顔をしていた。


「お前、焦るって感情ないの?」

「あるよ。でも焦っても未来は変わらないじゃん?」

「変えよう?」

「ぼかぁ、自分の運命を受け入れてる」

「悟るな」


 信号のない横断歩道を渡ると、学校の敷地横の歩道。張り巡らされたフェンスと花壇の横を急いで進む。

 残りは数百メートル。颯太は息を整え直し、再びスピードを上げる。

 颯太に背中を押されている透は「楽ちん、楽ちん」と、のんきなことを言っている。

 もう、こんなやつ置いていきたい。置いていこう。


「先行くぞ!」

「じゃ、あとで」

「いや、そこは一緒に来いよ!」

「走っても結果は変わらないって」

「変わる!」


 結局、透も最後は笑いながら小走りでついてきた。

 教室最短ルートの裏門にたどり着いたその瞬間、チャイムが鳴りはじめた。


「うわっ、鳴った!」

「ゴールのBGMじゃん」

「BGMって言うな!」


 教室に向かって、一か八かのラストスパート。

 チャイムが鳴り終わるまでに入れたら、まだ可能性はある。


「透、マジで走れ!」

「走ってる!」

「歩幅が小せぇ!」

「個性だよ!」


 校舎の建物に向かって、2人は全力で駆けた。

 心臓は破裂しそうに跳ね、息はぜいぜい。

 三段ほどの階段を駆け上がり、裏口のドアを開ける。

 その向こうから、授業前のにぎやかな声があふれてきた。


 ――

 

 教室をのぞき込むと、みんな着席していたものの自由に過ごしていた。教室の時計は始業から3分経過。授業が始まっていてもおかしくない時間だ。

 ドアの外で息を切らしている颯太と透に気がついたクラスメイトが声をかけてきた。

「颯太、今日は休みかと思った」

 ざわめく教室に堂々と入りながら、颯太は答える。

「バスが遅れた。先生は?」

「忘れ物したって、さっき取りに帰った」

 想定外の返答に、颯太は呆然としてしまう。

「間に合った?」

 今度は透に背中を押されながら、教室に入る。

「な。走っても結果は変わらなかっただろ?」

 透の言葉に颯太は笑い、ようやく肩の力が抜けた。間に合ってよかった。



 席に着くとリュックを下ろし、始業の準備をする。

 颯太の席は窓際の後ろ側、透はそのひとつ内側。

 時々日差しが眩しいけれど、教室全体の雰囲気を見れるこの席は気に入っている。

 窓を少し開けると、外の風が頬にあたった。急いできたせいでほてった体に、ひんやりとした風が心地いい。ブラインドが風に揺られて柱にぶつかり、カンカンと音が鳴る。


 前の席の女子が、「さっき、すごい走ってたね」と話しかけてくる。

 颯太は「見てた?」と返しながら、リュックから教科書などを取り出すと机に収めた。

「宮原くんと葛城くんがあんなに走ってるところ、初めて見た」

 透がリュックを机の横にかけつつ言う。

「体育より走ったかも」

「あはは、間に合ってよかったね」

 

 少しずつ息が整ってくる。透はというと、すでに椅子に腰を下ろして、のんびり水筒のお茶を飲みながら、スマホで撮った写真を見返していた。一緒に走ったのに、先に息が整っているのがにくらしい。

 

「透、なに撮ったん?」

「今朝の風景」

「走ってる俺が写ってないだろうな」

「いたかも」

「消せ」

「お気に入りにしとくよ」

 

 透が笑う。

 その声を聞いて、「え、どんな写真?」と前の席の女子が透の写真に興味を持ち始めた。

 颯太は大きく息を吐いた。

 途中で置いていけばよかった。

 

 ――

 

 始業から10分ほど経っても、教官はまだ来なかった。

 颯太はようやく気持ちが落ち着いて来たところだった。となりの透は、いつも通りのマイペースで、筆箱を開けたり閉めたりしている。前の方の席では、雑誌グラビアページの誰が一番かわいいか投票していた。本を読んでいる人もいれば、スマホで遊んでいる人もいる。いつも通りの教室だ。


「……先生、遅いな」


 颯太がぼそっとつぶやくと、透は顔を上げずに答えた。


「春だからね」

「またそれ」

「春って、時間がゆるむんだよ。バスの遅れもそうだし、きっと先生もそう」

「春すげぇな」

 

 笑いながら、颯太はスマホを取り出し、時間潰しにゲームを起動する。

 その横で、透は教科書とノートを準備していた。

 ノートを開くと、ぱらぱらとめくる音がして、手が止まったのが、視界の端に見えた。


「……あれ?」


 いつもの調子と違う、不安そうな小さな声だった。

 颯太は横目で見て尋ねる。


「どうした?」

「ノートの残りが、思ってたより少ない」

「昨日買ったばっかじゃん」

「うん。まだそんなに使った覚えないのに」


 透は首をかしげながら、書き終えたページを1ページずつめくり始めた。ぱら、ぱら……と乾いた音が続く。

 颯太はスマホのゲーム画面から視線を逸らさず、会話を続ける。


「お前、意外と真面目なんじゃないの?」

「いや、そんなはずないんだけど」


 透は笑って言う。

 けれどその笑いが、ほんの少し乾いていた。


 颯太はスマホを机に置くと、自分のノートを取り出した。颯太も、昨日の昼に、同じタイミングでノートを購入していた。

 でも颯太はまだ新しいノートを使っていない。昨日と同じ、残り数ページの古いノートと、まっさらな新しいノートの2冊。一緒に買った透のノートのほうが、角が少し丸くなって、何度もめくられたみたいにくたびれている。

 ノートの取り方は個人差があると言っても、透のノートの減りはずいぶん速い。使った覚えがないというには、確かに妙だ。


「ま、いっか。今日の授業くらいは足りるし」


 透は軽く言いながら、閉じたノートを教科書の下に重ねた。

 颯太はスマホから視線を外し、その様子をみる。透は何か思い悩んでいるように見えた。

 

「透、なんか嫌がら…………」

 颯太が言いかけた声を、透が話し出して遮る。

「わかった。これはきっと、春だからだ」

「……へ?」

「時間の流れが混んでたんだよ。バスにも、教官にも、ノートにも影響があった。春だからね」 

「春、万能だな。てか、お前、さっきから、全部春のせいにしとらん? ほんと、なんかあったら」

 透は再び颯太の言葉を遮るように、微笑んで言った。

「いいかい? 君が想像する範囲のことは何も起きていない。でも、君の理解を超えたことが起こる日も、世の中にはあるんだよ。

わかるかね?颯太くん」

「わかんねえよ!」


 ふたりの声を聞いていた前の席の女子が笑いをこらえて、肩を震わせていた。

 いつもの調子に戻ったように見えて、颯太も笑いながらまたスマホを手に取った。透も笑っていたように見えた。


 ――


 そのとき、教室に教官がようやく入ってきた。

「遅くなって、すみません。プリントを配るので後ろに回して」

 ざわめいていた空気が徐々に静まる。

「せんせー、何してたんすか」

「コピー機の調子が悪くてなぁ」

 前の席から回ってきたプリントは印刷したてのようで、少しホカホカしていた。

 教官は黒板の前に立つと、いつもの調子で「はい、始めます」と言った。

 寝癖がいつも通りある教官の姿を見て、クラスの数人が小さく笑う。

 その軽い笑いも、すぐにチョークの音でかき消された。


 颯太は姿勢を直し、配られたプリントに加え、ノートとシャープペンを準備する。

 透のほうを見ると、先ほど配られたプリントと教科書だけを机に出していた。

 いつもなら最初にノートに日付を書いて、黒板を写すふりをしながら落書きを始めるのに。


 透はペンを持たないまま、ただ黒板を見ていた。

 表情が、いつもの彼と少し違う。

 集中しているようでもなく、眠そうでもない。

 何かを思い出そうとしているような、そんな顔だった。


 チョークが黒板に走る。

 カツ、カツ、と乾いた音。

 透はそれを目で追っている。

 黒板消しで消した跡が白く残る。日直が黒板消しを掃除していないなと、黒板の端を確認する。

 今日の日直は自分だった。

 

 ――遅刻したから。


 自分のせいだと思い少し落ち込みつつ、板書をノートに写し始める。

 書き出してすぐ、ふと手を止めた。

 透がノートを閉じたまま、黒板をぼんやり見ていたからだ。


「……どうした?」

 声を潜めて問うと、透は目だけをこちらに向けた。

「授業を受けてる」

 それだけ言って、また黒板の方を向く。

「ノート、取らなくていいの?」

「うん。今日はいいや」


 それきり、透はまた黙った。颯太は軽く肩をすくめて、板書を写しはじめた。話される内容と、板書と、覚えることと。

 でも、いつものようには、集中できなかった。


――透、ノートどうしたんだろう。机の右上に置いたまま。


 チャイムが鳴る。

 教官が「今日は始まりが少し遅くなってしまい、すみませんでした。今日やった内容はよく使うから、しっかり覚えて使いこなせるように」と言い、教室を出ていった。

 教室に再びざわめきが戻る。


 透はゆっくりと立ち上がると、窓際に寄ってブラインドを上げ、外を見はじめた。

 春の光が差し込み、髪の端を照らす。薄茶色に透けるふわふわの髪の毛が、物語の王子様みたいだ。

 本人は地に足のついた変人なのに。

 颯太は教科書とノートを机に収めつつ、気持ちはそっちに持っていかれていた。


 透はしばらく外を眺めてから、席に戻り、次の授業の準備をし始めた。例のノートは、隠すように教科書に重ねて机に収めていた。

 そのまま何かを考えるように、透は指先を机に置いている。


「……なあ」

 声をかけようとして、やめた。

 呼んでも、今は届かない気がした。


 外から、グラウンドでボールを蹴る音がする。

 誰かがふざける声。クラスで回し読みしている漫画雑誌の最新号の所在を問う声も混ざる。

 その全部が、遠い雑音として聞こえる。


 透の目はまだ、どこか一点を見つめていた。

 風がまた入り、ブラインドが揺れる。

 仲が良いと思っていたのに、隠し事をされているようで、ごまかされているようで、少し寂しかった。颯太は小さく息を吐いた。


 ――そのノートの中に何が書かれていたのか、颯太が知るのは、もう少し先のこと。

 颯太は嫌がらせでなかったことに安心しつつも、頭を抱えることになる。

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