第四十四話:感情のトリガーを操る
ギルドホールでの訓練と外縁林での実戦。これにより、俺はかつてない自信と、自身の《予知》の制御に確かな手応えを感じていた。
呼吸の安定化と、微細な情報の揺らぎを読み取る方法。これによって、未来を意識的に、自分の意志で把握できる感覚は、俺にこれまでにない安心感と興奮をもたらしていた。もう、恐怖に駆られて力が暴発することはない。そう信じられるようになった。
しかし、ルナの指導はまだ終わりではなかった。
ギルドの修行部屋に戻ると、ルナは鋭い視線で俺を見据えた。その目には、これまでの訓練に対する満足と、次なる試練への厳しい期待が混じっているのが見て取れた。
「アルト、あなたの《エピタフ》の制御は、次の段階へ進むわ」
ルナは落ち着いた、しかし重みのある口調で語り始めた。
「これまで私たちは、感情という大きなノイズを完全に排除し、純粋な『情報の揺らぎ』だけを読み取る訓練をしてきた。それは、無意識の連鎖――暴走を防ぐための、基礎の土台よ。同時に、《残心読解》で、感情に左右されない純粋な過去の軌跡を読み取る精度も上げた」
俺は静かに頷き、ルナの次の言葉を待つ。
「しかし、実戦では感情の揺れは必ず発生する。恐怖、焦燥、怒り、喜び――それらは、あなたの時属性の能力を活性化させる、最も強力な増幅器でもある。この増幅器を、あなたの意志で意識的にオン・オフできなければ、あなたの制御は不完全よ」
俺はその言葉を静かに噛みしめた。確かにそうだ。
これまでは感情を避け、呼吸の安定こそがすべてだと信じて訓練してきた。だが、感情をトリガーとして暴発してきたこの力の本質は、やはり感情と密接に結びついているのだ。その本質を意図的に利用し、それでいて暴走させずに利用する方法を学ばねばならない。
「つまり……意図的に感情の波を作り出し、その波の中で《エピタフ》を安定して起動させる訓練、ということですね」
俺が確認するように言うと、ルナは微かに頷いた。
「ええ。これからは、あなた自身の感情のトリガーを操る訓練を始める。感情は起爆剤であり、制御の妨げではない。それを証明してみせて」
訓練は、ルナの厳格な監督の下で始まった。
彼女は俺を精神的に追い込むため、直接的な物理的な攻撃ではなく、心理的なプレッシャーを用いた。
「アルト、ここに三つの木箱がある。このうち一つだけに、ギルドに緊急事態を知らせる魔力的な伝播符を仕込んである。その伝播符が発動する五秒前の未来を予知し、発動前に破壊しなさい」
ルナはそう告げた。三つの木箱は外見が全く同じで、一見しただけでは危険の所在はわからない。伝播符が発動すれば、訓練どころかギルド中が大騒ぎになる。
俺の心に、ルナが意図した通りの焦燥感が自然と湧き上がる。
「早く予知しなければ……! 伝播符が発動するまで時間がない……しかし、焦れば呼吸が乱れ、《デセレーション》が暴発するかもしれない……!」
額に冷たい汗が滲む。まさに、ルナが俺に求めた心理状況だ。
焦燥が魔力の流れを乱そうとする。心臓の鼓動が早まり、魔力の湖面が波打ち始めた。
だが、ここで俺は、訓練で培った呼吸の制御を思い出した。
俺は焦燥という強力な感情を、あくまで「外部のノイズ」として認識し、自分の意志が宿る「内部の核」から切り離す。深く息を吐き、乱れそうになる魔力の流れを、一本の細い糸のように整える。
そして、その感情の波を、力への増幅器として利用するよう、意識的に誘導した。
右手のひらに宿る《心の微光》。その青白い光は、心臓の鼓動に合わせて激しく点滅している。感情の波が増幅器として機能し、俺の魔力を強く押し上げていることが体感できる。
俺は深く集中し、この増幅された力に乗って、断片的な未来の映像を探る。この状態で《残心読解》を使えば、過去にルナが伝播符を仕込んだ時の「魔力の残留思念」が、感情の増幅によって読み取りやすくなっているはずだ。
木箱の内部で伝播符が魔力を帯び始める、一瞬の兆候。過去(残心)から未来(予知)へと繋がる、時間の流れの微妙なズレを捉える。
――チリッ!
脳裏に映像が流れ込む。「中央の木箱だ!」
俺は叫び、同時に風魔法を練り上げ、木箱全体を瞬時に囲む。
「風――《空気の檻》!」
伝播符の魔力は、俺の予知から正確に五秒後、内部で発動した。しかし、強力な魔力を込めた風の壁が周囲を完全に遮断していたため、外部に情報は漏れず、危険は回避された。
ルナは静かに木箱を回収し、俺の魔力残量を確認した。
「成功よ、アルト。予知した未来に対して、必要な魔力と複合魔法を適切に使えた。そして何より素晴らしいのは、この極度の焦燥の下で、《残心読解》と《エピタフ》を併用しながら、あなたの魔力消耗が最小限に抑えられていることよ」
俺は床にへたり込み、荒い息を整える。
精神は極限まで疲弊しているが、心は高揚していた。感情の波が、かつての《デセレーション》や《アクセラレーション》のような派生スキルの暴発を引き起こすことなく、《予知》の起動を助けるトリガーとして機能した。呼吸を制御することで、暴走を防ぎ、力を意図的に活用できたことを、この身で実感した。
訓練は続いた。
ルナは、次は「後悔」や「怒り」といった、より複雑で制御が難しい感情を意図的に俺に与え、その中で《エピタフ》と《残心読解》を起動させるよう求めた。過去のトラウマを呼び起こされそうになり、何度も《デセレーション》が暴発しかけて、全身の時間が僅かに引き伸ばされるような錯覚に襲われた。その都度、ルナの鋭い視線と、俺の研ぎ澄まされた呼吸がそれをねじ伏せる。
全身は汗と疲労で限界に達していたが、心は満たされていた。
俺の力は、もはや暴走する恐怖の道具ではない。
未来を切り開き、仲間を守るための、俺自身の完全な意志の道具へと変わりつつある。
修行部屋の窓から夕陽が差し込む中、アルトの瞳は確かな覚悟と、自分の力を完全に掌握しつつある自信に満ちていた。感情はもはや制御の妨げではなく、力を最大限に引き出すための増幅器となった。
俺は静かに息を整え、明日以降の訓練に向けて心を落ち着けた。
《予知》の制御は成った。次は、この感情の増幅器を用いて、まだ自らの意志で起動できていない《デセレーション》や《アクセラレーション》を、恐怖や絶望なしに制御する段階へと進むのだろう。
俺の時属性の力は、ついに自分自身の意志の下で動く存在となったのである。




