第四十三話:小さな危機の試練
ギルドホールでの訓練は、俺に確かな手応えと、ささやかな自信を与えてくれた。
感情の波紋という外的なトリガーに頼るのではなく、自らの呼吸を安定させ、魔力の湖面を穏やかに保ちながら、微細な情報の揺らぎから未来の断片を読み取る。この能力を身につけたことは、《予知:エピタフ》の制御において、まさに革命的な進歩だった。
俺はすぐにでも、次のステップに進みたいと逸る気持ちを抑えられずにいた。自らの力を完成させ、あの未来の崩壊を防ぐためには、一刻も早く実戦での応用を試さなければならないと、焦燥感にも似た感情が胸をざわつかせる。
しかし、ルナは俺のその自信に水を差すように、次の訓練をすぐには許さなかった。
「意識的な制御を掴んだ今だからこそ、休息が必要よ、アルト。精神を極度に消耗した状態での訓練は、再び無意識の連鎖――暴走を引き起こす危険があるわ」
ルナの眼差しは揺るがず、俺の焦燥を押しとどめた。この人の言うことに逆らっても意味がないことは、これまでの経験で痛いほど分かっている。
「……わかりました。では、何をすれば?」
そう問うと、ルナは静かに一つの依頼書を俺に手渡した。
「エルトリア外縁林での迷子探索の依頼よ。魔物の危険はほとんどないけれど、森の起伏や、予測不能な事象が待ち受けている。――これが、あなたの『小さな危機の試練』よ」
ルナは続けた。「理性による《エピタフ》制御を、実戦で確認するための課題。感情が昂ぶるような大きな危機ではなく、あくまで日常に潜む小さな危機。そこであなたの制御が崩れないかを確認するわ」
焦る気持ちをグッと抑え込み、俺は呼吸を整えた。
「――行ってきます」
エルトリア外縁林に足を踏み入れた瞬間、過去の記憶が脳裏をよぎる。以前、恐怖がトリガーとなって《デセレーション》が暴発した、あの瞬間だ。
だが、今は違う。今回は、完全に俺の意志で、制御された状態だ。
森の湿った地面に踏み込むたび、枯葉や小枝がわずかに音を立てる。その音一つひとつ、森の匂い、空気の微細な流れまでもが、俺の全身の感覚を研ぎ澄ませていく。
「呼吸のリズムを崩さない……これが、暴走を防ぎ、未来を読み取る鍵だ」
俺は右手に微かに《心の微光》を宿した。掌の青白い光は、俺自身の魔力と精神の安定の象徴だ。この光を通して、森の微細な情報の揺らぎを感じ取る。
迷子の手がかりを探す。
地面の踏み跡。折れた小枝。土の湿度や、人の魔力反応が残した残心。それらのすべてが、俺の意識の中で断片的な未来を、あるいは過去の軌跡を描き始める。
深い、深い集中。
外界の喧騒はすでになく、代わりに、自然界の静かな情報だけが、俺の脳内に流れ込んでくる。
チカッ
脳裏に、一つの映像が浮かんだ。それは、確かな未来の断片だった。
――右側の大きな樫の木の根元で、膝を抱えて座る子供の姿。
俺は迷いなく進路を右に変え、予知した場所、樫の木の下に急いだ。
予想通り、そこには小さな子供が座り込んでいた。
「よかった、無事だ!」
俺の姿を見た子供は、安堵のあまり泣き出しそうな声を上げた。
理性による制御が、現実の救助という形で結実した瞬間。俺の心に、小さな達成感がじんわりと広がった。
しかし、俺は安堵に浸る暇を与えなかった。
森の静寂は、逆に警戒心を高める要素となる。子供を抱き上げ、周囲を警戒しながら呼吸のリズムを整えていると、微細な異変が《心の微光》を通じて察知された。
地面の極小の振動。
わずかに茂みが揺れた残心。
視覚では確認できない、魔力の流れとは異なる物理的な動き。
それは、予測不能な危険が、俺たちに迫っていることを示していた。
わずか二秒後。断片的な未来が、鮮明な映像として脳裏に映る。
――茂みから飛び出す、毒々しい色の蛇。子供が驚いて踏み出す足。そして、噛まれる瞬間――!
俺は瞬時に、そして冷静に反応した。恐怖による暴発はない。完全に意志の力だ。
「二秒後、右後方! 動かないで!」
声を張り上げながら、《エピタフ》で予知した毒蛇の未来軌道の手前、地面すれすれの場所に、極小の土魔法を展開した。
「土――《泥の障壁》!」
地面から数センチの高さで泥の壁が立ち上がり、茂みから飛び出した毒蛇の勢いを削ぐ。蛇は壁に衝突し、体勢を崩した。その一瞬の硬直を逃さず、俺は風魔法を纏わせた右手を振る。
「風《疾風の一撃》!」
毒蛇は遠くの木へと吹き飛ばされ、再び襲いかかってくることはないだろう。
一連の行動は秒単位で完了した。子供は状況を理解できず呆然としているが、俺の心には、かつてない安堵と、確かな自信が広がった。
これまでの危機とは異なり、魔力消耗は最小限に抑えられ、《予知:エピタフ》は完璧に制御下にあった。しかし、《デセレーション》や《アクセラレーション》といった強力な派生スキルが暴発する気配はなかったものの、俺はまだそれらを自らの意志で起動し、制御する訓練には入っていない。成功したのはあくまで《予知》の制御。一歩間違えれば、制御しきれない力が暴発する危険性は依然として残っている。
「……よかった。この力は、俺の意志で動く……!」
《予知》が俺の意志で動いた、その確かな喜びだけが胸に広がる。孤独な修行の日々、未来を恐れる心、無意識の連鎖への恐怖を全て乗り越え、《予知》という力の第一段階を乗り越えた者だけが味わえる、確かな達成感だった。
外縁林を抜け、街の門が視界に入ると、俺の足取りは迷いなく、力強く進む。
俺の心には、未来を自ら制御する力への確信が根付き、これから待ち受けるであろう、《デセレーション》や《アクセラレーション》を含む完全な時属性魔法の制御という、さらなる試練に立ち向かう準備が整ったことを告げていた。俺はもう、過去の暴走に怯える臆病な術者ではない。




