第四話:誕生と、村の日常
柔らかな朝霧が山肌を薄く覆い、静かな世界がゆっくりと目を覚ます。白い靄の向こうから光が差し込み、木々の影が輪郭を取り戻していく。その景色の中心で、俺――アルトは新しい人生を迎えていた。
ここは《リーフェル村》。
地図にも載らないほど小さな山間の集落だ。四方を《レフィナの森》に囲まれ、小川のせせらぎが村のどこにいても聞こえる。
木造の家は互いに寄り添うように並び、朝になると煙突から上がる白い煙が空に溶け込んでいく。鳥のさえずり。畑を耕す村人の足音。薪を割る音。
そんな慎ましい日々の音が、村の時間を作っていた。
そしてその村で俺は、フィーナとゲラルドの息子として誕生した。
赤子の誕生は村の喜びだが、俺の誕生は特に歓迎されたらしい。フィーナは柔らかい金髪を揺らしながら、いつも俺を抱きしめてくれた。
「アルト、今日もよく眠れたね」
その声には、なんというか……包まれるような温かさがあった。
父のゲラルドは大柄な狩人で、普段は豪快に笑うくせに、俺を抱くときは驚くほど慎重だ。
「ほら、落ちるなよ……よしよし」
その手つきの優しさは、言葉以上に心を落ち着かせてくれる。
俺は――生まれつき、あまり手のかからない子だったらしい。夜泣きは少なく、よく眠り、起きているときは周りをじっと眺めていた。
(……この世界は、本当にきれいだな)
前世の記憶は薄くなりつつあった。街の喧噪、何かを守ろうとした瞬間の感触――そんな断片が夢の底で揺れるが、意識すると霧のように消えていく。
けれど、俺はそれを追う必要は感じていなかった。
ここには温もりがあった。俺を抱いてくれる人がいた。
それで十分だった。
◇
五歳になる頃には、村での生活は完全に日常になっていた。
朝は、鶏の声と、母がパンをこねる音で目が覚める。眠い目をこすりながら父と森の入口まで散歩するのが日課だ。
朝霧の森は、言葉にできないほど美しい。
湿った土の匂い。朝露を含んだ若草の香り。
小さな獣が走る気配に耳を澄ませて、葉が揺れる音に足を止める。
「アルト、置いていくぞ」
「もう行く」
父の言葉に小走りで追いつく。そんな時間が好きだった。
家に戻ると、母の作る甘い野草スープと焼きたてのパンが待っている。それを食べると、昼前には村の子どもたちと集まり、原っぱでめいっぱい遊んだ。
俺は大声で笑うタイプじゃないけど、村の子たちといると、胸の奥がじんわりと温かくなる。
夕方には村の家々から灯りがともり、あちこちで晩ごはんの匂いが漂う。暖炉の薪がはぜる音が響き、母が鼻歌を歌い、父は狩り道具の手入れをしながらときおり俺を見て微笑む。
穏やかで、静かで――俺はその時間が心底好きだった。
ここにいていいんだと、胸の奥からそう思える日々だった。
◇
しかし、そんな平和な日々の中で、ひとつだけ“異質”なものがあった。
俺の右手の甲に刻まれた、見たこともない紋様。
幾何学的な線と記号が複雑に絡み合った、不思議な印。
村の誰も見たことがなく、
「珍しい痣だな」
その程度の反応で終わった。
危険視する者も、恐れる者もいない。
ここはそういう場所だった。
けれど――俺には、この紋様がただの痣ではないと分かっていた。
夜になると、右手の甲がかすかに熱を帯びる。
(……やっぱり、今日もだ)
熱は痛みではない。
脈打つような温度が内側に広がり、胸まで伝わってくる。
その感覚は、まるで――誰かに呼ばれているようだった。
遠く、遠く。
この世界のどこかから、微かな声が届いている。
とはいえ、当時の俺はその意味を知らなかった。
知らされてもいない。
この印が“祝福”の証であり、
後に俺の魔力量が測定不能になるきっかけであり、
誰もがひとつの属性しか持たない世界で、八つすべての属性を扱える異質さの前兆であることも――。
右手の紋様が俺の運命を決めるなんて、想像すらしなかった。
◇
けれどこの印は、やがて俺を日常から連れ出す。
穏やかな村を越え、広い世界へ放り出すことになる。
そして――三年後。
その“始まりの影”が、静かに近づいていくのだった。




