第三十九話:エピタフの偏りと制御の糸口
ギルド資料室の奥にある修行部屋。そこには、薄暗いランプの光と、古びた書棚に囲まれた静寂が漂っていた。俺は床に正座し、呼吸を整えながら右手の甲に刻まれた時属性の紋様に意識を集中させる。昨日の森での暴走から一晩眠り、魔力は徐々に回復していたものの、未だ全身には深い疲労の色が残っていた。
「集中しなさい、アルト。次に扉を開けて入ってくるのは誰で、どんな目的で来るのか、わずか数秒先の未来を読み取るのよ」
ルナさんの声は静かだが鋭く、修行部屋の空気にしっかりと届いた。俺は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ます。ギルドホールの扉の向こう側に広がる、無数の人々の意識と、時間の流れの微かな揺らぎを感じ取ろうとする。
(扉の向こう側……そこが、俺にとっての未来の片鱗がある場所……)
小さな震えが身体を走り、脳内に微かな映像が流れ込む。開かれる扉、足音、そして微妙な感情の波動。俺は心の中でゆっくりとカウントを始めた。
「……五、四、三、二……」
その瞬間、予知した通り、勢いよく扉が開き、新米のギルド職員が飛び込んできた。彼は依頼書を握りしめ、明らかに興奮と焦りが入り混じった表情を浮かべている。
「正確だわ……。入ってくるタイミングも人物も、そして感情の揺れまで予知できた」
ルナさんは満足そうに頷く。しかし、俺の顔には悔しさが滲んでいた。俺の額には汗が滲み、集中を維持するための精神的消耗は無視できない。
「……でも、ルナさん。成功率が低すぎます」
振り返れば、これまでに数十回扉の予知を試みてきたが、読み取れたのはごく一部だ。多くは日常的な行動をする職員や、急ぎのない冒険者だった。俺が予知できたのは、極端に強い感情が絡む場面ばかりだった。
「ダメだ……。さっきのお茶を運んできただけの職員は、全く予知できなかった」
ルナさんは俺が記録したメモを手に取り、静かに指を置いた。そのメモには、予知成功例と失敗例が細かく書き記されている。
「あなたが予知できたのは、『怪我をした冒険者の家族』、『緊急連絡を持ってきた職員』、そして先ほどの『新規依頼に興奮している職員』。共通点は一つよ。感情が乱れていること」
俺の視線が一点に固まる。全身に衝撃が走った。
「感情……?じゃあ、森で俺があの人たちの死の瞬間を予知できたのも、俺自身の感情じゃなくて、あの人たちの絶望や恐怖がトリガーになっていたから……?」
ルナさんは深く頷き、俺の肩に手を置いた。その手の重みが、俺の能力の根源を示している気がした。
「その通り。あなたの《予知:エピタフ》は、まだ無意識に依存している状態。死の危機や強烈な感情が、時間の流れに大きな波紋を起こした時だけ、その力が強制的に反応するの。平穏な日常や、微細な情報の変化では、まだあなたの意志ではほとんど反応しない」
俺は息を呑む。森での出来事、無意識に発動した《デセレーション》、そして救えた命。全ては、他者の強烈な感情に触発された連鎖だった。俺の意志ではなかった。
「……じゃあ、俺の意思じゃ、まだどうにもできないってことか……」
絶望感が胸に広がる。このままでは、俺はいつまで経っても自分の能力の奴隷であり、いつかこの力が暴走して自分を破滅させるのではないかという恐怖が、再び蘇ってきた。
「ええ。だからこそ、特訓が必要なのよ」
ルナさんは、一瞬視線を落とし、かつて時属性の紋章があった右手の甲をそっと撫でた。
「私がかつて失敗したのは、恐怖という感情に力を依存しすぎたから。そして、《デセレーション》を発動する際に、感情を制御できなかったせいで、魔力の流れが暴走した。あなたの《エピタフ》の制御も、同じ失敗を繰り返しかねない」
ルナさんは再び俺を真っ直ぐ見据えた。
「だから、次の訓練では、感情の波紋の閾値を意図的に下げる必要がある。あなたの《エピタフ》を理性的な道具として扱う第一歩は、感情からの独立よ。感情という大きな波紋に頼らず、純粋な意志で時間の情報を読み取れるようになれば、《デセレーション》の無意識発動も防げる。それが、私が手に入れられなかった『感情から切り離された絶対的な制御』への道であり、禁忌の連鎖を断つ唯一の方法なの」
俺はゆっくりと頷いた。今までの訓練は、恐怖や死の影に触れることで力を引き出す方法だった。しかしそれでは、制御の余地はない。今後は自分の意思で力を呼び出し、未来を読み、行動を選べるようになる必要がある。
「わかった……やってみます。この力を、必ず俺の意志で動かせるようにします」
修行部屋の静寂の中、俺は再び手を右手の甲に置き、意識を集中させた。扉の先の未来、微細な情報、感情の揺れを超えた“純粋な時間の流れ”。その微かな波動に指先を触れ、目を閉じて呼吸を整える。
少しずつだが、世界の歪みが俺の感覚に届く。微細な光景の変化、物体の僅かな揺れ。感情に頼らず、理性で読み取る。その試みは、俺の力の偏りを修正する、孤独で苛烈な第一歩だった。
俺の《予知》を理性的な道具として使いこなす挑戦は、ここに始まった。恐怖や焦燥ではなく、自分の意思で未来を操るための長く険しい道。その先に、俺が求める“完全な制御”が待っている。
修行部屋の窓から差し込む淡い光が、俺の手元を照らす。心拍が落ち着き、視界の隅にギルドホールの喧騒が遠く聞こえる。俺は小さく息を吸い、静かに指を動かした。今日もまた、未来を読むための一歩が始まる。




