第三十七話 時を凍らせる力
ギルド資料室に引きこもって、《思考加速》の修行を始めてから、いつの間にか一週間が過ぎていた。埃っぽい紙の匂いと、静まり返った空気に包まれた部屋で、俺は今日もまた成功できずに膝を落とす。
呼吸は乱れ、魔力は制御を拒むように暴れ回り、集中なんて何度切れたか覚えていない。俺の内側には確かに“時”の気配があるのに、まるで分厚い扉の向こう側に閉じ込められたまま、手を伸ばしても掴めない。そんなもどかしさだけが心に積もっていく。
「……やっぱり、意識的にコントロールする段階じゃないのか」
何度目かの独り言がこぼれたとき、横にいたルナが静かに息をついた。責めているわけじゃない。だけど、彼女の瞳にほんのわずか陰が差したのを俺は見逃さなかった。
ルナはそっと俺の手の甲に触れる。指先は温かいけれど、その表情はどこか決意を秘めている。
「アルト。あなたの時属性は緊急時――特に、死を感じた瞬間にだけ強制発動するタイプなのね。訓練だけで引き出せるほど単純じゃないって事だわ」
「……じゃあ、どうすれば」
俺の問いに、ルナは迷いなく言った。
「次回からは実戦で行きましょう」
重い言葉だった。けれど不思議と、俺の胸の奥には小さな光が灯った。希望というより、覚悟に近い感覚だった。
「今日から軽い依頼を受けてもらうわ。採取依頼よ。危険度は低いし、あなたなら十分こなせる」
「でも……また制御できない時魔法が出たら……」
「そのときは逃げなさい。すぐに」
ルナの声は凛としていて、一切の揺らぎがなかった。
「いまのあなたに必要なのは“感覚”を掴むことよ。絶対に無茶はしない。それだけ覚えておけばいいわ」
俺は深くうなずいた。
こうして、久しぶりに俺は単独で依頼を受け、外へ出ることになった。
エルトリアの西にある外縁林――襲撃された地域とは反対側にある、比較的安全な森だった。F〜Eランク向けの依頼が多く、俺でも問題なく往復できる場所だ。
森へ足を踏み入れると、俺はいつものように慎重に進みながら、周囲へ罠の魔法を仕込んでいく。
「《泥濘化》……よし。こっちは《影縛りの茨》……」
長期戦は避けないといけない。時魔法が暴発する可能性を考えれば、少しでも戦闘を有利にするべきだ。自然と俺の足取りも慎重になる。
(採取して帰るだけ……今日はそれだけだ)
そう思った矢先――
「やめてっ!! 誰か――!!」
森の奥から、若い少女の悲鳴が響いた。心臓が跳ね上がる。俺は反射的に走り出し、茂みをかき分けた。
そこには、若い冒険者三人が、三体のグリムファングに追い詰められている光景があった。
「グリムファング……!」
Eランクにとっては死神そのものだ。三人は武器を震わせ、詠唱は途切れ、完全に逃げ場がなかった。
(今の俺じゃ……三体同時は無理だ……!)
頭にルナの忠告が蘇る。
――何かあったら即座に逃げろ。
それが正しい選択だ。けれど俺の身体は動かなかった。
(……この感覚、知っている。未来視じゃない……でも、“死の匂い”だ)
胸を刺すような嫌悪感。過去に何度も見てしまった、人が死ぬ“瞬間”の気配。
(助けなきゃ……!)
考えるより先に、俺は駆けていた。
「間に合わない……なら――!」
意識的に《アクセラレーション》を発動しようとする。しかし焦りで魔力が暴れ、頭が熱くなって意識が歪む。
「動け……動けよッ……!!」
叫んだ、まさにその瞬間――世界が、止まった。
空気は凍りついたように静止し、風の音も消え、木の葉の揺れさえ止まっている。グリムファングの振り上げた爪も、絶望に叫んだ少女の表情も、そのまま固まっていた。
俺だけが動ける。
(これは……《アクセラレーション》じゃない。俺が速いんじゃない……周囲が遅い……!)
ルナが言っていた、もう一つの時魔法。
――《収縮時間》。
感情を引き金に、周囲の時間そのものを遅延させる防御系の時魔法。無意識に発動したということは、俺の“死の感覚”が危険域に達したのだ。
深く息を吸い、吐く。異様なほどの余裕がある。魔力も尽きない。
(順番に……確実に詠唱する)
俺はゆっくりと指を組んだ。
「土・水……《泥濘化》!」
時間は遅くとも、魔法は確実に発動し、三体の足元に泥が広がる。
「木・闇……《影縛りの茨》!」
黒い茨が地面の影から伸び、三体を固く縛り付ける。
次の瞬間、世界が弾けるように動き出した。
「ギャウッ!?」
理解が追いつかずに暴れるグリムファング。呆然とする若者たち。
――そして俺は、膝をついた。
「っ……!」
魔力ではなく、精神力が一気に削れた。頭が焼けるように熱く、視界が白く滲む。
(また……制御できなかった……。こんなんじゃ……ルナさんを……誰も……)
守れない。救えない。未来の悲劇も変えられない。
時魔法は俺の意思とは無関係に発動する。そして――俺が危険へ踏み込むほど、その代償は大きくなる。
確信する。
――この力は、必ず“代償”を求める。
逃れられないものとして、確実に。




