第三十六話:師と弟子、そして禁忌の記憶
エルトリアを襲った魔物群との激闘から数日が経った。街中に漂っていた焦燥は少しずつ薄れ、瓦礫の撤去作業や商店の再開も始まり、住民たちは日常を取り戻そうとしている。それでも、俺に休息はなかった。外ではなく、もっと厄介で、もっと危険な──自分の内側に潜む“時の力”と向き合う戦いが続いていたからだ。
ギルドの資料室。その奥にさらにもう一段階、重い扉と結界で隔離された特殊訓練室がある。今はもう使われることのほとんどない、危険魔法の実験用の部屋。外からの音も魔力も一切遮断されるため、俺のような制御不能の力を持つ者には最適な場だった。
部屋の中心で、俺はルナさんと向き合っていた。
「アルト。今日の課題はただひとつよ」
ルナさんの声は静かだけど、緊張を含んでいた。
「《思考加速》を、意識して発動し、意識して解除できるようになること。無意識の偶然ではなく、あなた自身の意思で時を操るの」
「……はい」
深く息を吸って目を閉じる。あの日、《蒸気の破滅》を使った際、無意識に《アクセラレーション》が発動した。あれは暴走の瀬戸際で、奇跡のような成功だった。だが、意識しようとした途端、俺の魔力はうまく働かず、思考が散っていく。
(落ち着け……焦るな……)
集中しようとしたその瞬間──
パアンッ!
訓練用の魔力球が弾け飛び、圧が頬を打った。
「くっ……!」
歯を食いしばる俺の肩に、ルナさんがそっと手を置く。
「無理に力をこじ開けようとすると逆効果よ。ほら、吸って……吐いて」
指示されるままに呼吸を整える。ルナさんの声は冷静で、けれど不思議な優しさがあった。
「時属性の魔法は、心が少し乱れただけで制御が崩れるの。焦るほど、魔力が逆流して暴走するわ」
「わかってる……でも……」
「意識すると暴れる。無心になろうとすると反応しない。それでいいのよ。むしろ、最初からできたら怖いわ」
穏やかに言うが、ルナさんの瞳の奥には深い影が差していた。そこには俺が知らない過去がある。けれど、その影は何故か胸の奥に刺さるようで、息が重くなる。
訓練をいったん中断したルナさんが、俺の前に立って静かに言った。
「アルト。あなたに伝えておかなければならないことがあるの」
そう言って右手のグローブを外した。露わになった手の甲には、淡い青に輝く紋章──俺と同じ、“時の紋章”が刻まれていた。
「その紋章……ルナさんも……?」
「ええ。私は──いえ、“かつては”時属性の魔法が使えたわ」
胸が強く脈打つ。ルナさんは淡々と続けた。
「使えたのは三つ。《思考加速》。
時間の流れを巻き戻す《時間逆行》。
そして、周囲の時間を極端に遅くする《収縮時間》。
防御にも攻撃にも使える、強力な時魔法よ」
背筋を冷たいものが駆け抜けた。そんな魔法……想像しただけで恐ろしく、同時に強く惹かれる。
「でも、私はその力を失った」
ルナさんの指先が、震えた。
「広域戦争の最前線で、撤退が間に合わず焦った私は……《アクセラレーション》で思考を加速させながら、《デセレーション》を同時に使おうとしたの。加速と遅延。真逆の時魔法を……」
目を伏せたルナさんの言葉が、刃のように胸に刺さる。
「その瞬間、魔力が暴走した。魔力回路が焼き切れ、私は“魔法を使う身体”を失った。時属性の能力者としての私は、その日死んだのよ」
ルナさんの声は平坦だけど、深い痛みが滲んでいた。
喉がひきつって、言葉が出ない。
「アルト。これは忠告じゃない。警告よ」
ルナさんが俺の目を見据える。その目は、炎ではなく氷のように鋭かった。
「《アクセラレーション》発動中に、他の時魔法を重ねるのは絶対に禁止。あなたの身体も精神も耐えられない。私と同じく魔力回路が崩壊するわ」
部屋の空気が重力を増したように沈む。
「それから、複合魔法も段階的に。前回の《蒸気の破滅》は、加速状態で連続詠唱が偶然成功しただけ。あんな奇跡は二度と再現しようとしてはいけない。必ず間を開けなさい。」
「……わかりました」
握った拳に汗が滲む。ルナさんの過去を聞いたことで、俺の背負う責任は桁違いに重くなった。もう間違えられない。
「同じ過ちは絶対にしません。……ルナさんが教えてくれることを全部受け止めます。だから、俺はこの力を……必ず制御できるようになります」
「そう言えるなら十分よ」
ルナさんは、ようやく少しだけ笑った。
「あなたはまだ未熟。でも、未熟さと向き合える。その姿勢こそが、時属性の資質なの。さあ──もう一度よ、アルト」
「はい!」
再び魔力球の前に立つ。深呼吸。心を静かに、澄みきった湖面のように。
余計な考えを捨てて、ただ“時”だけを意識する。
俺は──前に進む。
どんな未来でも、逃げずに。
そう決意を固めた瞬間、俺の内側で小さく“カチリ”と何かが噛み合う音がした気がした。
ここからが、本当の始まりだ。
俺の“時”を巡る戦いは、今ようやく幕を開けたのだった。




