第三十二話:魔族の影と撤退戦
森は、さっきまでの戦いの余韻をそのまま飲み込んでいた。折れた木々、焦げ付いた地面、そして蒸気に溶ける血の匂い。あれだけの咆哮と炎と絶叫が渦巻いていたはずなのに、不思議と静まり返っている。
僕が放った《蒸気の破滅》は、確かに前衛の魔物たちを飲み込み、戦場をひっくり返した。あれだけ押し寄せていた魔物たちは統率を完全に失い、バラバラの方向へ逃げていく。
「押せる! このまま押し返せ!」
援軍の冒険者が叫び、足音を響かせて前へ飛び込む。その前列を切り裂くように、シエラさんが炎の剣を振り抜き、赤い髪を揺らしながら魔物に斬りかかった。
「アルト! 前は任せる、後衛は援護に徹しろ!」
「わかってます!」
僕はすぐさま魔力を展開し、《泥濘化》《影縛りの茨》を次々と発動させた。足を取られた魔物たちに、弓と魔法が容赦なく降り注ぎ、次々と倒れていく。
押し返している。確実に有利だ。乱戦だった状況が、追撃戦に変わっていく。
――なのに。
(……なんだ、この嫌な気配)
戦場の喧騒の裏側から、冷たいものが静かに滲んでくるような、そんな感覚が背筋を這い上がる。蒸気の向こう。焦げた木の奥。
そこに“影”が立っていた。
人より大きく、獣より静かで、ただ佇むだけで森の空気を一段重くする存在感。
黒い鎧。紫に脈動する長柄武器。
そして、武器よりも冷たく深い“視線”。
魔族――。
でも、ただの魔族じゃない。そこにいるだけで、息が詰まる。僕の魔力が揺れる。世界が少しだけ軋んだように感じた。
(……勝てない)
その言葉が、逃げ場のない事実として胸に突き刺さる。
魔族は無言のまま戦場全体を見渡した。たったそれだけで、冒険者たちの動きが一瞬止まる。シエラさんでさえ、剣を握る手がわずかに沈んだ。
「……なんだ、あいつ……」
その魔族は一歩だけ、後ろへ下がった。そして――森の奥へ、静かに姿を消していった。
「え……撤退?」
冒険者の声が震える。
「本気かよ……指揮官級の魔族だぞ? なんで……」
「知らん……だが、引いたのは確かだ!」
安堵の声が広がるが、それでも魔物の残党はまだ残っていた。
「アルト! 援護、もう少し頼む!」
「はい!」
僕は深呼吸し、再び複数の初級魔法を連続展開する。魔力が尽きることはない。だからこそ、安定したサポートを続けられる。逃げる魔物を足止めし、援軍が追い詰めて倒していく。
時間にすれば二十分ほど。ようやく森は静寂を取り戻した。
どっと疲れが押し寄せて、僕はその場に座り込んだ。泥と水と血が混じった匂いが、改めて「終わったんだ」と実感させてくる。
「よくやったな、坊主」
シエラさんが近づき、どっかと隣に腰を下ろした。鎧に付いた血をぬぐいながら、にかっと笑う。
「お前の足止めがなきゃ、あたしらもこんなに楽に終われなかった」
「シエラさんこそ、前線すごかったですよ……」
「慣れてるんだよ、こういうのは」
へらっと笑っているけど、その赤い瞳はずっと森の奥を警戒していた。
「あの黒いやつ……ただ者じゃねぇ。なんで出てきて、なんで引っ込んだ?」
「……わかりません。でも、見てました」
「ああ、見てたな。それも……坊主、お前のことをだ」
僕は言葉を失った。
(未来では……ここは“崩壊”していたはずだ)
見たことがある。知っている。なのに、現実は違っている。
すれ違った未来といまの状況。その齟齬が、胸の奥でざわついた。
「さてと。私は隣街のギルドに戻って報告だ。今回の襲撃、放置できねぇ」
「あの魔族のことも、ですよね」
「当然だ。あんなの、どこの街でも大問題だ」
シエラさんの声には、普段の豪快さとは違う重みがあった。
「アルト、お前……しばらく気をつけとけ。あの魔族、お前を……“確認してた”」
「……はい。気をつけます」
「まったく、坊主のくせに肝が据わってるじゃねぇか」
笑いながら僕の肩をぽんぽん叩き、シエラさんは立ち上がる。
「じゃ、報告終わったらまた戻る。生きてればな!」
「やめてくださいよ、その言い方!」
「はははっ!」
笑いながら、森の出口へと歩いていく彼女の背中は、炎みたいに力強かった。
その姿が見えなくなる頃、僕は拳を固く握りしめる。
(もっと……強くならないと)
《蒸気の破滅》で押し返したけれど、それはただの一時しのぎ。黒い魔族が撤退したのは敗北じゃない。観察だ。警告だ。
僕自身を見ていたあの視線は、まぎれもなく“敵意”じゃなく“興味”だった。
つまり――次は本気で来る。
(街も、みんなも、未来も……守らないと)
深く息を吸い込んだ。森の奥は静かだが、その静けさが逆に不気味だった。
戦いは終わっていない。むしろ、ようやく始まったばかりなんだ。
影を落として消えた魔族は、確かにこの世界に刻まれた。
次の戦いの幕が、ゆっくりと、でも確実に上がろうとしている。




