第二話:神の静謐なる声
終わりのない白の世界。
明るいわけでも暗いわけでもない。
温度もなく、匂いもなく、音もない。
何かがあるようで、何もない。
アルト・ハヤカワは、その絶対的な静寂の中に立っていた。
ここには時間という概念すら存在していないようだった。
息をしているのかどうかすら曖昧で、自分の身体の輪郭も、意識の境界すら薄れていくような感覚に陥る。
(……どこだ、ここ)
そう思ったところで、答えは返ってこない。
ただひたすらに白い空間が広がるだけだった。
暗くもないのに底知れず、孤独なはずなのに妙な安心感がある。
静かすぎる世界は、自分の心の奥底までも吸い込んでしまいそうだった。
──どれほど時間が経ったのか。
いや、この世界ではそれを測る基準すら存在しない。
そんなときだ。
視界の正面。
距離感という概念が崩壊した世界で“正面”という言葉自体が曖昧なのに、“そこ”だとはっきり分かる一点があった。
白の濃度が、ふっと高まる。
光が強まったのではない。
そこだけ、存在が凝縮していく。
まるで巨大な白い画布の上に、透明なインクで立体が描かれていくような──。
(……来る)
胸が静かに跳ねた。
そして。
『ハヤカワ・アルト。君の魂の記録を──読み終えた。』
声が、響いた。
男でも女でもない。
老いても若くもない。
澄んだ川の流れのようでもあり、古代の石碑のような重みもある。
ただその声を聞くだけで、心が静まり返るような──そんな“存在の力”があった。
(魂の……記録?)
脳裏に浮かんだ疑問が、そのまま読まれたように感じる。
自分の行動、思考、後悔、願い……すべてを見透かされている。
けれど、不快ではなかった。
むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなるような懐かしささえ感じられた。
「……あ、あなたは……?」
勇気を振り絞って問いかける。
口から出た声は震えていたが、それは恐怖ではなかった。
『君の世界で言うところの──“神”。そう呼べば分かりやすいか』
「っ……!」
アルトの心臓が大きく跳ねた。
神。
現実味のない言葉のはずなのに、この声には否定しようのない説得力があった。
神──と名乗った存在は、静かに続ける。
『君の最期の行動……あれは実に稀有な輝きを放っていた』
静かに、しかし確かに白い世界全体がその言葉に反応する。
『己の命を顧みず、幼子を救った。
利得も打算もなく、反射のようにして他者を優先した。
あの瞬間、君の魂は強く輝いた』
アルトは視線を落とした。
「……そんな、立派なものじゃないです。
身体が勝手に動いただけで……見捨てるなんて、できなかっただけで……」
本心だった。
誇りもなく、打算もなく。
ただ、どうしようもなく目の前の命を助けたくて動いただけだった。
神は、まるで微笑むような声音で静かに告げる。
『謙遜は美徳だ、アルト』
一拍置き。
『だが恐れる必要はない。
ここは罪を裁く場所ではないし、天国と名付けられた安息の地でもない。
君が“この先、どこへ向かうべきか”を決めるだけの場だ』
(……俺の、行き先)
喉が乾き、息が浅くなる。
神は、淡々と、しかし温かく続けた。
『君の魂は、新たな役割を担うのに足る輝きを持っている。
そして君の死は、本来の流れから外れた、不慮の事故だった。
だからこそ──埋め合わせが必要なのだ』
その声に、神としての揺るぎない決意が滲む。
『これから、君が行くべき場所の話をしよう』
次の瞬間。
“白”が爆ぜた。
「──っ!」
眩い光がアルトの視界を飲み込む。
思わず腕で顔を覆うが、その光は痛みも熱も持っていない。
ただ優しく、あたたかく──
そして、すべてを塗り替える力だけがあった。
(……これが……俺の、新しい……)
光の中で意識が遠のく。
それが“第二の人生”の始まりだと、アルト自身が気付いたのは──そのずっと後のことだった。




