第十六話:森の中の遭遇、最弱魔物との戦闘
トリア草の採取を終えた帰り道、僕は革袋の重さを感じながら、森の出口に向かって歩いていた。空気はひんやりしているのに、胸の奥は妙に温かかった。初めてのギルド依頼を、誰も傷つけず、魔法も初級だけで乗り切れた。そんなささやかな成功が、僕にとっては何より大きい。
「……うん、順調すぎるくらいだ」
そう小さく息を吐いた直後だった。
違和感が、足を止めさせた。
最初は風に揺れるだけの草だと思った。だけど、次の瞬間には確信に変わる。あれは“生き物の動き”だ。風の流れとは違う、湿った重さのある揺れ方。
僕は反射的に初級の風魔法を使い、周囲の空気のわずかな乱れから気配を拾う。魔力を大量に使えるわけじゃないが、初級魔法でも工夫すれば索敵程度なら十分だ。
茂みの向こう、何かがこちらを見ていた。
現れたのは、灰色がかった皮膚の、小柄な獣型の魔物。体長は五十センチ前後。鋭い牙、ぎらりとした目。森の入口付近でよく出る、最弱と名高い魔物――コボルト。
だけど、最弱といっても“僕より弱い”とは限らない。魔法の威力は全部初級。正面から殴り合えば、ただの一般人の僕が勝てる保証なんてどこにもなかった。
コボルトは僕を見た瞬間、低く唸った。敵意と、少しの飢えが混じった声だ。
心臓が跳ねた。喉が一瞬つまる。逃げ出せ、と身体が騒ぐ。
(でも……逃げるだけじゃ冒険者になんてなれない)
僕は左足を半歩引き、右手の手袋越しに魔力の熱を集める。
「……初級、火魔法」
掌に、小さなオレンジ色の炎が生まれる。マッチより大きい程度の炎だが、暗い森の中では威圧効果が十分ある。コボルトは怯えたように一歩下がった。
しかし、その怯みは一瞬だった。
「ガルルッ!」
地面を蹴り、あっという間に距離を詰めてくる。思ったより速い。僕の想像より、ずっと。
「くっ……!」
慌てて風魔法を放ち、突風で距離を作ろうとする。だが、初級魔法の力では十分ではなく、コボルトの動きを止めるには弱すぎた。
爪が音を立てて振られ、僕の左腕にかすった。
ビリッ、とコートが裂け、皮膚に熱い痛みが走る。
「……っ!」
焦りが胸を焼く。こんな小さな魔物相手でも、命のやり取りをしているという現実が、一気に襲ってきた。
(ダメだ……冷静になれ。考えるんだ。初級魔法は弱い。でも、弱いなりの使い方があるはずだ!)
僕はまず左腕に癒しの初級魔法を流し込む。焼けるような痛みがじんわり和らぎ、出血が止まっていく。
その間にもコボルトは飛びかかってこようとしていた。
僕は土魔法を使い、奴の足元に小さな土の突起を作る。罠と言えるほどの大きさではないが、踏めばバランスを崩す程度にはなる。
案の定、コボルトは速すぎる突進の勢いのまま突起を踏み、わずかに身体が傾いた。
(今だ!)
僕は水魔法で、刺激臭を極微量混ぜた小さな水滴を数滴、コボルトの鼻先へ飛ばす。ほんの少し匂う程度の、弱い液体でも、動物系の魔物には十分な妨害になる。
「ギャンッ!?」
顔を振って動揺したその隙に、さらに火魔法を連動させて、水滴に触れた周囲にごく微量の蒸気を発生させ、視界をごっそり奪う。
僕は息を吸い、喉の奥の震えを押し殺す。
(あと一回……決める!)
突進してくる気配に合わせ、風魔法を最大限まで高め、タイミングを合わせて横から叩きつける。
地面に滑り込むように迫ってきた影に――風の一撃が命中した。
「キュウゥン!!」
コボルトは悲鳴を上げ、身体を回転させながら地面へ転がり、茂みの奥へ逃げるように消えていった。
僕はしばらくその場に立ち尽くした。呼吸がバラバラで、胸が痛いほど脈打っている。
ゆっくり木に手をつき、深く息を吐いた。
「……は、ぁ……はぁ……勝てた……」
呟きが震える。けれど、確かに言えた。
「初級魔法だけでも……工夫すれば戦えるんだ」
左腕の傷は小さい。でも、それ以上に、胸に大きな何かが刻まれた気がした。
最弱魔物との、人生で初めての戦闘。
だけど僕にとっては――冒険者として生きる覚悟を形にした、大切な一歩だった。




