第十四話:思わぬ遭遇と初級魔法の工夫
森の奥へ入ってくると、空気の匂いが少しずつ変わるのがわかる。湿り気のある土と、乾いた木々の香り、それから薬草特有のかすかな青臭さ。今日の俺の目的は、このあたりに群生しているトリア草の採取だ。
ギルドで受けた初めての採取依頼。緊張はしているけれど、不思議と足取りは軽かった。
「……この辺りが一番状態がいいって、シエラさんが言ってたな」
背の低い木々に囲まれた、小さな陽だまり。そこだけぽっかりと明るく、周囲よりも少し暖かい。地面に目を凝らすと、細い茎と薄い青色の葉が密集して揺れていた。
俺は地面に片膝をつき、ゆっくりと息を整える。
「初級の土魔法……ほんの少しだけ」
右手に意識を集中し、土の温度と硬さをイメージする。手袋越しに魔力を流すと、乾いた土がふわりと柔らかくなり、根がほぐれていく。初級魔法なので効果は局所的で弱いが、こういう「細かい作業」にはむしろ向いていた。
傷つけないよう茎を摘み、そのまま癒し系の初級魔法で切り口を整える。魔法の光は淡く、誰かに見られても大げさには映らない。
(これなら状態のいいものが集まるし、採取にも時間がかからない)
袋に入った数を確認すると、すでに半分ほど集まっていた。胸の奥に少しだけ自信が芽生え、俺は思わず鼻から息をゆっくり吐いた。
そのとき――。
「……カサッ」
小さな音が、背後の茂みから聞こえた。風が揺らしただけかと思ったが、続いた音で違うと気づく。
「……四つ足の、足音?」
草を踏むわずかな重み。近い。たぶん十メートルもない。
俺は手を止めたが、慌てて振り向いたりはしなかった。剣を抜くより、まず状況把握。武器より、情報がほしい。
(まず確認だ……風魔法なら、騒がずに測れる)
「初級の風魔法……探査寄りに」
小声で呟きながら、俺はごく微弱な魔力の波を放つ。周囲三メートルに、風の「輪」が静かに巡った。
これで茂みの動きが風でわずかに揺れれば、その振動でおおよその大きさと位置がわかる。
(小型……体重は軽い。敵対的な動きはない)
次の瞬間、茂みからそっと姿を見せたのは――小さな鹿のような魔物だった。
頭に丸い角がふたつ、脚は細く、目はつぶら。森の資料で見た《フォーン》だ。
(フォーン……非攻撃性で、草食……危険はない、はずだ)
しかし、ここで慌てて動けばフォーンが驚いて走り出し、別の魔物を呼び寄せる可能性がある。森の奥にいるのは弱い魔物だけじゃない。だからこそ、落ち着いて対応しなければ。
(戦う必要はない。むしろ、刺激せず、そっとどかす方法を……)
俺は静かに立ち上がり、フォーンと反対側の岩場に視線を向ける。
「……初級の水魔法、数滴だけ」
指先から水を三粒、ぽつ、ぽつ、と岩に落とす。
――チョン……チョン……チョン……
ほんのわずかな音。しかし、森の静寂の中ではよく響く。
フォーンはぴくりと耳を動かし、音の方へ顔を向けた。警戒というより、好奇心だ。
(よし……興味をそっちに向け続ければ、邪魔にならない)
フォーンが一歩そちらへ動いたのを見届け、俺は再び採取を続けた。土を柔らかくし、茎を傷つけずに摘み取る。癒し魔法で切り口を整え、袋に収めていく。
ときおり視線をフォーンの方へ。俺が出した音に気を取られ、今度は岩の苔を舐めていた。
この魔物は危険性こそ低いけれど、それでも“森の魔物”だ。冒険者として油断はできない。でも、こうして平和的にやり過ごせるなら、それが一番いい。
(初級魔法でも、やり方次第で安全に進められる)
剣を振るわなくても、無駄な戦いをしなくても、工夫次第で依頼はこなせる。俺にとっては、これが最も現実的なやり方だ。
やがて袋はいっぱいになり、目標の五十本を少し超えたところで手を止めた。
「……これで十分だな」
俺は足元に風魔法を流し、自分の足音を消しながらゆっくりと後退した。フォーンはまだ苔を食べていて、こちらには気づいていない。
木々の影に入ったところで、もう一度だけ振り返る。
穏やかな森。静かに食事を続ける小さな魔物。戦闘なんて一度もしなかったのに、胸の奥には確かな達成感があった。
(……初級の魔法しか使えなくても、やれることはある)
強くなくても、派手な魔法が使えなくても、生き残る方法はある。今日の採取は、その実証になった。
森の入口まで戻る頃には、緊張はすっかり消えていた。代わりに、ほんの少しだけ自信が芽生えていた。
「さて……ギルドに戻って、報告しないとな」
自分の足で歩き、自分の判断で進んで、安全に帰ってくる。それは戦闘よりもずっと難しいことだと、森で過ごした短い時間が教えてくれた。
初級魔法の制御と工夫。
これが――俺の最初の一歩だ。




