第一話:突然の終焉と、空白の意識
その日は、朝からずっと雨だった。
梅雨の真ん中にいるわけでもないのに、空はずっとどんよりと重たく、帰るころには、僕のトレンチコートもすっかり湿りきっていた。
名前は早川アルト、二十九歳。職業はシステムエンジニア。
華やかな仕事とは言い難いけれど、それなりに忙しく、それなりに責任もあって、だけど特別やりがいを感じるわけでもない――そんな毎日だ。
(今日も微妙に怒られたな……)
会社を出たときから、ずっと頭の隅に残っていた愚痴を噛みしめながら、僕は家への道を歩いていた。
傘の縁から落ちる雨のしずくが、路面に小さな輪を作る。それをなんとなく眺めていると、少しだけ気が紛れる。
信号待ちで立ち止まり、なんとはなしに前を見た。
雨で車のライトがにじんで見える。世界全体が薄いフィルム越しみたいにぼやけていて、まるで現実感がない。
でも、そんなぼんやりした気分が、一瞬で吹き飛ばされる瞬間が訪れた。
視界の端で、黄色が揺れた。
(ん……?)
黄色いレインコート。小さな子どもが、転がっていった赤いボールを追いかけて、ふらふらと車道へ――。
「ちょっ……!」
思わず声が漏れた。
子どもが走り込んだのは、よりにもよって“赤信号”の車道で、その先には雨で視界が悪い大型トラックが迫っていた。
やばい、間に合わない。
考えるより先に、身体が動いていた。
傘が手からすっぽ抜けていく感覚だけははっきりしていたが、それ以外は覚えていない。
ただ、気がついたときには全力で地面を蹴って、子どもへと手を伸ばしていた。
「どいて!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
必死で伸ばした手が、かろうじて子どもの肩をつかむ。軽い身体を押し飛ばすと、黄色いレインコートがふわりと宙へ跳ねた。
次の瞬間――。
「――ッ!」
耳をつんざくような金属の悲鳴が響き、視界いっぱいに巨大な鉄の塊が迫ってきた。
雨と光が混じり、世界がゆがんだように見えた。
痛みはなかった。
だけど、全身が強い衝撃に包まれ、意識が千切れるように薄れていく。
(ああ……これ、やばいやつだ)
そんな冷静で場違いな感想が、最後の思考として浮かんだ。
周囲の音は遠くなり、雨の匂いも薄れ、目の前の光景が白く溶けていく。
何かに沈むように、僕の意識はゆっくりと暗闇へ落ちていった。
■■■
どれくらい時間が経ったのか分からない。
数秒なのかもしれないし、何年も経ったような気もする。
時間の感覚がまったくなかった。
気がつけば、僕は“そこに立っていた”。
「……え?」
思わず声が漏れた。
周囲は真っ白な空間で、空も地面も境目がない。
風も音も匂いも、何もない。だけど、僕という存在だけははっきりある。
試しに手を伸ばしてみる。
しかし、触れるものはなにもない。手すら白に溶けていくように見えた。
「ここ……どこなんだ?」
誰に聞かせるでもなく、独り言が空に吸い込まれていく。
返事はない。反響さえない。静かで、静かすぎる場所。
だけど、不思議と怖くはなかった。
むしろ、心が落ち着いていて、仕事の疲れや雨の重さとは無縁だった。
そんなとき――。
ふわり、と。
白い空間に、淡い光の粒が漂い始めた。
まるで星が生まれる瞬間のように、美しく静かな輝き。その光がひとつに集まり、ゆっくりと人影の形をつくっていく。
そして、その“影”が口を開いた。
「やあ、アルト。まずは礼を言おう。君は一つの命を救った」
優しげでどこか中性的な声だった。
その存在は、圧倒的なのに怖さはない。不思議な安心感すら与える。
(……ひょっとして、これって)
漫画や小説でよく見る“アレ”が頭をよぎった。
「そう。君は――死んだのだ」
やっぱりか。
だけど次の言葉は、もっと予想外だった。
「そして、君には新たな世界で生きる権利がある。転生――という形でね」
転生? 僕が?
状況は飲み込めないが、不思議と納得する心の準備だけはできていた。
「安心するがいい。君の親は新しい世界でちゃんと生きている。君はそこで、普通の人生を歩むことになるだろう」
その言葉に胸のどこかが温かくなった。
だが、光の存在は続けた。
「ただし、君にはひとつだけ特別なギフトを渡す。といっても、強大な力ではない。すべて“初級”の魔法だ。だが――この世界では誰もがひとつの属性しか持たぬ中、君は“八属性すべて”を扱える」
(八属性……全部?)
「安心しなさい。威力はどれも初級、恐れられるほどではない。だが、幅の広さは君を助けるだろう。そしてもうひとつ。君の魔力は、減らない」
魔力が減らない。
八属性をすべて使える。
だけど技は初級――。
なんだか、すごいのか地味なのかよく分からない。
「それでいいのだよ。強すぎる力は、ろくなことを生まぬ。君に与えるのは“可能性”だけだ」
光が優しく揺れた。
「では、行きなさい。新たな人生へ――」
その声を最後に、世界がまぶしい光で満たされていく。
僕の身体は、風に溶けるように軽くなり――。
そして意識は、ゆっくりと次の世界へ落ちていった。




