傍観者の金継ぎ
放課後、数年ぶりに聞いた名前に動揺した。探しませんか、ね。
走馬灯のようによぎるあの日々がぐるっと頭を一周した。
「わるいが断る」
「そーですか。残念です」
加茂の割には簡単に手を引いてくれた。そのことが何か心にひっかかりを感じた。きっと気のせいだ。押し寄せた波が急に引いたその緩急に体がやられた。
だから教室を先に出たのが加茂だったのも少々慣れないことに疲労感が溜まっているだけだ。
筆箱くらいしか入っていないリュックがとんでもなく重たい。
それから二年三組の生徒が停学から開けるまで加茂とは合わなかった。
ヒビの入った信条は少しずつ回復していった。
無味無臭人畜無害とはよく言ったもので、俺という輪郭はすぐに取り戻していった。
遅登校の即下校はすぐに染みついた。
もう下駄箱に何かが入っていることはない。
家に帰って押し入れの戸を開いた。何があるというわけではなかった。湊さんは何か形のあるものを残してくれるタイプではなかったし、写真すら一枚もない。本当に存在していたのか怪しく思える人だった。
湊さんを敬愛していたというのは過剰な表現ではあるが、彼の言葉は金言だった。
華奢な体と中性的な顔立ち、柔らかな髪は男にしては長く、綺麗だった。
そんな湊さんとの出会いは中学一年の春だった。ぎりぎりのところで枯れずに堪える桜の木が連なる校舎までの一本道の端で夏目漱石の『こころ』を読んでいた。その本には多くの付箋が貼られていたのが印象的で、それに読み込まれているようだが、比較的新しいものに見えた。
丁度その横を通った時に声をかけられた。
「君は新入生かい?」
小鳥の白い羽ほどの柔らかい声に足を止めた。
「はい、あなたは二年生ですか?」
「そうだよ。よくわかったね」
「勘ですよ。なんとなく」
湊さんは微笑んで、言葉を残した。
「君は勘が良いようだね。自覚的になった方が良い」
最初の印象は変わった人だった。でも、どこか惹かれた。
クラスの女子生徒もよく噂をした。儚げなイケメンと仲良くなりたいと。
何度か玉砕する女子を見かけた。そのほとんどが、自分の容姿に自信を持っていたように思える。多分、みんなの憧れの先輩と付き合いたいと思っていたのだろう。
ある日、聞いてみた。なぜ、誰とも付き合おうとしないのか。すると、湊さんは苦笑して『恋は罪悪ですよ』と答えた。それが、『こころ』からの引用だと知ったのはつい最近授業で読んだ時だった。
湊さんに『先生』のような過去があったのかは知らないが、多分ない。これも勘に過ぎないが、俺に通じるかどうか試しただけだったのだと思う。それ以降、引用することはなかったから。もし、その頃に『こころ』を読んでいたなら俺は湊さんとは呼ばず、『先生』と呼んでいただろう。
湊さんに会えたのは学校だけだったので、俺は友達作りよりも会うことを優先した。中学の頃は小学生の頃の友達もいたからそれで問題はなかった。
湊さんに合えないのは体育祭などの行事ごとだけだった。なぜか、行事の日は休む人だった。そのことについて聞いた時は『学校は勉強するところだよ』と平然と返された。それに反論して、友人作りや協調性を育む機会だと言えば『僕の所に来る君に言われたくないな。でも、そうだね。一般的には大切なことだね。それはきっと教育と呼ぶものだから』と言われた。湊さんは教育を必要としていないようだった。最初の返答にはきっと僕にとってという言葉がついていたのだろう。
湊さんが卒業してからも交流は続いた。ただし、こちらは連絡先も住所も進学した高校すら知らないから放課後に突然現れた時しか話ができなかった。そうなってしまっては俺は放課後に予定を入れることができなくなった。それを不便に思って、連絡先を聞いたことがあった。そしたら湊さんは試すように『本当に良いのかい?』と口にするものだからこちらも「やっぱりいいです」と答えざるを得なかった。そうして、満足そうな表情を浮かべる人だった。
湊さんが失踪する前に進路について相談したことがあった。本音は中学を卒業して合う機会を失ってしまうのが嫌だったから。
理想は湊さんの進学先へ行くこと。それが叶わなければ俺の進学先を知ってもらおうという魂胆だった。
前者は結局叶わず、湊さんはとある高校への進学を勧めた。それが今通う高校なのだが、意味はなかった。
湊さんが最後に残した言葉は『信条を持て、くだらないものでもいい。意味はいずれ生まれるものだから』というものだった。
なぜ、【踏み込まず、踏み込ませず】にしたのか。それは俺が叶えられるもので、湊さんより敬愛できる人に出逢える気がしなかったからだ。
悔しいが加茂の言う通り、俺は湊さんを敬愛していたらしい。
押し入れの扉を閉めて、本棚から『こころ』を取り出した。教科書では全文載っていないからと購入したものだ。湊さんと違って付箋は貼られていない。ペラペラとめくっているとあるページで手を止めた。目についた文字を指でなぞった。
『精神的に向上心のないものは、馬鹿だ』