チョコみたいに甘くて苦い口づけを
『バレンタイン恋彩2』参加作品です。
ハッピーエンドではないです。
私の勤務する会社に、私よりひと回り上の先輩がいる。
そりゃいるだろうと思うだろうけど、まあ、その通りだ。
でも取り分けその先輩は、私にとってはとかく重要な存在なのだ。
……大切な存在、と言い換えても差し支えない。
「いいか。木下。
足を使うだけが営業じゃない。
マーケティングは重要だ。
誰が何を求めているのか。何が必要とされているのか。
それを正確に把握し、そこに的確にアプローチをかけることが出来れば成功率は格段に上がる。
今日はその調べて把握したことを誰にどうアプローチしていくかを教える」
「はい! 田宮先輩!
よろしくお願いします!」
「……お前はいつも一所懸命だな」
「わぷっ」
「あ、すまん。思わず頭を撫でてしまった。
今はセクハラに厳しいんだよな。悪い。謝罪する」
「あ、いえ! だ、大丈夫です!」
その重要な存在たる人は田宮先輩という。
先輩は新卒で入社した私の、教育係になった人だ。
アルバイトの経験はあっても社会人としてのイロハなんて知る由もない私に、先輩は優しくも厳しく社会人の世界を教えてくれた。
「大丈夫か、木下?
今回は下調べが甘かった。そう考えるしかあるまい。
とはいえ、まさか相手方の過去の取引相手のライバル企業だから、などという理由を持ち出してくるとはな。
まあ、断る理由が欲しかったんだろう」
「……はい。申し訳ありません」
「気にするな、とは言わない。
今回の一件もまた自らの引き出しを増やす糧にしろ。過去に学び、明日に活かせ。
幸い、木下の印象が悪くなかったおかげで、また良い提案があれば、と言ってもらえた。
次はあちらからお願いしてくるぐらいに魅力的な提案ができるようリサーチと準備を徹底しよう」
「は、はい! ありがとうございます!」
先輩はいつもフラットな目線でアドバイスをくれた。
こちらの視点とあちらの視点を考えながら動くことを教えてくれた。
慰めや励ましはあまりないけど、私のためを思って言ってくれているのが通じた。
……それが、嬉しかった。
「あ、あの! 先輩、これっ!」
「ん?」
「あ、えと、その、いつもお世話になってる、ので……」
「……チョコ?
ああ、今日はバレンタインか。
悪いな。気を使わせて」
「い、いえ。いつも、ありがとうございます!」
「そうか。ありがとう。
まあ、いつも世話してやってるもんな」
「も、もう!」
「ははっ。ありがとな」
「……はい」
そんな先輩に惚れるなという方が無理というものだろう。
「悪い。木下。
一本だけいいか?」
「あ、はい。では私はあちらで待ってますね」
「すまん。すぐ戻る」
先輩はタバコを吸う人だった。
正直、タバコの香りはあんまり好きではないけれど、先輩は職業柄その辺りのケアは完璧だった。だから一緒にいて不快に感じることはなかった。
「……」
それに、こうして先輩を待ちながら、先輩が空に向かって吐く煙を眺めるのが好きだった。
……ホントは、そんな先輩を眺めるのが好きなんだけど。
決め手となったのは、うん、あれかな。
「……以上、です」
「……そうか。よく言ってくれた」
それは、私が取引先の担当者からセクハラまがいの言動を取られた時のことだった。
「あとは俺に任せろ」
「……え?」
先輩はすぐに相手方の企業に連絡した。
「……ええ。はい、お世話になっております。
あ、いえ、本日は上司の方にお話したく……はい、緊急の要件だとお伝えください。
……はい、うちの木下が受けた言動は以上になります。
もう一度言いますが、こちらはやり取りを録音しております。ご希望とあらばコピーしたものをお聞かせに上がりましょう。
はい。御社との取引を今後、差し控えさせていただきます。
ええ。それは互いにおおいに困るでしょうね。
そちらが相応の対応をしていただけるのなら、再度お話をしたいとは考えております。
ええ。はい。承知しました。
対応完了後、ご連絡いただけることをお待ち申し上げております。
ええ。では」
「……あの」
「悪い。取引企業のレベル的に即時手切れは難しい。
が、あちらの上司は話の分かる人だ。
すぐに担当者は解雇か、少なくとも左遷されるだろう。
次の担当者はまともな人間にしてもらえるはずだ。が、この取引は俺が引き継ぐ。
木下には俺が担当している企業を引き継いでもらう」
「……いえ。引き続き、私にやらせてください」
「……嫌な思いをした会社に、また行くと?」
「……私が受けた仕事です」
「……ふっ。分かった。任せたぞ、木下」
「はいっ!」
このあと、先輩は部長と相手方の上司に独断専行を謝罪していたらしい。
部長は怒っていたけれど、相手方の上司が取りなしてくれて事なきを得たと、のちに社内の飲み会で部長が話してくれた。
こんなのもう、好きになるに決まってる。
そして、再びのバレンタインデー。
「せ、先輩。あの、こ、これ……」
仕事終わりに渡したいものがあると言って、先輩を自分の家に招いた。
先輩は渋ったが、今日じゃなきゃダメなんだとグズって、半ば無理やり先輩を引っ張り込んだ。
「ん? チョコ?
ああ、そうか。今日はバレンタインデーだったか。
ウチでも朝から甘い匂いをさせていると思ったけど、そういうことか」
「……」
胸がズキリと傷んだ。
先輩には綺麗な奥さんと可愛らしい子供がいることは知っていた。子供は二人。男の子と女の子だ。
写真も見せてもらったことがある。
全員が、幸せそうに笑っていた。
「渡したかったものってこれか?
べつに今日じゃなくてもいいのに、とは思うが、そういうものじゃないか。
そういや、木下からは去年ももらったな。
律儀にありがとな」
知っていた、けれど……。
「……」
「木下?」
差し出したチョコを先輩が掴む。
けれど、私はそれを離さなかった。
「……去年とは、違うんです」
「……え?」
「……今年のこれは、本命、なんです……」
それは、消え入りそうな声だったと思う。
「……」
「……」
「……木下」
「……はい」
「すまない」
「っ!」
先輩がチョコを掴んでいた手を離す。
「俺には家庭がある。
妻も子供も愛している。
だから、これを受け取ることはできない」
「……」
分かってた。
先輩はそういう人だ。
分かってたけど、でも、それでも私は……この溢れでる気持ちをどうすることも出来なかった。
出来なかったから、私は最低な女になることに、したんだ……。
「……分かってます。知ってます。
でも、それでも私は先輩のことが好きです。大好きです。
先輩の一番になれないことは分かってます。
それでも、これを渡さないわけにはいかなかったんです。
お願いします。受け取ってください。
先輩への好きな気持ちを込めました」
「……受け取れば、諦めてくれるのか?」
「……」
俯いた。
分かってはいたけど、ノーと同義のその言葉を聞くと先輩の顔を見ることなんて出来なかったから。
「……分かった」
「!」
先輩は再びチョコが入った箱を掴む。
私が俯いたのを、頷いたと勘違いしたらしい。
違う。
違います。
諦めるなんて、ムリ……。
「先輩っ……」
「お、おいっ!」
私は顔をあげて先輩に近付いた。
チョコを掴んだ先輩の手を掴んで、もう片方の手を先輩の胸に寄せて……。
先輩の唇は、私の唇を吸い寄せているようで……。
「なっ!」
「ん……」
急なことに驚いている先輩は私の唇が自分の唇に触れるのを避けることが出来なかった。
永遠の刹那。
先輩との初めてのキスは蕩けるほどに甘く、かすかにタバコの香りがして苦かった。まるで、ビターなチョコレートみたいだ……。
「や、やめてくれっ!」
「……はぁっ」
先輩は慌てて唇を離す。
吐息が漏れる。
離したくない。
先輩はそのまま離れようとするけど、私は掴んだ手を離すつもりはなかった。
胸に添えた手でワイシャツもぎゅっと掴む。
今これを離したら、きっともう二度と触れることは叶わない。
私は、最低の女になっても構わない。
一番になれなくても構わない……それは嘘だけど。
でも、それでも先輩に触れることができるなら、私は今は、一番じゃなくてもいい……。
「……先輩」
「っ!」
再び顔を寄せる。
もう一度、その唇を感じたい……。
「やめろっ!」
「きゃっ!!」
先輩は私を拒絶するかのように突き飛ばした。
男性の力にはさすがに敵わず私は後ろに倒れる。
「あ! す、すまんっ!」
ハッと我に帰った先輩が慌てて駆け寄ろうとしてくれる。
私のせいなのに……。
「……先輩っ!」
「っ!」
私に手を貸そうとする先輩を声をあげて制止する。
「……もう一度触れたら、私は今度こそ止まりません」
「……木下」
こんなこと言わなければ良かった、と、言ってから後悔する。
でも先輩は、こんな最低な女にもやっぱり優しくて……。優しくしたらいけない時なのに、それでも優しくて。
なんだか、自分がどこまでも嫌な女な気がして……。
だから、私は先輩に逃げ出す口実をあげた。
優しい先輩はきっとこう言えば愛する奥さんと子供のために、私の手を取らずに部屋を出ていくだろう。
止まらない、とはそういうことだから。
きっと、もう一度先輩の体温を感じてしまったら、私は衣服を脱ぎ捨ててでも先輩にしがみつくだろう。
恥も何もかも捨てて、先輩とひとつになろうとするだろう。
そうなれば多分、先輩は逃げられない。
それが男だろうから。
そうなれば、あとは泥沼の地獄が待っている。
いくら先輩が素敵な人でも、私を一度でも知ってしまえば繰り返すのは難しくないだろう。
べつに自分に自信があるわけではない。
たぶん、男と女ってのはそういうものだから。
一度、その味を知ったものが、何度も再びどうだと迫ってくるのだ。
それを拒み続けるのは難しいと思う。
男ってそういうものだってことぐらい、私だって知ってる。
たぶん、これは私からの最終勧告。
あるいは、先輩にそんなクズになってほしくないという願望。そんな地獄に堕とそうとしてる元凶のくせして。
それでも良ければ、一緒に地獄に堕ちませんか? という悪魔みたいな女からの最後の慈悲。
「……突き飛ばしたりして悪かった。
やはりこのチョコも受け取れない。
俺はもう帰る。
怪我をしたようなら病院に行け」
「……はい」
そうして、先輩は早口で冷たく突き離すと、私に触れることなく部屋を出ていった。
靴箱の上にはチョコの箱が置かれていた。
「……先輩。ありがとうございます」
私と死なば諸ともの終わりなき地獄に堕ちないでくれて。
素敵な先輩のままでいてくれて。
私を、どうしようもないクズにしないでくれて。
私はゆっくりと立ち上がると、誰もいなくなった玄関に向けて深くお辞儀をした。
「……」
下げていた頭をあげると、靴箱の上にもらう者のいないチョコの箱が置かれていた。「だから言っただろ?」と言わんばかりに存在を主張してくる。
私はそれを手に取り、苦戦して綺麗に結んだリボンをほどいた。
中には手作りのチョコが入っていた。
こう見えてお菓子作りは得意なのだ。
結局、その腕前を披露することはなかったけれど。
「……」
綺麗に並んだチョコをひとつ取る。
我ながら良い出来だ。
それをそのまま口に運ぶ。
「……うん、美味しい」
市販のものより少しだけ苦味を強くしたチョコ。
タバコを吸う人は甘すぎないチョコの方がいいと聞いたことがあった。
「……でも、私にはやっぱりちょっと苦いかな」
指先で唇に触れる。
さっきまで先輩に触れていた指。触れていた唇。
まだ、熱いぐらいに熱を持っているのが分かる。
先輩とのキスは、かすかにタバコの香りがした。
少しだけ苦くて、甘い甘いキス。
蕩けそうなほどに、甘くて、甘くて……。
「……苦っ」
チョコをもうひとつ口に運ぶ。
苦味の強いチョコは、まるであのキスでさえ本当は苦味しかなかったんだと諭してくるような気がした。
苦くて、苦しくて……でも、狂おしいほどに甘くて……。
「……そうだ、ココアでも入れよ」
甘い甘い飲み物で苦味など誤魔化してしまえ。
苦い思い出なんてイヤだ。
甘い口づけだったと。ほのかに苦いタバコの香りがした、でも甘い甘いキスだったのだと思い出させてくれ。
苦くて、悲しくて苦しくて、一晩中、枕を涙で濡らした思い出だったなと思い出させないでくれ。
「……ひとときの甘さで、苦味なんて全部隠してしまえ」
四月になれば新入社員が入ってくる。
私の後輩の時間も終わりだ。
今度の新入社員には私が教育係としてつくことが決まっている。
これも先輩の教えの賜物だ。
そして、先輩は地方への異動が決定している。
先輩の母親の具合があまり良くないらしく、先輩が実家の近くの支社への異動を希望したらしい。
先輩の奥さんも同郷らしく、家族も快く異動を受け入れ、彼らはまもなく私の前からいなくなる。
だから、という気持ちもあった。
行ってしまう前に、いなくなってしまう前に、せめて気持ちだけでも……いや、一度だけでも、と。
それが先輩の心に永遠の負い目を与えるのだと知りながら。
それでも、私は動かずにはいられなかった。
先輩が、本当に好きだったから。
まあ、たぶんキスだけでも先輩は奥さんに負い目を感じるのだろうけれど。
先輩はこのことを奥さんに言うのだろうか。
言わないでほしいという思いと、言ってほしいという思いがある。
どこまでも誠実で素敵な先輩でいてほしいけれど、幸せそうな家族に少しでも亀裂を入れてほしくないとも思う。
先輩がどうするかは分からない。
どうするか分からないぐらいに、私は先輩のパーソナルを知らないのだと気付く。
「……まあ、元凶が何を言ってんだって話か」
お湯が沸いた。
粉状のココアを溶かそう。
ともすれば先輩の体温で蕩けるかもしれなかった凍えた体を、甘い甘いココアで温めよう。
苦味なんてなかったのだと。
しなきゃ良かった恋ではなかったのだと。
自分にそう言い聞かせるようにして、私は熱くて甘いココアに口をつけた。