献帝の秘密
幼い僕らは孤独だったね。誰もが優しい顔をして寄ってくるけど誰一人信用できない。僕が信用できるのは同じ境遇の兄さまだけだった。兄さまは僕に優しかった。兄さまといると春の陽だまりの中みたいにぽかぽかした。僕は兄さまが大好きだった。
僕らは籠の鳥。宮中で生まれ、宮中から出られぬのが運命。
一度だけ二人で外出したね。僕の母上が死んだ時。兄さまは僕に、王美人は優しい人だったと言ってくれた。一緒に泣いてくれた。僕を慰めるために、宦官を買収してこっそり外に連れ出してくれた。
春だった。空が青くて、果てしないほど広くて綺麗でびっくりした。
あの日の記憶は今も、この胸にくっきりと刻み付けられている。僕の一番大事な思い出だ。
兄さまは即位し、皇帝になった。
どうして兄さまの母上が僕の母上の仇だったんだろう。そうでなければ、僕は復讐などしなくてすんだのに。でも僕は母上が殺された時に約束したんだ。絶対に仇を取るって。
それでも、あの日、董卓が都に来なければ、僕は復讐を諦めていたかもしれない。
董卓に兄さまの悪評を吹き込むのは難しくなかった。董卓が寵愛する女たち、特に貂蝉という女に、僕は取り入った。母を亡くした可哀想な子供を演じて同情を引くのは昔から得意だった。董卓に気に入られるためなら何でもやった。
ねえ兄さま、僕らが普通の兄弟だったら、ずっと仲良しでいられたのかな。大きな甍で覆われた狭苦しい空じゃなく、青く広い空の下なら。二匹の野良犬のように路地を駆けて、人いきれや食べ物や土ぼこりの匂いに包まれながら、人並みに成長していったのかな。それが幸せというものなのかな。あの青い空、陽だまりのような春の匂い。
「どう思う、弁兄さま」
いくら問いかけても兄さまはもう物を言わない。骸だから。
董卓は兄さまを殺した。表向きは何か理由を付けていたけど、殺すほど兄さまが嫌いだったんだろう。僕の吹き込んだ悪評のせいで。
何太后も死んだ。
「復讐おめでとうございます、協皇子。王美人もお喜びのことでしょう」
宦官の甲高い声がした。母上の代から仕えている古参の宦官だ。可哀想だけど彼はあとで舌を切らなきゃ。涙がぽつんと落ちた。
変だな、僕は何故泣いているんだろう。心なんてみんな殺してしまったと思ってたのに。
懐かしい匂いがした。兄さまの匂いだ。小さい頃に嗅いだ、春の陽だまりのような。
さよなら、兄さま。ごめんなさい。
本当は復讐なんてしたくなかった。
もう一度兄さまと空を見たかった。
青い春はもう来ない。
(了)