「オジサンのミルクは美味しいかい?」
油川正広は目が覚めると、一頭の乳牛になっていた。
「理解が追いつかぬ」
小さな柵の中、油川がその乳牛たる姿をゆっくりと起こすと、柵の外で藁仕事をしていた青いつなぎ姿の男と目があった。
「ハナ、起きたが? 具合はどったべ?」
まるで赤子を覗き見るかの様な、優しい顔がそこにはあった。
「腹具合よぐなるまでぇ、乳搾りはお預けだっぺした、しっがり休めで」
酒焼けにも似た赤ら顔の男は、油川の体を馴れ馴れしく触ると、他の牛達の世話を始めた。油川は説明が欲しいと一鳴きしたが、男が振り返る事は無かった。
油川は二、三日を小さな柵の中で過ごした。
「そろそろいいっぺ」
男に連れられ、油川は広い外の世界へと放たれた。
「次の方どうぞ」
牧草地の外れから、乳搾り体験をする親子連れが見えた。一頭の乳牛が、大人しく子どもに乳を搾られていた。
「いいねぇ。ボク、上手だね」
油川は思った。子どもとは言え、初対面の男にいきなり乳を搾られ、隣で赤の他人が『いいねぇ』と褒めてくる。これは一体どういった世界の出来事であろうか。
油川は考えた。巨乳女子高生が初対面の痴漢にいきなり乳を搾られ、シルバー席に居た長老が『いいねぇ』と褒めるのと同じでは無いのだろうか、と。だとすればこれ程に女子高生が可哀想な事はあるまい。
「これもう飲めるの?」
「殺菌してからね」
いきなり搾られた挙げ句、雑菌が云々と言われたのではやるせない。油川は大人しく搾られる事に徹していた乳牛に、そっと敬意の念を捧げた。
が、その乳牛は女子高生に例えるにはやや年老いており、それでも尚『いいねぇ』と声をかけるシルバー席の老人が居るならば、それは彼等の為だけの世界なのであろうと感じたのだった。
「出来たての牛乳をどうぞ」
青いつなぎを着た女が、小屋から現れた。
試供品の牛乳ビンを手に、小さな紙コップへ牛乳を注いでゆく。
「ありがとう」
小さな女の子が嬉しそうに牛乳を飲んだ。
「これ牛乳なの?」
「そうよ」
「お家のと違う」
「でしょ?」
女は嬉しそうに微笑みかけた。
油川は柵の隙間から、そっと女の子へ話しかけた。
隣では母親が一生懸命スマホで写真を撮っていた。
「オジサンのミルクは美味しいかい?」
「?」
女の子は後ろを振り返り、荷車を押していた男を見た。油川はもう一度声をかけた。
「オジサンのミルクは美味しいかい?」
油川はようやく女の子と目が合った。
女の子は不思議そうに油川を見ると、一つ首をかしげて見せた。
「ママー」
「なぁに?」
「牛さんが喋ったー」
「そう」
女の子の発言を気にもせず、母親は女の子へスマホを向け続けている。
油川はもう一度女の子へ話しかけてみる事にした。
「暗黒なる大魔王が復活し、世界は混沌に飲み込まれるであろう」
「ママー! 大魔王が復活して、世界が混沌に飲まれちゃうって牛さんがー!!」
「ちょっと。熱でもあるの?」
眉をハの字に曲げ、不思議な顔で子どもを見やる母親に、子どもは『何とか言ってやってくれ』と言わんばかりの顔を油川へと向けた。
「君に一つお願いがある」
「チョコバナナ買ってくれたら良いよ?」
子どもが直ぐそばの露天を指差した。
店先にはマーブルのかかったチョコバナナが並んでいた。
「……赤ちゃんは何処から来るのかお母さんに聞いてごらん?」
「ママー! 赤ちゃんはどこからくるの!?」
「こらっ! そんな事言わないの! チョコバナナ買ってあげるから、ね!?」
「やった!」
子どもが目を輝かせて、油川を見た。
しばらくして、チョコバナナを美味しそうに頬張る子どもが、そっと油川の傍へと戻ってきた。
「沼矛市 沼矛村 沼矛字沼矛 ハイツ沼矛の102に住む女性にココの場所を伝えてくれ」
「え? え?」
油川は戸惑う子どもを見て、作戦変更を余儀なくされた。
「写真撮りたいって言ってお母さんからスマホを借りなさい」
「ママー! 牛さん撮りたい!」
「良いわよー」
「よし、今から言う番号にかけるんだ」
「うん」
「090の……」
──プルルル、ガチャ
「はい、吉川です」
「言う通りに伝えるんだ」
「うん」
「アンタの恋人は沼矛牧場で牛みたいな女と浮気してやがる。今すぐ来てぶん殴ってやりなさい」
「あんたの恋人は沼矛牧場で牛と浮気してる。今すぐやりなさい」
「──はぁ!?」
──ガチャ……
「まあ、いい」
「もう行ってもいい?」
「ああ。ありがとう」
「……チョコバナナもう一本食べたい」
食べ終えた割り箸をペチペチと揺らし、おねだりの顔。油川はそっと尻尾を振った。
「この前、夜遅くにお母さんとお父さん二人で何をしていたか聞いてみなさい」
「はーい」
子どもはすぐに駆けだした。声を張り上げ母親を呼ぶと、すぐに慌てた様子でチョコバナナの口止めが入った。
振り向きピースをする子どもに、油川はそっと一鳴きで返した。
人間の頃に交友があった彼女が来るまでの間、自分と同じ境遇の牛が居ないかどうか、探してみる事に。
鳴きながら牛の群れの中を歩くと、飼育員が不思議に思い、油川を小屋の中へと連れ戻そうと寄ってきた。
「戻るのか? 小屋に戻るのか?」
油川が問い掛けても返事は無い。ただ、頬の赤い男は笑顔で彼を引っ張っていく。
「ほーれ、元気があっていいない」
油川は小屋へと戻されると、お腹が空いたような気がして、目の前にある枯れ草を食べ始めた。
奥歯で何度もすり潰し、飲んでは反芻した。
そして二度と彼女の事を思い出す事は無く、人としての意識は途絶え、ただ乳牛として一生を勤め上げた。




