テスト
テスト
銃弾が頬をかすったことはあるか?映画じゃなんてことない顔をしているが、実際やられると焼け付くみたいに痛い。反射で傷口に当てた指先に粘っこく温かい感触がしたが見て確かめる勇気も暇もなく、オレはとりあえずどこかに潜んでいる狙撃手から逃れるべく走っていた。目指すは我が家でありビジネスの拠点、Collin&Plancy退魔事務所の看板だ。がむしゃらに蛇行しながら走っているが、ここはやたら道が広い住宅地、しかも深夜となれば隠れられる建物はおろか紛れる人混みもない。下手に動けば撃たれて死ぬ、しかして止まれば狙撃手の仲間が追いついてきてこれまた死ぬ。貧弱な男一人撃ち殺すにはうってつけの場所だと今さら気付いて歯噛みする。抜かった。何もかも自分の詰めの甘さだ。欲をかいていかにもワルですよという風態の大男に売り込んだのが間違いだった。どれだけ大切な娘だろうが親父が怖かろうがたかだか一介の退魔師もどきが何やらモニョモニョ唱えただけで不治の病が治せるものか。医者が匙を投げたならはいそうですかと従っておけばいいものを、自分で悪霊か何かの仕業だと思い込んでおいて出来なかったらお前が殺した、わざと儀式を怠ったなど、言いがかりも甚だしい。名医に治せない病気ならもうどうやったって治らないとわかりそうなものを、学がないから変な思い込みをする。学校をサボるからギャングになる。チクショウ一人に数人がかりで卑怯な奴らだ。オレは悪くない悪くない、と唱え続けるすぐ後ろに二発目が着弾した。足元に弾けたアスファルトの破片が転がってきて、つまづきそうになるのをなんとか持ち直す。愛しき事務所の裏口がもう目の前に迫っていた。
もつれるように飛び込んで、机やら椅子やらありったけの備品を扉に殺到させておいた。スカスカの本棚から重たいファイルを引っ張り出す。やろうとしていることの物々しさに対して安っぽいプラスチックのファイルはなんとも色気がないが、ムードを作る余裕はない。真ん中あたりのページ、そこに挟まっているコピー用紙に、丸と三角の魔法陣とぐちゃぐちゃした直線的な印章───悪魔召喚のシジル。成功するかは半々程度だが、これが最後の手段だ。このバーソロミュー・バラッドを怒らせるとどうなるか外の連中に教えてやる。ぶちまけたるは何の変哲もない鶏肉の手羽元一パック256円。最寄りのスーパーの良心的な価格には頭が下がる。生贄代わりには役者不足だが許してほしい、こっちだって緊急事態なのだ。正面玄関から銃声がした。予想通り仲間の刺客が追いついてきて、扉を開けにかかったらしい。怒鳴る声が聞こえる。丸い魔法陣を皺になるほど握りしめ、意識を集中させる。三角形を見つめて一心不乱に願った。誰か、誰か、誰か!この状況から逆転できる、何者か!鼻の奥で嫌な音がして、あっと思う暇もなく鼻血がぼたぼた魔法陣に垂れた。銃声が近い。即興のバリケードはあと数秒も保たない。扉が開く。誰か。誰か!
「我が名を呼ぶのは誰か───なんてね。君のことはもう知ってる」
場違いに凪いだ声がした。いつの間にか固く瞑っていた目をゆっくりと開け、三角形を踏む踵だけが後ろを向いた足を見て───ふと、銃声が聞こえないことに気付いた。怒鳴り声も破壊音も、全てが止んで、辺りは奇妙に静謐だった。
「嬉しいよ。まさか十人もいるなんて、想像以上のもてなしだった」
この声は誰だ?今まで会った誰のものと違っていて、その全員に似ている。静まり返っていた事務所に、別の音が響き始めた。何かを引きずる音。液体が落ちる音。ずるる。びちゃ。なんだかわからない音。ぶち。くちゅ。ぬぱっ、ぞりゅん。
俯いたままのオレの顔の下を、真新しい左手が通っていった。指先から耳と口が生えた手がこちらに手を振っているように見えて、オレは間違いに気付いた。その手は八本指だった。手の甲から三本の指が生えて、引き伸ばされた顔のような模様を形作っていたのだ。
「おや?固まっちゃった。やっぱりヒトっぽい見た目じゃないとダメかな、ちょっとそのまま待っててね」
オレの目の前にいる誰かの姿が、ぐちゃりと崩れた。崩れたものはゲル状になってしばらくのたくっていたが、やがて吸い取られるように再び頭上に戻っていった。三十秒もないその変化の間オレはずっと俯いたままの格好で、再び静まり返るまで視界の外で何が起こっているのかを想像しないようにするのに苦心していた。
「もういいよ。顔を上げて、そろそろ私を喚んだ紳士の顔に拝礼させてくれ」
たおやかな手が頬に添えられて、そのまま上を向かされる。淡麗な女の顔がこちらを見下ろしていた。長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳と目が合った時、オレはどうしてか声を上げて泣き出したくなった。もう命を脅かす者は一切いなくなったと、そしてそうしたのは目の前にいる美しい女なのだと直感が告げていた。安堵のためか彼女への畏怖か、悲しくもないのに目の前が滲んだ。
「あ……悪魔……?本物?」
「本物だとも。ストラスの子、悪魔アンドラス、君の贈り物は確かに受け取った」
「贈り物だって……?」
「君を取り巻いていた十人、それも脂の乗った若い男ばかり……実に楽しい狩りだった。ここまで誠実なもてなしは何十年ぶりに受けたかな」
アンドラスと名乗る悪魔は満足気に唇を舐めた。悪魔がここまで喜ぶ贈り物とは何だろうか。召喚する前に、自分は何を持ってきたか。では、召喚した時に見たものは、聞いた音は、静寂は───。その正体に思考を巡らせるより早く、本能的な忌避感が胃から迫り上がってきた。悪魔の足元に胃の中身をぶちまけながらも、オレは頬が綻ぶのを止められなかった。数分前までオレを殺す寸前まで追い詰めていた恐ろしい男たちは、アンドラスを楽しませる餌でしかなかったのだ。その事実が何より愉快だった。ギャングだろうが殺し屋だろうが関係なく、甚振った末に捕食する残酷な獣のようなこの悪魔は、オレが喚んだ。オレだけのものだ。手の中でくしゃくしゃになった魔法陣が音を立てるたびにそれを突き付けられるようで、股間がじんじん疼くほど興奮した。
「いい顔をする」
膝をついたままのオレの目の前に、いつの間にかアンドラスが座って目を合わせてきた。首筋に鼻を擦り寄せて、小心者の匂いだとうっとり呟く。彼女こそいい顔をしている。彼女の微笑みは左右対称の形をしていた。
「その礼儀、その顔その精神……うんうん、もう愛着が湧いてきた!しばらくこっちに滞在しようかな?いいよね?」
悪魔のツボはよくわからない、が、願ってもない。C&P事務所はいつでも所員募集中だ。色々便利な悪魔なら特に。それに悪魔を従える退魔師なんて、特別っぽくてわくわくする。
二つ返事を聞く前に、アンドラスは半壊した裏口のドアを開け放った。バリケードを取っ払い、ひどい銃痕をいくつも作られた金属製の扉は、それでも朝の景色を切り取って、オレの前に口を開けている。
「行こう、親友」
アンドラスが手を差し伸べている。一も二もなく掴んで一息に立ち上がった。
「何からやろうか。やりたいことはある?」
「……ああ、ある」
涼やかな風が吹いている。
悪魔がオレの言葉を待っている。
「まず狙撃手に仕返しだ」
身長が2mあるお姉さんにペット扱いされたい