指先にキスはできても抱きしめることはできない、気遣い屋の意気地なし
人間が嫌いだ。
あいつらは、我々エルフの美しさにばかり目を向け、利用する機会を常に窺っている。その醜悪さは世界随一と言っていい。
なぜ誇り高きエルフを搾取できる存在とみなしているのか、理解に苦しむ。
たまにまともな人間もいるかと思えば、あっという間に老いて死ぬ。せっかく気まぐれにかわいがってやっても、庇護してやっても、瞬きの間に死んでしまうのだ。
なのにそれ以上の時間、私の頭の中に居座るのだから、不愉快極まりなかった。
だから、人間が嫌いだ。滅ぼしてやりたいくらいに。
しかし私は誇り高きエルフだから、そんな美意識の欠片もないようなことはしないのだった。
ここ最近――一年か二年か三年か四年か、五年か。おそらくそのくらいだ――纏わりついてくる人間の男にだって、非常に穏便な対応をしてやっている。
今日ものこのことやってきたその男に、私は吐き捨てた。
「失せなさい、人間」
読んでいた本を閉じて、男と目を合わせる。本来ならば視界にも入れたくないところだが、何かと話すときには目を合わせるのが礼儀というもの。
それにこいつは、エルフの私からしてもそれなりに見られる容姿をしていた。
男はいつものように、私に向かってにこりと胡散くさい笑みを浮かべてみせる。
「こんにちは、アウラフィーリア」
「……こんにちは」
たとえどんなに気に入らない相手であっても、礼儀には礼儀を返す。それがエルフである。
挨拶を忘れようものならすぐさま追い返してやろうと思っているのに、出会った日から今日まで、男が挨拶を忘れたことはない。
「ねえ、おまえに名を呼ぶ許可を与えた覚えはないと、何度言わせるの」
「そう言いながら、あなたは怒ったりしないじゃないですか。それどころか最近は、嬉しそうな顔をしてますよ。自覚はありませんか?」
「……何をふざけたことを。これが怒っているように見えないなら、おまえの目は節穴だわ。いっそ私がくり抜いてあげましょうか? ああ、そうね、目だけなら私の傍に置いてあげてもいいわよ」
「はは、あなたは俺の目がお気に入りですもんね。でも、美しいあなたをこの目で見ることができなくなったら、俺は悲しみのあまり胸が張り裂けて死んでしまうかもしれません。誇り高きエルフのアウラフィーリア様が、まさかそんなことはしないでしょう?」
顔色一つ変えない男に、怒りで身体がふるふると震える。
いくらやわらかな陽射しに輝く春の妖精に愛された森のような目をしているからといって!
調子に乗りすぎだ。私の脅しをちっとも本気にしていないのも腹立たしい。別に私は、少しも、これっぽっちも、この男の目を気に入ったりなんかしていないのに。
さも私以上に私のことをわかってますよ、とでも言いたげな口ぶりが、本当に気に入らなかった。
「さて、アウラフィーリア。今日こそ観念して、俺の想いに応えてくれませんか。俺はあなたのことを心から愛しているんです」
それは、会うたびに告げられる戯言だった。
人間はよく、エルフの美しさに目が眩む。騙して利用するか、はたまた無理やり手籠にしようと企んでいるのかはその時々。
こいつもその類だろうと冷たくあしらってはいたが、なかなかにしつこかった。それなのにいまだに実力行使に出てこないのだから、不思議な男だ。
暴力か、薬を使うそぶりでも見せたら、二度とここに来られないように魔法で痛めつけてやれるのに。
「相変わらず冗談が下手ね。おまえに返す愛なんてありません。それくらいなら、道端に転がる石でも口説いたほうがいいわ」
「道端の石に嫉妬するのももう何度目でしょうか」
くすりと笑った男に、苛立ちが募る。それはつまり、私の喩えがいつも同じでつまらないということだ。
生意気じゃない? 私はあえて、エルフよりも知識の乏しい人間に合わせて、言葉を選んであげているのだけど!
しかしそう言ったところで、また都合のいいように捉えられるだけだ。ぎり、と歯を食いしばって耐える。
「アウラフィーリア、言いたいことはどうか我慢しないで。俺は、あなたが俺のために紡ぐ言葉すべてを聞きたいんです」
察しの良さも気に入らない。
私が殺そうとした言葉を、わざとらしいほど丁寧に拾い上げようとするところも気に入らない。
すべてが本心なのではないかと錯覚させる、真摯な目つきも気に入らない。
愛を囁く、優しくて穏やかな声も気に入らない。
諦めなければ私に愛してもらえると信じている、愚かで傲慢なところも気に入らない。
人間のくせに。
すぐ死ぬくせに。
どうせ、私を置いていくくせに。
「……それならまず、そのふざけた話し方をやめなさい。私に我慢するなと求めるのなら、おまえだって同じことをするべきだわ。どうせ、その態度は演技なんでしょう」
こんな演技じみた話し方が素だと言い張るのなら、今日こそ追い返してやる。
腕を組んで睨みつければ――男は、純真な子どものようにきょとんとした。
「演技というほどでもないですが……いいんですか?」
「……いいも何も……そうしなさいと、言っているの、だけど」
予想外の反応に、頭が混乱してくる。
誰、これ。こんな顔をする男だったの?
見たことのなかった表情は、またも見たことのなかった表情へと変わる。男はぱあっと顔を輝かせて、屈託なく笑ったのだ。
「――やった!」
はしゃぎ声に、びくりと肩が跳ねる。
え? 今の声、この男の? 印象が違いすぎない? 人間って声帯が二つある生き物だった? というより、この顔は何なの。これが素?
男は心から嬉しそうににこにこと笑う。
「それってやっぱり、俺に心許してくれてるってことか?」
「は?」
「はー、ついにここまで距離が縮まったかぁ……長かった……。でも自惚れじゃなきゃ、あなたはもう俺のこと結構好きだろ? 友達としてかもしれないけど、会うたびに嬉しそうに口元が緩むし、俺の口説きにも満更でもない反応だったし」
「は、え? いえ、そんなわけが」
「あっ、もちろんさっきまでの俺のほうがよかったら、また戻すよ。どっちがいい? アウラフィーリアの好きなほうを言ってくれ。どっちにしても、俺は本心しか言ってないし、これからも言わない。まあ、礼儀正しい口調は苦手だから、このままでいいなら助かるが……」
「礼儀正しいってよりはただうさんくさ……待って、そういう話でもなくて」
印象の話ならこちらのほうが好印象で、でも別に印象なんて関係なく、私は人間が嫌いで。
「……変わりすぎじゃない?」
「そうか?」
こてんと首を傾げる男に、顔が引きつる。
「だっておまえ、そんなふうに可愛らしく首を傾げる人間じゃなかったでしょう」
「えっ、今の可愛く見えたのか? じゃあこれからも、アウラフィーリアに可愛く思ってもらいたいときにはこういう感じでいかないとな」
「可愛く思ってもらいたいときなんてあるの?」
「好きな子には、格好いいとも可愛いとも思ってもらいたいものだよ」
「……」
調子が、狂う。
少し……大分……かなり口調と表情が変わっただけで、こんなに何もかも変わるものなの? これだから人間は、演技が上手くて嫌になる。
でも。
紡がれる言葉の響きだけは、全く変わらない。確かに同じ人間なのだと伝えてくる。
「……まあ、こっちのほうが、胡散くさくない分ほんの少しだけマシね。けれどあくまでどちらがマシかという質問に答えただけであって、こちらのほうが好ましいというわけではないから、勘違いはしないように」
「ああ、わかってる。改めてよろしく」
「おまえ、本当にわかってるの? よろしくなんかするわけないでしょう」
「でもなんだかんだ言っていつも家に上げてくれるし、話も聞いてくれるよな」
それはこの男がいつも、一旦家に入れるまで帰らないからだ。ドアの前の気配がうるさくて、おちおち読書もできない。
一度居留守を使ってみたら、夕方から夜明けまでずっと家の前で待っていた馬鹿が風邪を引いて一大事になった。いや、大事ではないけど。
しかし不本意ながら、私が原因の一端を担っていたのは確かなので、熱冷ましの薬草と共に魔法で家に送り届けたのだった。あんな面倒なことはもう二度としたくない。
「アウラフィーリア。いつも俺の話をちゃんと聞いてくれてありがとう」
率直なお礼に、ふん、と鼻を鳴らす。
「どういたしまして。それくらい、エルフとして当然の礼儀だけれど」
「エルフであることを誇りに思っていることも、その誇りにふさわしくない行いを決してしないことも、格好いいと思っている」
「――」
思わぬ言葉に、目を瞬く。
格好いい。私が? いつもの歯の浮くような言葉は、大抵が『美しい』に類するものだったのに。
「それから、俺の前でころころと表情を変えるのに、自分では気づいていなさそうなところが可愛い」
「はっ!?」
そんな馬鹿な。人間の前でそんな無様を晒していたというの?
ぺたぺたと両頬をさわると、微笑ましいものを見る視線を向けられた。
「だ、騙したの……!?」
「いや、事実だ」
「絶対嘘だわ」
「俺はあなたに嘘をついたことはないよ」
ぐっ、と息を呑み込む。それが本当かどうか、私には判別できない。信じたいとも思わない。
だけどなぜか、ここでまた「嘘だ」と言い募ることはできなかった。
「美しいと思う瞬間については、いつもの言葉で十分伝わってるかな」
「ええ、ええ。十分すぎるほどにね」
「それはよかった」
その微笑みはあまりに無邪気で、嫌味を言った自分が醜い存在のように思える。人間のほうがエルフよりもよっぽど醜いというのに!
「俺はあなたのことを美しいとも、可愛いとも、格好いいとも思ってるんだ。あなたのことが好きだから」
微笑みが色を変える。
人間の女だったら、もしかしたら卒倒していたかもしれない。そんな笑みだ。私は絶世の美を誇るエルフなので、心臓が誤って変な音を立てるだけで済んだ。
「なあ、アウラフィーリア。俺の今までの言葉は、あなたの中に降り積もっているだろうか」
「……さあ」
――私を好きだという人間は多くいた。
美しいも可愛いも聞き飽きた。どんな言葉だって、心に響かないはずだった。
別に、今だって響いていないけど。
「俺の存在は、あなたの中でどのくらいの大きさになった?」
「厚かましいわね、おまえ。せいぜいこのくらいよ」
「あはは、あなたの長い一生のうち、それだけでも俺を残せたのなら十分だ」
親指と人差し指で隙間を作って見せれば、男はからりと笑った。満足感溢れるその顔が気に入らない。
短命なくせに、私を口説くために無駄に数年を費やして。それで、これだけで十分ってどういうこと。
まあ、口説かれた覚えはありませんけど。人間なんかに口説かれているなんて、思ってやらない。
「それじゃあ、また明日」
そう言いながら、男は自然な動作で私の手を取り、流れるように指先に唇を落としてきた。反射的にぶんっっと振り払う。
「私の肌にふれていいなんて、誰も言っていません! 変態! 痴れ者め!」
「ふっ、ははっ、悪い。つい」
「つい、で許されることだとでも!?」
「うーん、どうだろうな」
明確な返答をしないで、男は楽しそうに微笑んでいる。
その視線は愛おしげで、そう感じることが嫌で、でもそうとしか見えなくて、混乱と動揺と怒りがそのまま唸り声へと変換される。
うぅぅぅぅと威嚇する私に、男は堪えきれないとでも言いたげにくつくつ笑う。
ああ、まったく! 口調と表情が変わったところで、根本は本当に何も変わらない!
こいつはこいつでしかない、と改めて感じてしまった。
なんなの。なんなの?
こんなところに来て無為に時を過ごすくらいなら、人間の女を口説いてさっさと家庭を築いて、あっという間に老いて、人間たちに囲まれながら死ねばいいのに。
私はそれを、ざまあみろと笑うくらいがよかった。それくらいがちょうどいいのだ。
「……おまえ、長生きしなさい」
「お、おお、いきなりだな。ありがとう。あなたを悲しませないよう、できるだけ長く生きるよ」
「誰が悲しむっていうの! 私はそれが嫌だから――っ、」
はっと口を噤む。
聞こえていなかったわけでもないだろうに、男は「そうか」と何事もなかったかのように普通にうなずいていた。
……本当に踏み込んでほしくないときは、すっと身を引く。それも、この男の気に入らないところだ。
そこを無理やりにでも踏み込んでこなければ、私を口説いているなんて到底言えないのに。気遣い屋の意気地なし。何もわかっていない愚か者。
その余裕な顔を崩してやりたくて、私はあえて、言葉の続きを紡いだ。
「……それが嫌だから、おまえのことを好きになりたくないのよ」
「え」
丸くなった瞳は、相変わらず美しい色をしていた。出会った最初から、嫌になるくらい美しい。
「今のままじゃ、私はおまえが死んでも悲しんであげないわよ――レニー」
さらに大きく開かれた目を見て、少しだけ愉快になった。
ねえ、おまえ。いつもそれくらいの可愛げがあれば、もう少し優しくしてあげてもいいのよ。
* * *
人間嫌いの、お高くとまったエルフ様。
――それが、彼女に対する最初の印象だ。
迷い込んだ森で偶然見つけたエルフの隠れ家は、ありていに言ってしまえばボロ家だった。気を遣って表現するのなら、長い間大切に使われてきた、年季の入った家。
そのドアをノックしたのは、気まぐれだった。なんとなく、ふっと意識が引かれたのだ。こんなところでちゃんと不自由なく暮らせているのか心配になったというのもある。迷子中に他の人間を心配している場合ではない、と言われれば、反論できないが。
ノックをした途端、中から声が聞こえてきた。
『――失せなさい、人間』
今となってはお決まりとなった言葉を、今よりずっと冷たい声でぶつけられた。
けれどもその声が、この世のものとも思えないくらいに可憐だったものだから、中にいるのがどんな人なのか気になってたまらなくなってしまった。
『すみません、道に迷ってしまったんですが、一番近くの村まで案内してくれませんか』
正当な口実があってよかった、とほっとしたことを覚えている。嘘は苦手だから、もし使える口実がなければすごすごと引き下がっていただろう。
そうして返ってきたのは、ためらうような沈黙。
しばらくして、ドアがギィ、と錆びた音を立てて開いた。
現れたのは、エルフだった。
一生に一度お目にかかれたなら相当の幸運だと言われる、あのエルフである。それくらいひっそりと暮らしているし、現在生き残っているエルフは少ないらしい。世界で一番美しい種族、生きた宝石とも呼ばれている。
絹糸のような白銀の髪に、俺とは少し色味の違う、エメラルドの瞳。いっそ不健康に見えるほど白い肌は、近づかずともその滑らかさが伝わってくるようだった。ほんのりと色づく花びらのような唇は、なるほど、さっきの声を発するのにぴったりだ、と感じる。
長く尖った耳に不気味さは一切なく、ただひたすらに神秘的な美しさを引き立てていた。
見惚れたのは、永遠にも感じるほんの一瞬。
初対面の印象を悪くするわけにはいかないと――この時点ですでに、これからも会いにくる気満々だった――どうにか正気を取り戻して、俺は口を開いた。
『初めまして、俺はレニーと言います。突然訪ねてしまってすみません』
普段は使わない敬語と、穏やかな笑みも心がけた。
――しかし、その笑みは次の言葉で、思いきり引きつることになる。
『……初めまして。私の名はアウラフィーリア。名乗られたから名乗り返しただけであって、おまえに名を呼ぶことを許すわけではないわ。人間ごときがエルフである私の名を呼べるとは思わないこと。
本来であれば姿も見せたくないところを、おまえが迷子だというからわざわざ出てきてやったの。情け深い私に感謝しなさい』
……今思えば、彼女のチョロさや優しさの片鱗が窺える言葉なのだが。当時の俺にはそんなことがわかるはずもなく、普通にカチンと来た。
そして何を血迷ったか――絶対に落としてやる、と決心してしまった。
自慢になってしまうかもしれないが、女の子にそんな対応をされたのは生まれて初めてだったのだ。
俺にとって女の子とは、微笑みかけ、素直に感じたことを伝えれば簡単に好きになってくれる存在だった。
だからムキになって、嫌がらせじみたことをしたくなった……というのは、後付けの理由かもしれない。一目見たときにはもう、きっと恋に落ちていたのだろうと、今なら思う。
ともかく、あのときの俺は十五歳のクソガキで、調子に乗っていた。もはや黒歴史というやつだ。
その黒歴史が今に繋がっているのだから、消し去りたいとは思わないが。
『美しいあなたにぴったりな、素敵な名前ですね――なんて、陳腐な言葉でしか表せなくてすみません。もっと勉強しておけばよかった』
『御託はいいわ。まったく、自分の家の場所すらわからなくなるなんて、本当に人間は哀れな生き物ね。有能で寛大な私に感謝なさい』
今ならこんなことを言われても、今日も可愛いな、とのほほんと考えるだけだ。
しかし当時の俺は大馬鹿だったので、その可愛さにも気づかず、ただひそかにムッとしていた。
『人間なんかに魔法を使ってあげるのも癪だけれど、仕方ありません。少しでも早く、おまえをこの森から追い出したいもの。構えなさい。舌は噛まないように』
端的に説明をしてから、彼女は聴き慣れない響きの言葉で何かを囁いた。
その途端、ふわりと大きく浮き上がる体。木の背なんてすぐに飛び越えて、遠くに見えた村へと一直線に飛んでいく。叫びそうになったが、アウラフィーリアも一緒に飛んでいたので、情けない悲鳴はなんとか堪えた。
間もなく、村の近くの地面へと下された。
『ここまで来れば十分でしょう。もうあの森には近づかな…………果物や野草をとったり、動物を狩るくらいならいいけれど、奥には入らないで。もしまた私の家の近くに迷い込んだりしたら、今度はこんな気まぐれに助けてなんてあげないんですからね』
『ご親切にありがとうございました。今度お礼にお菓子でもお持ちしますね』
『もう来ないでと言っているのが理解できない?』
『甘いもの、お好きじゃありませんか? こう見えてもお菓子作りは得意なんです。クラフティとかいかがですか。ちょうどさくらんぼも美味しい時期ですし……桃とか苺とか、他の果物でアレンジもできますよ』
『……桃のクラフティ……』
『では近いうちに、桃のクラフティを作って持ってきますね』
『今のは独り言よ。人間に何かをねだるほど卑しくないわ』
『そうですか……俺のクラフティは村で一番美味しいことで有名なんですが……そうおっしゃるなら仕方ないですね』
『…………まあ、捧げ物を断るほど狭量でもありません。いいわ、受け取ってあげる』
と、そんな感じで強引に近づいて。ほとんど毎日のように彼女の家を訪ねるようになった。
悪態をつきつつも、彼女が俺の訪問を本気で拒絶することはなかった。
彼女と共に過ごすうちに、少しずつわかっていった。
この子はただ、人間よりちょっと長生きで、人間よりちょっと強くて、人間よりちょっと不思議な力が使えるだけの、寂しがり屋な普通の女の子なのだと。
そして、自業自得で風邪を引いたときに丁寧な看病を受けて、恋に落ちていたことを自覚した。
そこからは本気で口説き始めたのだが――なんせ俺は嘘で愛してると言えるほど器用ではないので――、なぜかむしろ、それ以前よりも彼女の反応が冷ややかになって焦った。
それでも必死に五年口説き続けた結果が、今だ。
失せなさい、という割に、その声は嬉しげで。こんにちは、と返してくるときにはもう、何か素敵なものでも見るように目を輝かせる。微笑みだって見せてくれるようになった。
「今のままじゃ、私はおまえが死んでも悲しんであげないわよ――レニー」
――そしてついに、出会ってから初めて名前を呼ばれた。
これはもう快挙だ。帰ったらケーキを焼こう。明日はそれを手土産に持ってきたら、アウラフィーリアが美味しい紅茶を淹れてくれるかもしれない。
「…………もう一回」
「は?」
「もう一回呼んでくれ! よく聞こえなかったんだ。あー……いや、これはあなたにつく初めての嘘なんだが……」
「ふざけてるの?」
おそらく無自覚だろう、おかしそうにくすりと笑った彼女は、「また今度ね」と次を約束してくれた。
本当に? 今度があるのか……そうか……。
嬉しさを噛みしめてから、はたと気づく。
名前を呼ばれたことで頭がいっぱいになってしまったが、今結構すごいことを言われた気がする。
悲しい思いをするのが嫌だから、俺のことを好きになりたくない。……そう言う時点でやっぱり大なり小なり俺のことを好きになってくれてるんじゃ、とは思うが、ひとまず置いておいて。
今のままじゃ俺が死んでも悲しんであげない――というのは、今のままでなければ悲しんでくれるつもりがあるということで、つまりは俺のことを自覚的に好きになる可能性を許容したということで……?
「……なにだらしのない顔をしているの」
「えっ、あ、ああ、そうだな。あなたのことが愛おしくてつい」
「おまえは『つい』が多すぎるわ」
「じゃあ普通に、あなたのことが好きだからって言ったほうがいいか?」
「どっちもどっちね」
ふん、と不機嫌そうなそぶりを取りながらも、その口元はやわらかく緩んでいるのだから可愛い。いや、可愛いな。意味がわからないくらい可愛いな……。
「いつになったらあなたは、俺のことが結構好きだって気づいてくれるのかな……」
ぽろっと零してしまう。
好きだと認識した人間に対して、彼女はどんな顔を見せるんだろうか。今とはまた違った可愛さであることは間違いない。
「存在しない事実に気づくことはできないわ。……というよりおまえ、さっきからなんなの、『結構』って。どうせ自惚れるならちゃんと自惚れなさい。そのほうがおまえらしいわ」
「俺のことすごい好きだって思っていいってことか?」
「思う自由くらいはあると言っているだけ。それも認めないほど私は狭量ではありません」
狭量ではない、というのは、彼女からよく聞く言葉だ。俺は勝手に、むしろ喜ばしいものに対する言葉として認識している。
今俺はきっと、さっきよりもさらにだらしのない顔をしているだろう。アウラフィーリアはそんな俺の顔を見て、こほんと咳払いをした。
「……おまえが死んでも、私は悲しまないけれど」
それはそれは、優しい声だった。
「もしもおまえが一人寂しく死ぬことになるようなら、可哀想だから看取るくらいはしてあげる」
――なんと返すのが、正解だったんだろう。
なんだかもう、何かで胸がいっぱいになってしまって、まともに言葉が出てこなかった。
ありがとう、と小さな声で言うのがやっとだった俺に、アウラフィーリアは「どういたしまして」と笑った。
自分がどんな声でどんなことを言ったのか、今どんな顔をしているのか、何もわかっていないんだろう。本当にひどい人だ。
「……好きです、アウラフィーリア。愛しています」
「口調が戻っているわよ、おまえ」
「いや、だって……これは戻るだろう……」
「ふふ、おまえにそんな顔をさせられるなんて、今日はいい日だわ」
「それは何よりですよ……」
呻く俺に、心底満足げに笑うアウラフィーリア。もう可愛いしか考えられなくなる。いや、それは随分前からか?
……こんなに可愛くて愛おしい子を、いずれ置いていかなくてはいけない日が来るのか。
気が早いのはわかっているが、そんな日に思いを馳せると、胸が締めつけられるような思いだった。
アウラフィーリアが、俺のことを好きだと早く気づいてくれますように。欲を言えば、恋愛的な意味でも好きになってくれますように。
そうしてどうか、俺がいなくなったいつかの未来で――俺との日々を笑顔で思い出せるような、明るくて幸せな生き方をしてくれますように。
「――ところで、また明日と言われてから大分経つように思うのだけど? いつまで居座るの。さっさと帰りなさい」
「ああ、悪い。明日はケーキを焼いてくるから、美味しい紅茶を淹れてくれると嬉しいな」
「桃のタルトがいいわ。おまえのタルトに見合う、とびきりの紅茶を淹れてあげるから楽しみにしていなさい」
俺のお菓子にはとびきりの紅茶がふさわしい、と思われていることがくすぐったかった。いつものことだが、腕によりをかけて作らなきゃな。
翌日、ご所望どおり桃のタルトを持っていけば、一口食べた途端顔をしかめられて焦った。
けれど、「……次はちゃんと、もっと美味しい紅茶を用意してみせるわ」なんて口惜しげに言われたので、気が抜けて笑ってしまった。単純に、タルトが想像以上に美味しかっただけらしい。
紅茶だって十分すぎるほどに美味しかったのだが、いったい彼女は、俺のタルトをどれくらい美味しく感じてくれたんだろう。
嬉しくてにやけてしまう俺に、アウラフィーリアは文句を言わなかった。それどころか、嬉々としてタルトの感想を細やかに伝えてくれたものだから、愛おしくてたまらなかった。
もしかしたら、この子は本当に、俺のことがすごく好きなのかもしれない。
馬鹿みたいにそう思いながら、俺は彼女が淹れてくれた紅茶を飲んで、抱きしめたい衝動をこらえた。
指先にキスなんて気取ったことは簡単にできても、抱きしめるのは……なんというか。本気すぎるというか、彼女の許してくれる範囲を超えている気がして。
俺にはまだ少し、難しいのだった。