第4話 毒
「そんな事は分かってる。1度しか言わないからよく聞け。あたしが銃を撃ったらそれを合図に、出来うる最大限のスピードで10時方向へ進め。今すぐ前の二人にも伝えるんだ。時間が無い。早くしろ!」
こんな所で銃なんか撃ったら大変な事になるぞ! 今言ったばかりじゃないか......まさか犬達と一緒に玉砕するつもりか?
アレクは呆れた表情でエマの顔を覗き込んだ。ところが......予測に反しエマの顔は至って冷静。決して追い詰められた者が出せる表情では無かった。
ん? 何か確信でも有るのか? 自信満々の顔してるじゃないか。このまま逃げ続けてても、いつか必ず殺られるし......ここは一つ、信じてみるとするか。この人はこれまでに数々の死地を乗り越えて来たんだ。300人の軍隊に比べれば、多分狼なんてへっちゃらなんだろう。よしっ、分かった......
やがてアレクは大声を張り上げた。
「オーイ、イイカ! エマさんが銃ヲ撃ったら、ソレを合図に10時方向へ全力疾走ダ。イイナ、分かったな!」
「エッ、それ、ヤバく無い? 大雪崩ガ起きるわよ!」
すぐ様、予想通りの返事が返ってくる。
発砲=雪崩 その方程式はやはり共通認識になっているようだ。
「エマさんが、雪崩を起こさない忍術を使うカラ大丈夫ダ。安心シロ」
「ソッカ、そう言えば日本人だったワネ。日本人だから忍術使えるって訳ダ。了解、納得!」
どうやらロシアでは、日本人=忍者 らしい。どうでもいい話では有ったが、急を要するこの状況下において説明が手短に済む事は有難い。
四方を取り囲む狼は、既に肉眼で確認出来る所までに接近して来ている。最早、時間は残されていなかった。1分1秒を争うような状況だ。
エマはアレクから銃を受け取ると、自身が宣言した前方10時方向へと鋭い視線を向けている。
よし。あたしの計算が間違って無ければ間違い無くいけると思う。5秒で時速30キロ......それが絶対条件だ。いける!
ザッ、ザッ、ザッ!
ザッ、ザッ、ザッ!
『ガルルルル......!』
狼達は示し合わせたかのように、周りに描いた円を一気に狭めて来た。鋭い牙をこれでもと言わんばかりに見せ付け、ヨダレをダラダラと垂らしながら迫り来るその姿は、見ているだけで背筋に冷たいものが流れ込んで来る。
あんな大きな牙で噛みつかれたら、身体は一気に引き裂かれてしまうだろう。そんな事にならない事をただ祈るばかりだ。
狼達の4本の足がステップを踏む度に立ち上げる雪煙の数々が、渦巻く山風に乗って2台の犬ぞりを煙幕の如く包み込んでいく。いよいよ仕留めに掛かってくる動きだ。
「オイ、エマさん! そろそろヤバいぞ。イツ襲って来てもオカシク無い距離ダ。マダなのか?!」
「もうちょっとだ。辛抱しろ!」
エマは慟哭の表情を浮かべるアレクを他所に、何やら必至にタイミングを計っている様子。それが一体何のタイミングなのか? 分かる者など誰もいやしなかった。
ワンワンワンッ!
ワンワンワンッ!
迫り来る猛獣の脅威に犬達の緊張もピークに達している。このままではいつ犬達が統制を乱すや分かったものでは無い。
犬達がそれぞれの意思で勝手に走り始めようものなら、ソリはソリたる役目を果たせなくなってしまう。それは正に破滅への第1歩と言えた。やがて一際大きく見えるリーダー狼が、
『ガウッ!』
そんな合図を出すと......
『ガウッ、ガウッ、ガウッ!』
10数匹の狼がキバをむき出し、一斉に襲い掛かって来た。すると、
「よしっ、今だ!」
エマは満を持して銃口を裸急斜面へと向ける。そして、
バンッ!
遂に賽は投げられた。一世一代の大ギャンブル開始だ。放たれた銃声は目論み通り波動砲の如く山の斜面に跳ね返る。
バン、バン、バン、バン、バン......
そして、『やまびこ』となった。
ゴゴゴゴゴッ!......予想に違わず見事大雪崩の発生だ!
『毒をもって毒を制す』......ここで言うその『毒』とは、正に今発生したばかりの『大雪崩』であった事は言うまでも無い。1発の銃声に寄って産声を上げた『毒』は崩れ落ちながら更なる『毒』を生み出しやがて核融合反応の如く無限ループを開始する。




