116.シロイの魔道具8
シロイはもう、使える魔道具は全て使い切りました。
それは、シロイの最後の足掻きだった。
カリアの目の前、紫の魔術陣の上に落ちた鉄鎖鞭は軽く鎖の音を立てて魔術陣に引っかかり、その動きを止めた。
それ以上の動きもない鉄鎖鞭を眺める意味もなく、ピトムは紫の魔術陣の中心に据えられたカリアへと視線を移す。
僅かに揺れた光は紫の魔術陣にまとわりついた粘液が、『光る足跡』や『光る花』の光で揺らいだようにしか思えなかった。
その光に誘われたように、紫の魔術陣が波打つように揺らめいて。
そして、ほつれた。
「…………は?」
間の抜けた声を出したのが自分であると、ピトムは気づかなかった。
その中心にいたカリアでさえ目の錯覚だと思い、理解が追い付かない。
魔術陣を構成する記号や線が、波打って剥がれる。
剥がれたものは消えもせず、元からそんな記号だったかのごとく、魔術陣の上で揺られる。
その波はどんどん激しく大きくなり、その飛沫のように魔術陣が破片となって舞いあがっていく。
魔術陣に張り付いていた粘液が引っ張られて、糸を引いて延ばされてもその動きは止まらない。
粘液に取り込まれていた『光る花』や魔道具の破片も、魔術陣に合わせて揺れて浮かぶ。
まるで破り割いていくように、千切れて舞う紫の魔術陣は、その欠片をゆっくりと渦を巻いて漂っていく。
その行く先には、呆然としてそれを見ているピトムがいた。
「…………はははっ。随分と面白いことをするじゃないか」
自分が作った魔術陣が壊されていると認識したピトムの口から、乾いた笑いが漏れた。
天井に押し付けていたシロイを魔力で床へと叩きつけ、苦痛に呻く姿を見下ろす。
その顔には先程までの愉悦は微塵もなく、溢れる憤怒が渋面を作っていた。
もともとピトムは魔術陣など使わなくても、魔術を行使できる。
持っている魔力量が桁違いに大きいためだ。
それは今まで魔力の扱いにおいて、誰にも劣ることがなかったということでもある。
シロイの程度に合わせて戯れに拵えた魔術陣とはいえ、それが崩れていくことは彼のプライドをいたく刺激した。
「魔術陣なんてものがないとゴミのような魔術さえ使えない奴が、俺の魔術を自由にできるとでも思ったのかぁ!?」
だから、ピトムは魔術陣を作り直すことなど考えなかった。
不快感を隠すことも無く声を荒げて、シロイを睨むようにしたまま崩れていく紫の魔術陣へと意識を向ける。
紫の魔術陣がほつれて渦を巻くのを鼻で笑い、紫の魔術陣を元に戻すため彼は迷いなく魔力を注ぎ込んだ。
一瞬で、魔術陣は元の形へと戻るはずだった。
しかし全く影響がないかのごとく、紫の魔術陣は崩れ続けて渦になって躙り寄る。
そちらへと視線を向けて先程の十倍以上の魔力を注ぎ込んでも、それは何も変わらない。
ゆっくりと。
しかし確実に魔術陣は崩壊し、ピトムを飲み込むための渦が濃くなっていく。
「…………なんだ、これは」
ピトムの足が、無意識に下がった。
自分の作った魔術陣である。その効果に疑いはない。
渦になったそれが効果を保っているならば、四肢を失って転がり落ちるだろう。
だがそれだけではなく、シロイが何かをしたのは明白だった。
それがもたらすだろう結果を、彼は自分を基準にしか予想できない。
他人を傷つける魔道具を作らないという、シロイの魔道具師の矜持など知ろうともしなかった。
だからピトムにとって、それはより一層の苦痛と加虐をもたらすための、悪意に満ちた物としか思えなかった。
自分の魔術で傷を負うという屈辱。
だがそれ以上に、オモチャ程度の相手が自分を凌駕するということは、彼にとっては耐えられない屈辱だった。
どれだけ魔力を注ぎこんでも魔術陣は元には戻らない。
全てを意のままにできる、魔力という絶対的優越。
それが全く効果を見せないという初めての経験に、ピトムの身体が震えだす。
そこにいる筈のカリアさえ見えなくなるほど、紫の渦が濃くなって視界全てを埋めていく。
「シロイィィィッッ!!」
震える口から迸ったのは、屈辱と憤怒と恐怖に満ちた叫び。
それが、ピトムの最後の言葉となった。
シロイは めを ふせている。
ピトムを たおした。