働くこと、暮らすということ
この話を読んでくださり有難うございます。不定期に更新する私の物語を諦めずに読んでくださる
貴方に感謝致します。
こうして黒猫の紳士パスと表情をつくることのできるマネキンの女性、リバティはインバイトの小屋のなかに入った。小屋はウッドハウスのなかでもインバイト一人で暮らすには十分にゆとりの取れる小屋だった。床にはペルシャ絨毯が敷いてあり、三段くらい抽斗のある棚の上には分厚い本が平積みして沢山置いてあった。彼女はその本の表表紙や背表紙をまじまじと見たが、彼女には全くわからない言語であった。奥に暖炉があり、その横に小さな棚、その棚の上にレコードプレーヤーが置いてあって、音楽が流れていた。
「なんだろう、この音楽は」
パスがふと呟いたので、インバイトは少し笑った。
「ハハ、これはね、ファドというポルトガルの民族音楽といえばいいか、伝統音楽といえばいいか、ギターの音色と合わさる声が美しいだろう、その余韻がまたもの悲しく美しいのさ」
「ポルトガルって」
「あなたが来た国は日本っていう国だよ、リバティ。ポルトガルは君の国からは大分離れているけれど、ヨーロッパという大陸の西の端にある国だね」
「ふーん。よくわからないけれど」
彼女はこの流れていく音に聞き入っていた。
「なにか寂しい声と音色ね」
「まあ、曲調によって感じ方はまた変わるがね」
パスは二人が話している合間、小屋に置いてあるものを色々と物色していた。
「こら、やめないか」
「あなたは沢山知っているのね」
パスを注意するインバイトに構わず彼女は思ったことを伝えた。
「そうさ、私はこの国に住んでいるけど、日本とかイギリスとかポルトガルなんて国も知っているのさ」
「でも、インバイトは直接君がいた国に大きなことは仕掛けないよ」
「私は関心したことにしか、力は発揮しないのだよ」
「そう」
リバティにはあまり興味がなかったので、素っ気なく返事した。
「丁度いいね、さあ座ってくれ」
小屋の奥の机に二人は座った。インバイトはポットからお湯を用意していたカップに注ぎスプーンでくるくるかき混ぜた。人数分のカップを用意して、二人に配った。
「どうぞ」
パスとリバティはカップのなかを見ると、それは即席で作るスープだった。
「この国でできる作物を潰したのを乾燥保存してね、スープの原料にしたのさ」
二人はカップの取ってを持ち、口にスープを運んだ。彼女にはこれが初めての体験であった。
「うん」
「美味しいわ」
「このホトンドという作物は甘味があるから、いいスープになるのさ」
「ホトンドっていうのか、私は知らなかったよ」
「パスもこの国のことを色々と知った方がいいかな」
「温まるわ」
彼女は身体にじわっと温かくなるのを感じた。
「味覚と温度感覚だね、これで冷たいアイスクリームも食べられるだろう」
リバティはインバイトが次々と彼女自身に感覚を植え付けているような気がした。
「私に人と同じような体験をさせたかったってこと?」
リバティは尋ねてみたが、インバイトは首を横に振った。
「いや、リバティ。残念だが、私はそんなにお人好しな魔法使いではないよ、君に感覚を与えたのはただのおまけのようなものさ」
「じゃあ、なんだというの?」
「それで招いたわけだよ。リバティ、君は人に似せた物としてできあがったが、いったい銀座の道歩く君に似た人が何をして生きているか想像できるかい」
「目が覚めてから、日中は人の通行や電話でのお喋り、店の中でのお客さんと店員の会話も聴いてきたわ。もっとも人がいない時間帯では、別の者が賑やかにしていたけれど」
「君は人のなかでも女性に似せて作られたのだよ。そしてその人々がしていることというのは、労働と生活、遊びだよ」
「店員さんの働きぶりを見ているから、知っているわ」
「そうだね。人はどの時代でも、それこそポルトガルでも日本でも変わらないけれど、食べ物を食べ続けないと死んでしまう。その食べ物の確保に野生動物は捕獲すればいいけれど、人は皆で役割を分担して、その褒美に食べ物を貰っているのだよ」
「そうなのか?」
パスが訝しく訊くが、インバイトは間違っていたとしても正しく言っているんだという自信があった。
「このさい厳密なことはいいさ。君の店の店員で考えてみよう。店員は君の店に陳列している服や鞄を来ている客に販売する。その対価として金銭を店をまとめている本部にあげて、本部から配分を貰っている。例えばこの店員自身も服を着るのが好きなら、食べ物だけでなく貰った金銭で新しい服と交換するかもしれない」
「そうなのね」
「だから好きな暮らしをするためにも人は働かないとならない。じゃあ、生活はなにかってことだが、人はなかには一人ではなく複数で生活をしたりするのさ。人の世界には結婚制度という決まりがある。お互いに好意を抱いた二人の人がともに共同生活をしたり、お互いを支えながら過ごすのさ」
「人は一人では生きるのが大変なの?」
「生き物だから、外的な環境に影響されると労働が時に困難になったりする。そういうとき、サポートがあればなにかと助かるものなのさ」
「私だってお腹が痛くて苦しくなったりするよ」
パスは人だけのことじゃないと主張していた。
「生き物ってのは大変なのね」
「そう、大変なのだよ。時には人は自分が壁や試練にぶち当たらないとならない時が来たりする。それが人々の間で働いて暮らしていくということなんだ。だが、その厳しい壁があまりに強すぎて、その壁のせいで落ち着いて考えられなかったりもするのだよ。私はね、君にも人とは違うけれど壁に当たってほしいと思っているんだ。そうすれば何かこのもの書きすることで、人々を支えられる術があるかもしれないと思えるのだよ」
「壁ですって?」
彼女は驚いた。この男は自分に試練を与えるために招いたのか、なんて有難迷惑な話だろう。
「それなら、私は銀座に戻った方が遥かにましだわ」
リバティは席を立って、彼の小屋から出ようとした。その彼女の右腕をパスが掴んだ。
「リバティ、君はどうしてマネキンなのに記憶や視覚や聴覚があるのかわかるかい?」
「何、どういうこと」
と彼女はパスの顔を見ると、彼の目はもの悲しそうであった。その眼差しを見て、彼女は動揺し、ふと視線をインバイトに向けた。そうして温かった彼女の体がなにか瞬間的に凍りついたように感じた。インバイトは口を開いた。
「ただのマネキンを動かさせたのは私なのだよ、リバティ。生き物は食べ続けないと死んでしまうと言っただろう。だが君は最初から死んでいたのだよ、再び君が銀座に戻るのなら、それは君が死んでただのマネキンに変わるってことなのだよ」
リバティはインバイトの淡々と話す様を聞き、自分が既にこの国と彼の元から逃げられないことを悟った。何も見えなく聞こえないマネキンにリバティは成りたくはなかった。