新訳:食パン遅刻少女と転校生
ある高校に一組のアベックがいた。その片割れの女の昔というもの、普段は学校を東京ガールズコレクションか何かと錯覚するがゆえに、日頃より無用のおめかしに余念がなかったわけだが(その高校は私服登校である)、とある日期せずして絶望の起床を敢行せしめ、日々の日課もほどほどに、滔々とラブコメフラグへの道へと流れる事となった。
というのは、例のごとく食パンを加えたまま家を飛び出すという愚行を行ったのである。
すると曲がり角に差し掛かったところで予定調和的に一人の若い男と衝突した。この衝突のエネルギーによって彼らを取り囲む物理学的環境が変化したため、男の頭部はなんと女の下半身の何やらヒラヒラした布の下に侵入したのだが、彼女は朝の慌ただしさ関わらずスパッツを履いていたために、レギュレーションに違反するような重大事件は起らずすんだ。
しかし女は本能が働いたのだろうか、歪んだ物理法則により強制的に地球表面に接近せしめられた不憫な男の頭を、さらに押しのけるダメ押しを行い、すぐさまヒラヒラを整えて立ち上がると、「変態!」という、男の社会的信用と自尊心を損なうに余りある罵声を浴びせた上、よもや忙しいにも関わらず
「どうしてちゃんと前を見ないの?」
などと責任転嫁を試みた。
男性は咄嗟に
「ぶつかって来たのはそっちだろうが、誰が変態だ」
と至極真っ当な反撃をし、加えて
「自分の胸に手を当てて考えてみろ!」
と非常に含蓄のある表現でもって抗戦を試みた。
するとこの女、根は素直であるため、助言通りの行為を行うことに努めることとし、自分の右手を上半身の隆起した部分右側に当てた。もの足りなかったので左側についても同様の操作を行った。
たちまち彼女は冷静となって先程までの怒りから目覚めた。すると眼前で起こっているこの変態男(冤罪)との邂逅や、自分が遅刻しかけているという悲劇の経緯など、どうでもよくなった。
そうして彼女は悟りに近づくように、自分の内心をあっという間にクリアにした。そこで、クールな頭でもってそのとき抱いた暖かな感情をふと口に漏らした。
「柔らかくて大きい……」
男の方、女に仕草に当然の如く動揺を覚えると共に、体の底から湧き上がる高揚感を感じたわけだが、しかしすぐさま彼の脳は現状の把握へとリソースを割り当て直し、目下起こっている事柄を他者が目撃した場合、自分が猥褻行為を働いている輩にしか見えないことに気が付き、する義理のない謝罪を置き土産に、すぐさまその場からランナウェイした。
「ごめんなさ~~い!!」
女は我に返ったが、依然男に対するいわれのない嫌悪感を持ち続けたまま、大急ぎで高校へと向かった。
ちなみに巨乳の女性の頭が弱いとするような、特に根拠のないステレオタイプは、この伝承が元になっているそうである。
やっとの思いで女は教室にたどり着き、彼女に冗談を投げかけてくるクラスメイトに対して軽口を叩いた。
朝のホームルームなるものが女の到着直後に始まり、いつものように担任の教師がろくに聞かれもされていない話を始めたわけだが、この日はどうも様子が違った。
担任は、いつものつまらない話はほどほどに、
「今日は、紹介したい人がいます」
と発した。
教室はざわめいた。学校生活も苦節楽節十年ほど、彼ら彼女らはそれが転校生の紹介を意味することに感づいていた。
「それじゃ、入って、どうぞ」
教室の扉の方に向き直った担任が言った。
男性の転校生は慣れた素振りで教卓の横に立つと、こう自己紹介をした。
「はじめまして。今日転校してきた何某です。分からないことも……
そこで女は席から立ち上がって口を挟んだ。
「ああー!!あの時の変態男!!」
その言葉に即座に反応するように、男は叫んだ。
「ああー!!あの時のズボラ女!!」
彼は女が遅刻で焦っていたことを見抜いてしまうほどには聡明だった。自分もそのズボラの一員ではあるのだが。
そして不幸にも一番後ろの一人席に座っていた女の隣に、男は座らされることとなった。
クラスはヒソヒソ声に満ちた。
やがてクラスは他の生徒の様々な発声によって混沌となり、担任が無理やりそれを収束させて次の授業に引き継いだ。
男と女はお互いに体の向きを反対に向け、いかにも仲が悪いかのように振る舞った。まあこの時点では実際にそうなのであるが。
ところでテンプレ展開にも関わらずお決まりの台詞を言うのを忘れていたので、今言及しておこう。
「遅刻、遅刻―」
さて、この二人というもの、同級生たちから「二人は知り合いなのー?」「仲良しなの~?」といった戯言を幾度となく聞かされたものの、相も変わらず互いへの憎悪は増幅し続け、教室後方には徐々に暗い霧が立ちこめたわけである。
しかしこの無礼な人間がいかなる出自であるのだろうかという好奇心、不幸にも隣の席で追突してしまったという数奇な運命ゆえ、二人は短い会話を交わすようになったのである。
「あなたはどこから来たの?」
と女が尋ねたところ、男は仰々しい名前の離島を答えた。
この女、他人思考型の現代のJKにあってか、こと共感能力には長けており、すぐさまこの男のよもやま未知だらけの心境を察するに至ったが、やはり自分にしたことの罪は依然として重く受け止めており、
「離島でもセクハラは犯罪でしょ?」
などとさらなる精神攻撃を敢行した。
「だーかーら、あれは不可抗力どころかお前の責任だし、そもそも俺は何も見ていないし、単なる被害者だ!」
と単調な並列でもって男は答える。
この後も平行線の低レベルな水掛け論は続いたわけだが、次第に彼らは互いのあら捜しのため、相手の情報を探るようになっていった。
ある日のことだった。男は校舎裏で一人の女子生徒が泣いているのを目撃した。
男は校舎の影に隠れてこっそりと覗いたが、ちらりと見せた横顔は紛れもなくあの女のものであった。
男は、「この女には泣き顔がお似合いだ」と思った。しかし、その言葉のニュアンスは彼女の姿を密かに盗み見るうちに正の方向に変容していった。
遠目に見える謎の美しい物体を前にして、彼は逃亡することしかできなかった。そして彼は魔法にかけられたように、女と話すのを難しく感じるようになった。
しかし畢竟男は女の不思議な魅力に引き込まれてしまい、作り笑いをしている女に、その時のことを話さずにはいられなかった。
偶然教室で一人残っていた女を見つけて話しかけた。
なんでも、女の言うこととには、裏垢が流失してしまって仲の悪い女子に弱みを握られ、社会的地位を喪失しかけているとのことだった。女は、なぜこの変態男にこのような深い深い自己開示をなすことができたのか、その場では分からなかった。
そこから彼らは共闘した。女の社会的地位の保持のため、また、男の疎外感の克服のため。
結果的に女は敵対していた女子を出し抜いた。倫理的にまずそうな発信内容を即刻削除した上で、一般にはちょっと歪んで見えるかもしれない趣味の発信を、堂々友人たちに晒し、男の協力もあってか、敵対している女が私の弱みを握った気になって脅しもどきをしているとの風説を流した。
敵対している女、当然にして削除に対応した証拠集めはしていたのだろうが、元来の女の発信力もあって、評判は地に落ちており、もはや新証拠など無意味であった。
そして女はその人と、証拠の破棄を裏条件に和解をした。
一段落して男と女は、いつの間にかお互いの関係性がいつの間にか変化しているのに気がついた。
この頃にはこの二人の険悪さをクラスは理解し始めていたが、今度は逆に、二人はこの認識に対して、異議を唱えてみたいという気持ちになった。当然恥ずかしいので表立ってそうしたことは行わなかったが。
互いの意外な一面に気がついた二人は、いつしか結ばれることとなった。
そこで誕生したのが冒頭述べたカップルである。
その決定的瞬間に、女はこう述べた。
「少女漫画のようなことって、本当に起こるんだね」と。
しかし男はこう返した。
「素敵なことだけど、これは僕たち二人の物語だ」
「一体どの作品にこんな物語が載っているのかい?」と。
女は答えることができなかった。
果たして、この話の定型というものが、一体どこで生まれたものであるのか、いまだ誰も知らない……