実験失敗
「どんなに好きな仕事でも、急に全部投げ出したくなる時があるんだよ。」
ある日、残業続きのお父さんが台所で夜食を食べている時に私に言った言葉を思い出した。大人って大変だなと、その時は他人事のように感じていたが、今目の前にある書類の山を見て、自分がお父さんと同じ気持ちになっていることに気が付いた。
「由梨、それ今日中に終わりそう?」
西川玲奈が私の席まで来た。
「どうだろう。でも大丈夫。何とかして終わらせるよ。」
私は壁に貼られている『白神高校 学園祭 十一月十三日』と書かれたポスターを見て、大きくため息を吐いた。学園祭自体は嫌いではない。しかし、生徒会長である自分からしたら、学園祭への準備のためにやらなければならない仕事はとても多いので、億劫に感じてしまう。机の上に積み重ねられた書類の山は、全て学園祭関係のものだ。各クラス・各部活の学園祭でやる出し物について、内容を見て許可するかどうかを判断しなければならない。こういったことは先生が判断する学校が多いのだろうが、私が通うこの白神高校では、生徒会が決めることになっている。先月まで生徒会員全員で話し合ったので、その結果を踏まえて、生徒会長である私が最終判断をしなければならないのである。
私が生徒会長になったのは三カ月前。高校二年の夏が終わった後だった。最初の頃の仕事は、主に前の生徒会長が作ってくれた引き継ぎ書をもとに取り組めるものばかりだったので、大変ではあったがやりやすかった。そして今回ほどの量ではなかったのだ。もう文化祭は来月に控えている。この十月が勝負ということもあり、日に日に仕事量は増していった。
「玲奈の方こそ、大丈夫?」
玲奈は会計の係なので、提出された費用が正しいかどうかを確認する仕事がある。私は出し物の内容だけを見ればいいので、玲奈の仕事の方が大変だと思った。
「私も結構な量だけど、由梨ほどじゃないから。まぁお互い頑張って終わらせましょ。」
玲奈が肩までの髪をゴムでくくった。玲奈が気合を入れる時に毎回する行動だ。
私はもくもくと書類に目を通し、チェックをつけ続けた。生徒会長の席であるこの机は、校長室にあるような大きくしっかりした机なので、広くて使いやすい。書類を広げるには適した机だった。あらかじめ提出させる用紙は生徒会の方で作成したおかげで、確認はしやすかった。去年はこれを用意していなかったために、提出された内容の書き方がバラバラで、確認にかなりの時間がかかったらしい。
外からグランドを走り回るテニス部の足音や、野球部のかけ声、顧問の怒号など様々な音、声が聞こえてきた。気分転換に時々窓から外を見た。生徒会室は最上階である四階のちょうど真ん中に位置しているので、グラウンド全体を見渡すことができる。
作業を続けていると、先に仕事を終えた生徒会員が一人、また一人と帰って行くのが少し寂しかった。皆気を使って「何か手伝おうか?」と声をかけてくれたが、この仕事ばかりは生徒会長である私以外はできないので、感謝の言葉を返すことしかできなかった。気が付くと、生徒会室には玲奈と私の二人しかいない状況となった。
「どんな感じ?」
私の席から離れて仕事をしていた玲奈が、椅子に座ったまま声をかけてきた。
「あと一時間くらいかな。」
「大変ね。私はもう少しで終わるけど、何か手伝えることある?」
玲奈も気を使ってくれた。
「そうね。」
五時から二時間ずっと仕事をしていたこともあり、一度休憩をとることにした。外はもう真っ暗だ。
「残り一時間がんばらないといけない私のために、何か面白い話をしてよ。」
私がニヤニヤしながら玲奈に言った。
「面白い話かー。あ、じゃあ怖い話にしよっか。」
玲奈が意地悪な笑みを浮かべて言った。
「やめてよ。私がそういうの苦手なの知っているでしょ?」
私が苦笑いすると、玲奈がこちらに近づいてきた。
「まぁまぁ、怪談みたいな話だから、とりあえず聞いてよ。」
玲奈が椅子を持ってきて、そこに腰掛ける。
「呪いの校門って知っている?」
「何それ。」
「テニス部の子から聞いた話なんだけど、部活が終わった後自主練をして、夜八時くらいまで学校にいたんだって。うちの校門って七時には閉まるじゃない?帰ろうと思って校門に着いた時に閉まっちゃっていることに気づいたみたいで。」
校門が閉じられた後に帰宅する場合は、東門から帰るように先生から言われていた。
「今から東門に向かうのもめんどくさいと思って、校門を飛び越えようとしたら、急に校門がギーって開いたんだって。その時、女の人の笑い声も聞こえて…。」
私は肩を抱き、身を小さくして聞いていた。
「不気味だなと思って、急いで家に帰ったんだって。その後、その子どうなったと思う?」
私は息を飲んだ。
「次の日、学校からの帰宅途中で、トラックに轢かれて大けがをしたの。」
私は何も言葉を発することができず、唖然としていた。
「だから由梨も今日帰るときは気を付けた方がいいよ。」
「もう!なんでそんな帰りが怖くなる話をするのよ!」
私が怒ると、玲奈は笑いながら「ごめんごめん」と謝った。
「でもこの話、五、六年前の話みたいだよ。だから怪談みたいなもんだって言ったじゃない。」
それでも私が睨んでいると、
「まぁ帰り怖くなったら電話してきなよ。」
と言ってきた。少し罪悪感を感じていたらしい。
その後玲奈は十分くらいで仕事を終え、先に帰った。結局私の仕事が終わったのは、ちょうど八時を回った時だった。
「終わったー!」
掛けていた眼鏡をはずし、背もたれに体重を任せ、体を大きく伸ばした。スマホを取り出すと、お母さんから『帰りは何時頃?』とメッセージが着ていた。『今から学校出るから、九時前には帰るよ。』と返信をした。
教務室に生徒会室の鍵を返した。担任の先生から「遅くまでお疲れ様。」と労いの言葉をもらい、少し元気が出た。
校舎を出たときには八時半になっていた。この時間だとさすがに残っている部活動生もいないようで、校庭は閑散としていた。私はそのまま東門へ向かった。東門を目の前にした時、今日の玲奈の怪談話を思い出した。
「急に校門がギーって開いたんだって。」
寒気がした。東門は開いている。考えない、考えないと自分に言い聞かせ、私は走って門を通り過ぎた。通り過ぎた時、ヒューッという音が聞こえた。びっくりして音のする方を向くと、風が東門の隙間を通る音だった。普段ならなんとも思わないことだが、怪談話のことが頭から離れず、とてつもなく怖くなった。私は走って帰った。
家に着いたのはちょうど九時だった。息を切らしながら入ってきた私を見て、お母さんは「何かあったの?」と心配してくれたが、怪談話をされて怖くなって走って帰ったとは恥ずかしくて言えないので、「何でもない。」と答えた。
ご飯を食べ、自室に戻ると、玲奈からメールが着ていた。
『帰り、大丈夫だった?』
『途中で怖くなって、走って帰って来たよ。』
『ごめんごめん。まぁまだ怖いようだったら、お守りとか身に着けたら気持ちも和らぐんじゃない?』
「また馬鹿にして」と思ったが、それもそうだと思い、机の中で保管していたお守りを取り出した。今年の正月に、親戚のおばあちゃんからもらったものだ。私はそれをスクールバッグに付けた。
翌朝登校すると、玲奈に教室でそのお守りを見られ、大爆笑された。
「本当につけてきたんだね。」
「笑われると思ったわよ。でも気休めでもいいからつけようと思って。」
自分でも安直だと思ったが、安心材料が欲しかったのだ。
「おはよう。」
教室に入ってきたのは、Cクラスの進藤千恵だった。
「朝から楽しそうね。何かあったの?」
千歳が玲奈の後ろからひょっこり顔を出す。
千歳は一年の時に私と玲奈と同じクラスだったこともあって、二年生となった今の時期でも仲が良い。休み時間にこうやって話したりもするし、放課後私たちの生徒会室にもよく遊びにくる。
「昨日由梨に怪談話をしたんだけど、」
玲奈が昨日今日の出来事を千歳に伝える。
「それで由梨、今日お守りつけてきてるのよ。」
玲奈がケタケタと笑う。
「由梨、そんなに怖がりだったんだ。」
千恵が面白げに見てきた。
「もう、千恵まで馬鹿にして。本当に怖かったんだから。」
「この調子だと、怖い話の後のアドバイスなら何でも信じてくれそうね。」
玲奈が千恵に言う。
「そうね。『私にチョコパンを買ってきたら、霊はいなくなるだろう』とかね。」
「それいい!」
玲奈が手を叩いて笑う。
「千恵も玲奈も!覚えてなさいよ。」
私は二人の肩を軽くたたいた。
「ごめんごめん。面白くてからかっちゃった。もうしばらく怖い話はしないからさ。」
玲奈が両手を前で合わせ、謝る。
「しばらくって、またいつかするつもりなの?」
「まぁ、いつかはね。」
私が訝しむと、玲奈が意地悪な笑みを浮かべた。やっぱりまだ面白がっている。
「まぁいいわ。玲奈の怖がらせ癖は前からだもんね。」
「癖って何よ。」
玲奈が苦笑する。
「確かに。前私にも怖い話してきたもんね。」
千恵が私の意見に賛同する。
「ああ、あったね。千恵の家に三人で泊まった時だったよね。」
去年の七月。夏休みに千恵の家で夏休みの宿題を進めるということで泊まり込みで勉強をした。途中までは真面目に取り組めていたが、四時間くらい経って勉強に嫌気がさした玲奈が、怖い話をし始めたのだ。
「由梨は期待通り怖がってくれたけど、千恵は全然平気そうだったよね。」
「残念でした。私はもともとホラー好きだから。」
千恵が玲奈に胸を張って勝ち誇る。
「じゃあ今度由梨に何か怖い話してよ。」
「ちょっと、さっきそういう話はしばらくしないって言ってじゃない。」
私が玲奈の肩を叩いた。
「『私は』しないよ。でも千恵は別。」
私は「ずるい」と叫んだ。
「あ、そろそろ生徒会いかないと。ごめんね、千恵。私たちもう行くね。」
私がそういうと、千恵は小さく手を振った。
「うん。生徒会頑張ってね。怖い話、用意しておくよ。」
私は横で笑う玲奈を叩きながら、「それはいらない」と強く伝えた。
次の日の朝、私は気分が落ちていた。それは決して数週間ぶりに雨が降ったからではない。ましてや、通学途中にお気に入りのストラップを落としてしまったからでもない。今日は朝から理科の授業が二時限続けてあるからだ。
「それでは次の実験の授業で使う水溶液、化合物と、先週使った水溶液の性質についてまとめます。」
理科の女性の先生が、黒板に書きながら説明する。
「先週はヨウ素液とベネジクト液を使って、だ液のはたらきを調べましたね。ヨウ素液は黄色の液体で、デンプンをつけると青紫色になります。」
私はあくびを何回も噛み殺しながらノートをとった。
「あとはベネジクト液です。こっちは青色の液体で、赤褐色の酸化銅の沈殿を見る時に使いましたね。」
同じ班の子がこの二つの液を間違えたところに使ってしまい、また最初からやりなおしたなと、先週の出来事を思い返した。
「そして今日使うものは、塩酸と水酸化ナトリウムです。塩酸は濃度の低いものは透明で無臭です。しかし濃度が高いものは淡い黄色で、特有の刺激臭がします。」
先生が実際に塩酸を手に取り、私たちに見せる。
「水酸化ナトリウムは、強いアルカリ性の化合物で、無色・無臭です。今日みんなにやってもらうのは、この塩酸と水酸化ナトリウムを中和させて、食塩と水を発生させる実験です。」
黒板に化学式が書かれる。先生には申し訳ないが、科学者にでもならない限り、こんなのが一体何の役に立つんだと思ってしまう。
一通り先生の説明が終わり、実際に班ごとに分かれて実験道具を前の机から取りに行くことになった。
「特に塩酸は目や口に入ったり触れたりすると危ないので、手に付いた時はすぐに手を洗うようにしてください。」
私が塩酸を手に取ると、玲奈が横から話しかけてきた。
「眠そうね。」
「ええ。理科の授業の時はいつも眠いわ。」
「私は理科好きだから平気だけど。まぁ普通に授業を受けるより、実験の方がましじゃない。」
私が文系科目を得意としているのとは反対に、玲奈は理系科目が得意なのである。いつもテスト前は玲奈に理科の対策のコツを教えてもらっている。
「そうだけどね。あ、あとで他のみんなには伝えるけど、今日昼休みの生徒会会会議なくなったから、いつも通り夕方に生徒会室に来てくれればよくなったよ。」
「わかった。じゃあ昼休みは食堂で食べない?久しぶりにカレー食べたくなっちゃって。」
「いいよ。私も今日は売店でご飯買うつもりだったし。」
「オッケー。じゃあまた後で。」
そういうと、玲奈は自分の班へ戻って行った。
放課後、私と玲奈は相変わらず遅くまで生徒会室で仕事をしていた。
「はぁ―。やっと終わった。」
玲奈が椅子から立ち上がり、両手を伸ばす。
「お疲れ様。私ももうすぐ終わりそう。」
私は片付いた書類をファイル入れた。
「じゃあ終わるの待ってるよ。」
「ありがとう。あと十分くらいだから。」
私がそういうと、玲奈はオッケーマークを手で表した。
「おつかれー。」
そのタイミングで、千恵が生徒会室のドアを開けて入ってきた。
「千恵。今日は部活じゃなかったの。」
私が千恵に尋ねる。千恵は茶道部に入っていて、月水金の週三回で活動している。今日は水曜日なので、活動日である。千恵は茶道部がある日は生徒会室に遊びにこないので、不思議に思った。
「今日は文化祭の打ち合わせみたいな感じだったから、終わったのが早かったの。」
「茶道部は茶道教室を開くんだっけ?」
玲奈が尋ねる。
「うん。受付とか誘導とか、そういう担当決めが今日のメインだったよ。」
千恵が玲奈の横の席に座る。
「二人ともまだ残る感じ?」
「ううん。私は今終わったところで、由梨はあと十分くらいで終わる。」
「それで玲奈に待ってもらっているの。」
「そうなんだ。それにしても、由梨はほんとなんでもできるよね。」
千恵が私の机にある書類を見て、唐突に言った。
「どうしたの、突然。」
「いやだって、昨日まで山積みになってた書類がもうこんなに減ってるなんて。仕事できるなーって。」
千恵が感心の眼差しを向けてくる。私は恥ずかしくて目を逸らした。
「普通だよ。前の生徒会長はもっと早かったし。」
「その生徒会長から認められて、今由梨が生徒会長になったんじゃん。『あなたみたいな可愛くて人気があって仕事もできる人、他にはいないわ』って。」
玲奈がその時の元生徒会長の話し方を真似て言った。
「由梨、モテるもんね。」
千恵が玲奈に話しかけた。
「そりゃあもう。この前も元野球部キャプテンから告白されたもんね。」
「ちょっと!言わなくていいじゃないそんなこと。」
私は動揺でファイルを落とした。その野球部の男子は、玲奈が気になっていた人だったからだ。
友達が好きな男子から告白されたときは、色々な意味で驚いた。黙っていれば玲奈にはその男子から告白されたことに気が付かれなかったかもしれない。でもなんとなく気が引けてしまって、自分から玲奈に告白されたことを伝えたのだった。玲奈はいつもの調子で、「そうだったんだ!えー、もったいない!」と言ってくれた。
「私も由梨みたいなスペックがあれば、華やかな高校生活を送れただろうなー。」
千恵が本気でそう言っているようだったのがおかしかった。
「そんなことないよ。千恵もモテるでしょ。千恵は知らないかもしれないけど、色々噂あるよ。」
私はニヤッと笑った。
「まぁ少しはモテてる自覚はあるけどさ。」
千恵は素直に認めた。「自分で言うのね。」と、玲奈はおかしそうにしていた。
「あれ、由梨の机、なんか変わった?」
千恵が私の机を横から見て言った。
「うん。引き出しの棚を新しくしたの。前は全て鍵付きのもので開ける時は鍵を使わないといけなかったから面倒くさかったけど、普通の引き出しにしてもらったの。」
「へー。確かにこの引き出しだけ見るからに新品だもんね。自由に開け閉めできるようになったってわけだ。」
千恵が抽斗を開け閉めしながら言う。
「うん。机に置いてた書類とかをさっそく収納してる。」
「いいじゃない。仕事しやすくなるね。」
私はいいだろうといった目で、少し自慢げに笑って見せた。
「あ、そうそう。由梨に話したい怪談話があるの。」
唐突に千恵が言った。
「本当に話用意してきたのね。」
玲奈は驚いた。
「えへへ。用意してくるつもりはなかったんだけど、この前ふとこの学校の怪談話を思い出したから、せっかくだから由梨に話そうと思って。」
「せっかくも何もないよ!」
私が指摘すると、千恵は「まぁまぁ」と私の肩に手を添えた。
「でも由梨も完全に嫌いではないでしょ?こういう話。いつも嫌嫌言いながら最後まで聞くもんね。」
図星を指され、何も言い返せなくなる。怖い物見たさというか、とりあえず話を聞いてみたいと思っている自分がいるのも事実だ。
「…確かにそうね。興味はある。」
私の返事を聞くと、千恵は満足そうに頷いた。
「じゃあとりあえず聞いてよ。」
千恵が私と玲奈の席に椅子を近づける。
「学園祭の実行委員をしていたとある女子生徒が、遅くまである教室で作業をしていたの。時刻は八時を過ぎたあたり。今日はもう帰ろうかと思って片づけをしていたその時、急にドアがガタガタ音を立て始めたんだって。鍵は閉めていないのに、ドアは開かずにガタガタと揺れるだけ。外には人影もなかったみたい。最初は不思議に思っていたけど、その揺れや音がどんどん激しくなっていくから、その子は怖くなっちゃって、机の下に隠れたんだって。」
私は玲奈の席に移動し、玲奈の腕を掴んで聞いていた。千恵はそんな私の姿を見て、また満足そうな笑みを浮かべる。
「ガタガタっていう音は大きくなるばかりで、その子は耳をふさいで目をつぶっていたの。すると急に静かになったから、ドアの方を見たんだって。すると…」
私はゴクッと息を飲んだ。
「ドアが開いていたの。」
すきま風が私の頬を冷やした。
「あたりを見渡しても何もいない。でも、コツコツと足音が聞こえてきたんだって。コツコツ、コツコツと、近づいてくる感じで。」
頭の中に、コツコツという足音が響いた。
「その子は逃げようかと思ったけど、怖くて動けなかったの。どうしよう、どうしようと狼狽えていたら、ふと足元に何かがぶつかった音がしたの。見てみると、そこには水が入った瓶があったんだって。急になんでそんなものが?って思いを一瞬抱いたんだけど、とにかく怖かったから、縋るようにその水を飲んだみたい。」
私は玲奈の腕を掴む力が強くなった。
「すると、足音もドアのガタガタも消えたって話。」
話が終わったと思い、私は「はぁー」と長いため息を吐いた。
「よかったー。その子が連れ去られたとか憑りつかれたという話じゃないのね。」
「そうそう。だから大丈夫って言ったでしょ?」
千恵は少し自信がある様子で答えた。
「面白かったー。そのお水、聖水だったのかな。」
玲奈が目を輝かせて言う。確かにハッピーエンドで終わる話であれば、こういう怪談話も面白いなと思った。
「たぶんね。体内に直接聖水を流し込んだから、霊も近づけなくなったんじゃないかっていう話だよ。」
「聖水って、なんだか吸血鬼退治みたいだね。」
玲奈のその言葉で、私と千恵はふっと笑った。
「ちなみに『ある教室で』って話したけど」
千恵が私の方を見てニヤッと笑う。
「その教室、この生徒会室だったみたいだよ。」
鳥肌が立った。
「やっぱり怖いじゃない!」
私は身を乗り出して叫んだ。
「まぁ六年くらい前の話だから、今は大丈夫だって。」
千恵がケタケタ笑う。
「まぁもし由梨が同じ目にあったら、持ってきたお守りに頼ればいいじゃない。」
玲奈がアドバイスをしてくれたが、何だが楽しんでいるように見えた。
「もうお守り手放せないかも。」
そう言うと、玲奈と千恵は顔を見合わせて笑った。
その日の生徒会の仕事は、七時過ぎまでかかった。
千恵から怪談話をされたばかりだったので、玲奈には仕事が終わるまで待ってもらった。それから一週間がたったころだっただろうか。千恵の怪談話のことを少し忘れかけていたころだった。文化祭まで残り三週間を切っていて、私はそれぞれのクラス・部活が予定通りに動いているかどうかを、提出された活動書でチェックする仕事をしていた。文化祭の出し物としていいか許可を出す作業とはまた違った大変さがあった。
ふと目を時計に移すと、七時半を回っていた。
「玲奈に手伝ってもらえたらな。」
活動書のチェック作業だけであれば、自分以外の人にも任せようと思えば任せられる。特に玲奈のようにきっちり仕事をしてくれる人であればなおさらだ。しかし今日の玲奈は用事があったのか、帰りを急いでいるようだったので頼むことができなかった。
「あともう少しかかりそうだし、飲み物でも買ってこようかな。」
私は一階まで降りて自動販売機でホットコーヒーを買った。七時半を過ぎた今、部活動生で残っているのは自主練をしている生徒だけだ。グラウンドには素振りをする野球部やシュートの練習をするサッカー部など、数人いた。野球部の姿を見ると、告白をしてきた元キャプテンのことを思い出す。
―――「付き合えないよ。だって玲奈はあんたのことが好きなんだよ。」
どうしても付き合えないかと強く言われて、勢いでこう答えてしまった。
―――「知っている。それでお前が西川に気を使ってしまうのもわかってる。
それでも付き合いたいと思ったんだ。」
結局、私はそこで完全に断り切れず、文化祭が終わったら改めて返事をすることになったのだ。玲奈には、告白を断ったと嘘を吐いた。すべてを話すことはできなかった。
「最悪だな。私は。」
ホットコーヒーの蓋を開けて、一口飲む。温かさよりも苦さが口の中に伝わった。
四階の生徒会室に戻り、中に入る。コーヒーとスマホを机の上に置き、席に着こうかとしたその時、さっき閉めたドアがカタカタと音を立て始めた。
「…なに?」
私は振り返り、ドアを見つめる。
カタカタ。
カタカタ。
廊下の窓は開いていなかった。この生徒会室の窓も、もちろん閉まっている。風のせいではないのは明らかだった。
カタカタ。
カタカタ。
ガタガタガタガタ。
急に音が激しくなった。私は驚いて尻もちをつく。
「なに…何なの。」
尻もちをついた状態で後退する。
ガタガタガタガタガタガタ。
音は激しさを増す一方だ。ドアのガラスを見る限り人影がないので、誰かがいたずらでやっているとは思えなかった。その時ハッと、千恵の怪談話を思い出した。
「あの怪談と同じだ…。」
私は怪談話の女の子と同じように、机の下に隠れた。教室の机と違ってオフィスデスクのようになっているので、足元にうまく隠れられた。
ガタガタガタガタガタガタ。
音はまだ続く。私は肩を抱いて怯えていた。
「誰か、誰かに連絡しないと。」
私はスマホを取り出そうとポケットに手を入れたが、さっきコーヒーと一緒に机の上に置いたことを思い出した。机の上にあるスマホを取らないとと顔を出そうとしたその時、ドアの音が急に止んだ。そして急に生徒会室の電気が消える。
「これって、まさか…。」
私の嫌な予感が当たった。
コツコツ。
コツコツ。
足音が聞こえてきた。私は顔を出すのを止め、再び机の下で体を小さくしていた。
「(誰か…。助けて。)」
私は口に手を当てて泣き声を押し殺した。何か役に立つものはないかと、左側にある引き出しをそっと開けた。引き出しは三段あるが、上の引き出しを開けると頭が机から出てしまう可能性があるので、怖くて下段を開けた。見たところ、この前入れた書類やファイルしかなかった。
コツコツ。
コツコツ。
足音は確実にこっちに近づいている。引き出しを締めて机の下に戻ろうとしたが、ふと気になるものが目に入った。書類とファイルの間に、小さいサイズの透明のペットボトルがあったのだ。
私は千恵の怪談話のある部分が頭をよぎった。
―――「急になんでそんなものが?って思いを一瞬抱いたんだけど、とにかく怖かったから、縋る(すがる)ようにその水を飲んだみたい。すると、足音もドアのガタガタも消えたって話。」―――
ここまで起きていることがあの怪談話と同じであることもあって、私はこの瓶があの聖水なのではないかと思った。
「(一か八かやるしかない。)」
私はそのペットボトルを手に取った。そして蓋をはずそうとした時、何かに肩を強く掴まれた。
「きゃあ!!」
私が叫ぶと、「由梨!私、私!」という聞き覚えのあることがした。振り向いてみたが、視界が歪んでいてよく見えない。私は涙を拭ってみてみると、そこには制服姿の玲奈がいた。
「玲奈…?」
私が肩を震わせながら名前を呼ぶと、玲奈はとてもバツが悪そうな表情をしていた。
「えっと、ちょっと待ってて。」
玲奈はそういうと、ドアの前にある部屋の電気をつけ、私のところへ戻ってきた。私は状況が理解できず、まだ泣いていた。
「ごめん由梨。こんな怖がると思ってなくて。」
玲奈が床に座り込んでいる私に土下座をした。
「どういう、こと?」
「えっと、いつものように怖がらせようとしたの。つまりさっきのドアの音や足音、私がやったんだよ。」
「ほら」っと言って、手に持ったヒールを見せてきた。
私は爪先から上半身に向かって、熱が上がってくるのを感じた。それは体を震わせ、ふつふつと怒りの感情を沸き立たせた。
「…ふざけないでよ」
「え?」
囁きに近い私の声に、玲奈が聞き返す。熱は頭の先まで達した。
「ふざけないでよ!!!」
私は手に持っていたペットボトルを玲奈の顔面に投げつけた。ゴツッという音がした。
「冗談でも、度が過ぎるでしょ!!」
玲奈はボトルが当たった鼻を手で押さえながら、私を見ていた。
「ごめん、由梨…。」
私は息を荒くしながら、玲奈をにらみつけていた。
「すごく、怖かったんだから…。」
「うん。ごめん…。」
玲奈が私に近づき、そっと抱きしめた。
「本当にごめんね。」
抱きしめられた私は、安心感からか、また涙が出てきた。そのまま玲奈の胸の中でしばらく泣いた。
「なんであんなことしたのよ。」
泣き止んだ私は、玲奈の胸から離れ、床に座り込んだ状態で玲奈に尋ねた。
「…ごめん、逆恨みなんだ。」
私は逸らしていた視線を玲奈に向けた。
「逆恨み?」
「そう、逆恨み。」
玲奈が体育座りをして、顔を腕の中に埋める。
「こんなことしたら、由梨が本気で怖がることくらいわかってた。いつも冗談で怖がらせてるけど、限度はわきまえてたつもりなんだよ。でも、今回こんなことしちゃったのは、逆恨みが原因なんだ。」
私は黙って玲奈の言葉を待った。玲奈は埋めていた顔を上げた。
「由梨、朔弥の告白を断ったって、私に話してくれたでしょ。」
朔弥というのは、隣のクラスの高山朔弥のことで、私に告白してきた元野球部キャンプテンだ。
「うん。」
本当はまだ断っていないので、バツが悪い返事になってしまう。
「由梨が私にそのことを話してくれた前日に、私朔弥に告白したのよ。」
「え、そうだったの?」
「うん。実は朔弥が由梨に告白したところを見たって友達が話していたのを聞いちゃって。由梨に直接聞く勇気もなくて、なんだか焦っちゃって…。それで勢いで朔弥に告白しちゃったの。」
玲奈が足を伸ばす。
「もちろん振られたんだけど。でもその時朔弥に言われたの。まだ由梨から振られたわけではないって。」
私から振られていないから、尚更玲奈の告白は受けられないと、そう言ったらしい。
「それで次の日、私が由梨にそのことを言おうとしたの。そしたら由梨の方から
朔弥から告白されたことを話してきたから…。」
私はスカートをぎゅっと握った。
「でも由梨は『朔弥の告白を断った』って言ってきたじゃない?『まだ返事を返していない』じゃなくて。」
玲奈は至って普通のトーンで話していた。恐る恐る玲奈の顔を見ると、玲奈の表情も穏やかだった。
「その時、私に気を使ってくれてるんだなって思ったの。それに、まだ返事を返していないってことを伝えられない気持ちもわかった。私だって、逆の立場だったらそこまで言えないもん。」
玲奈が小さく笑う。
「だからその時は何も思わなかったの。本当だよ。でも、そのことがずっと頭の中に残っちゃってて。いつ由梨が朔弥に返事をするのかもわからなかったから、何だがモヤモヤしてきちゃったの。」
玲奈の声が暗くなる。
「そんなときにたまたま千恵が由梨に怪談話をしてきたの。それがすごくリアルだったから、これは由梨を怖がらせられるいいネタがきたって思ったの。でもさすがにこれで怖がらせるのはやりすぎだなって踏みとどまったよ。でも、今までのモヤモヤのせいで、ちょっとくらいいいかって思っちゃったの。」
腹いせに思い切り怖がらせてやろうと。びくびくしている姿を見て快感を得てやろうと、そういう思いが玲奈にはあったはずだ。でも私はそんな玲奈を悪く思わない。私だって、逆の立場だったら同じことをしていたかもしれないから。やっぱり、私は最低だ。
「由梨が千恵の怪談話を忘れた頃にした方がリアリティあるかと思って、それで今日にしたの。私の仕事は早く終わったから、一度家に帰って、お姉ちゃんのヒールを持ってきて。」
「千恵の怪談話を再現できるようにね」と、玲奈は苦笑いした。
「怖がらせる前は、ワクワクしてたの。でも、泣いている由梨の顔を見たら、なんて馬鹿な事したんだろうって、すぐに後悔した。自分のくだらない逆恨みで、由梨をひどい目に遭わせたなって。」
「玲奈…。」
玲奈が私に体を向け、正座の姿勢になった。
「ごめん!」
玲奈が深々と頭を下げる。その後すぐに私も頭を下げた。
「ごめんないさい。」
玲奈がバッと顔を上げた。
「え、なんで由梨が謝るのよ?」
「朔弥くんのこと、本当のこと言わなかったから。」
「さっきも言ったけど、それは気を使ってくれたんでしょ?普通言えないよ。」
「ううん。自分のためだよ。私、玲奈に嫌われたくなかったの。だから嘘ついたの。まだ返事してない、キープしてるなんていったら、玲奈に嫌われちゃうかもしれないと思って。朔弥くんは、玲奈の好きな人なんだから。」
「それでも、勝手にモヤモヤしたのは私だから」
「ううん。私こそ、」
そこで私たちは顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
「じゃあ、お互いごめんなさいってことにしない?」
私がそういうと、玲奈は笑顔になった。
「うん。じゃあこの件はもうなしってことで!」
「それは早すぎだよ。」
私は笑いながらそう言い、何だかいつもの雰囲気に戻ってきたのを感じた。
「私、明日朔弥くんに返事するよ。」
「あ、まだしてなかったんだ。」
「うん。もともと文化祭が終わった後って言われてたんだけど。」
「由梨はそれでいいの?私に気を使ってるんだったら…」
「ううん。これは本心。朔弥くんの気持ちはありがたいけど、私は朔弥くんのことあまりよく知らないし。そんな状態で付き合うのは失礼だから。」
「そっか。わかった。」
私のまっすぐな目を見て、玲奈は満足したようだった。
「じゃあとりあえず由梨の仕事片付けよっか。手伝うよ。」
玲奈が立ち上がり、お尻の埃を払う。
「ありがとう。あと少しだから。」
私も立ち上がり、机の上の書類を持った。
「由梨、これ。」
すると玲奈が私にペットボトルを渡してきた。玲奈に投げつけたものだ。
「いらないよ。それ玲奈のでしょ?」
私が笑いながら答える。玲奈はキョトンとしている。
「ヒールに加えてそんなペットボトルまで用意して。聖水のつもりで置いたんでしょ?本当に飲もうかと思ったよ。」
おかしそうに話をする私とは違い、玲奈は相変わらずキョトンとしている。
「え、私こんなの用意してないよ。」
「え?」
今度は私が首を傾げた。
「でもこれ引き出しの中に入ってたよ。玲奈が入れたんじゃないの?」
「ううん、私が用意したのはヒールだけだよ。足音を出そうと思って。水まで用意する気にならなかったよ。もともと入ってたんじゃないの?」
「昨日開けたときにはなかったもん。おかしいなー。」
私は玲奈からボトルを受け取った。なんとなくそれを見つめていると、あることに気が付いた。
「あれ、これ中身ジュースなのかな。」
「なんで?」
「よく見ると黄色じゃない?薄いけど。」
「言われてみれば、そうだね。」
玲奈がボトルに顔を近づけた。あの時は暗闇の中でボトルを見つけたから透明に見えたので、勝手に水だと思っていた。
「腐ってるんじゃないの?」
「えー、それは嫌だ。私危うく飲みそうになったんだから。」
玲奈がおかしそうに笑い、ボトルの蓋を開けた。そのまま匂いを嗅いだ玲奈は眉をひそめた。
「ん?これって…。」
「どうしたの?」
「嗅いでみて。」
言われた通りに、私も臭いを嗅ぐ。すると鼻にツンとくる刺激臭がした。
「くさ!」
言いながら、どこかで嗅いだことがある匂いだと思った。独特の刺激臭。
「これ、どこかで嗅いだ覚えない?」
「それ私も思った。なんだっけ。」
「理科の授業だよ。この前やった実験の時。」
「理科の時か。え、でもそれって…。」
玲奈はボトルを軽く揺らした。
「これ、塩酸だよ。」
「塩酸?嘘!」
「ほんとよ。塩酸は特有の刺激臭がするもの。」
玲奈は自信のある表情だった。確かに玲奈は理科が好きで得意だから、この手の話には詳しい。
「でも塩酸って限らないんじゃない?他にも刺激臭がするものってあるじゃない。」
理科が苦手な私は、その例が挙げられなかった。
「刺激臭はそうね。でも、この薄い黄色は塩酸だと思うんだけど。ヨウ素液はもっと濃い黄色になるもの。先生もいってたじゃない。塩酸は濃度が薄いのは無色無臭だけど、濃度が高くなると薄く黄色がかって刺激臭がするって。」
「そうだったっけ。」
その時の私は先生の話を何も聞いていなかったのだろう。
「それに塩酸にしろ他のものにしろ、危なかったわね。由梨、飲んじゃうところだったんだから。」
ごめんなさい、と玲奈はまた頭を下げた。
「いいよ。結局飲まなかったんだし。それにこれは玲奈が用意したものじゃないんでしょ?」
「うん。それでもごめん。」
「もう謝るのはやめにしたでしょ?気にしないで。」
「ありがとう。」
玲奈の表情が和らいだ。
「それにしてもなんで生徒会室にこんなものがあったんだろう。」
「その机は由梨以外は使ってないんだよね。」
「うん。いたずらかな。」
「それにしては笑えないいたずらだね。だってそのボトル、普通のペットボトルじゃない。今回のことじゃなくても、間違って飲んでしまう人いたと思うよ。」
玲奈の言う通りだ。自分がそれを口に入れてたと考えただけでお腹が痛くなった。
「とにかくこれは処分しましょ。」
玲奈に同意の返事を返した時、生徒会室の入り口から声がした。
「お疲れ様。」
振り向くと、そこには同じ生徒会員の斉藤恵梨香がいた。
「恵梨香、どうしたの?こんな時間に。」
私が尋ねる。
「生徒会室にスマホ忘れちゃったことに家帰ってから気が付いてさ、急いで取りに戻ってきたの。たぶんまだ玲奈か由梨が残ってるだろうなと思って。でも二人が壊れたドアを直してるっていうから、終わるのを待ってたのよ。」
「ちょっと待って、ドアなんて直してないよ。誰から聞いたの、そんなこと。」
玲奈が苦笑する。
「三階に上る途中で千恵に会ったのよ。そしたら『今玲奈と由梨が生徒会室のドアを直している。邪魔しないように言われてるから、三十分後くらいに来てって言われた』って。」
私と玲奈は顔を見合わせた。
「でも結構ガタガタ音が聞こえるから、大変だろうから手伝いに行くって言ったんだけど、かたくなにダメだって言われて。結局千恵に連れられて一回の食堂近くでしゃべってたのよ。」
玲奈は困惑した表情をしていた。私も同じ表情をしていただろう。
千恵は学校に残っていたのだろうか。今日は部活は休みだと言っていたのに。
千恵は玲奈がドアを揺らして私を怖がらせているところを見たのだろう。でも、なんでそれを見て何もしなかったのだろう。単純に私を怖がらせている様子を見て楽しんでいたのだろうか。
「それで、千恵はどこにいったの?一緒には来なかったの?」
私が続けて質問する。
「帰ったよ。一緒に生徒会室いかないか誘ったんだけど、用はないから帰るって。いつもは用がなくても遊びに来るのにね。」
恵梨香がクスッと笑ったが、私は笑うことができなかった。玲奈も何か考えている様子だ。
「あ、あったあった。」
恵梨香は自分の作業机の引き出しから、スマホを取り出した。
「二人はもう仕事終わった?一緒に帰らない?」
「いや、まだあと少しだから、先に帰っていいよ。」
玲奈が戸惑いながら答えた。
「大変だね。無理しないでね。じゃあまた明日。」
私と玲奈は気のない手の振り方をしてしまった。
生徒会室のドアが閉まり、緊張感を含んだ冷気が私たちを包んだ。
「ねえ。」
玲奈が隣にいる私に声をかける。思わずビクッと反応してしまう。
「なに?」
「千恵が由梨に怪談話をしたのって、偶然だったのかな。」
「偶然も何も、玲奈がしてって言ったんじゃない。」
「きっかけはそうだけど、あの話をしてきたのは、偶然だったのかなって。」
足先から冷気が上がってくる。水面が上昇してきているような感覚だ。
「何が、言いたいの?」
口が渇き、唾を飲み込む。
「怪談話を聞いた由梨は、その話と同じ状況になったら、絶対怖がるよね。この前私が『お守りつけてきたら?』って言ったら、信じて本当につけてくるくらいだもん。そして私はこの話を千恵にしたから、由梨が怖い目にあったらどんな行動をとるか、知ったことになる。」
寒い。私は肩を抱いた。
「この塩酸のペットボトルを仕込んだのは、千恵だってこと?」
玲奈はゆっくり頷いた。
「ええ。千恵はよく生徒会室に遊びに来てるでしょ。私たちが職員室に行く間、ここで留守番頼んだこともあったし、私たちが生徒会室にいない日も、他の生徒会の友達に会いに来てたっていうじゃない。こっそり仕込むタイミングはあるよ。」
玲奈は両手を組んだ。
「私が今日やったように、もともと千恵が由梨を怪談話と同じ目にあわせるつもりだったとしたら?今日私が生徒会室に戻ってきたのは想定外だったとしても、私が由梨を怖がらせてるのを見て、結果的に由梨が塩酸を飲むことに変わりないと思ったのだとしたら?」
玲奈の口調が少しずつ早くなる。それと同時に私の胸の鼓動も早くなっていった。
「か、考えすぎだよ。」
「でもそれだったら、千恵が恵梨香を生徒会室に来るのを阻んだことも納得できる。じゃないと、千恵が生徒会室に来た時に私に声をかけなかった理由がわからない。」
玲奈は「普通ドアの前でコソコソとドアをガタガタと揺らしてたら、『何しているの?』って声をかけるじゃない。」と続けた。
「その通りだけど、仮にそうだとして、なんで私にそんなことを?私が千恵に恨みを持たれるようなことをしたってことになるじゃない。」
思い返してみても、全く心当たりがない。当事者にはわからないと言われてしまえばそれまでなのだが、少しも思い当たらないのだ。千恵とは元同じクラスだし、千恵は生徒会室によく遊びにくるからお話もした。それに放課後一緒に帰ったり、週末遊びに出かけたり。
「一つ、気になることはあるの。」
「何?」
「玲奈、一年の時に根も葉もないうわさを立てられたことがあったじゃない。覚えている?」
懐かしいと思った。あれは一年の秋。今の時期のように、学園祭に向けてクラスで準備をしている時期だった。
「ええ。私が男に媚びを売ってるとか、実は元ヤンで煙草を吸っているとか、友達の彼氏を取る最低女だとか、そういうのだったよね。」
言いながら苦笑してしまう。噂もここまでくると笑えてくるなと思った。当時ははじめこそ驚いたが、噂を鵜呑みにする友達はほとんどいなかったので、あまり気にしなかった。気が付いたらその噂は数週間でなくなった。
「あれ、流したの千恵だっていう話があったの。」
「そうなの?」
初耳だった。誰が流したのか、何人か候補は上がっていたが、千恵の話は聞いたことがなかった。
「でも、結局噂を流した人が誰かわからないんだから、千恵だって確証もないじゃない。」
「そう、なんだけどさ。」
少しの沈黙が訪れた。千恵を信じたい自分と、玲奈の話を聞いて千恵を疑ってしまう自分。葛藤の中で右往左往していた。
沈黙を破ったのは、私のスマホだった。机に置いてあったスマホが振動する。
「千恵からだ…。」
画面上に千恵の名前が表示される。玲奈が近づき、画面を覗く。
画面をタップすると、
『お疲れ様。もう帰ってきてる?』
「私、返信してもいい?」
私は頷き、玲奈にスマホを渡した。
『お疲れ様。まだ学校だよ。千恵はいつ帰ってきたの?』
送った後、すぐに返信が着た。
『遅くまで大変だね。私は夕方には帰って来たよ。遊びに行けなくてごめんね。』
嘘をついている。
私は千恵からの返信メッセージをずっと見つめていた。
「玲奈…。」
私は助けを求めるような目で玲奈を見た。
私は、千恵に何て聞けばいいのだろうか。どう接すればいいのだろうか。
わからない。私は千恵に何かしたのだろうか。
いや、すべて玲奈の推測にすぎないのかもしれない。
でも、でも。
私は千恵のある言葉を思い返した。
―――「あれ、由梨の机、なんか変わった?」
千恵が私の机を横から見て言った。
「うん。抽斗の棚を新しくしたの。前は全て鍵付きのもので開ける時は鍵を使わないといけなかったから面倒くさかったけど、普通の抽斗にしてもらったの。」
「へー。確かにこの抽斗だけ見るからに新品だもんね。自由に開け閉めできるようになったってわけだ。」―――
玲奈から塩酸の話を聞いてから、あの千恵の言葉が頭から離れない。何ともない素朴な疑問だったのかもしれない。
でも、でも。
あの時塩酸を入れる場所を探っていたとしたら?それにあのあとすぐに怪談話が始まった。
全て計画だったとしたら?
スマホがまた振動した。
『そうそう。また今度怖い話聞かせてあげる。大丈夫、また学校の怪談話だから。』
私のスマホを持つ玲奈の手が震えているように見えた。
私は千恵からの返信を、じっと見つめていた。