少女と姉と
「先程の話の続きですが、またもう一人の天使見習いが修行として地上に送られることとなりました。その者は一人悩ましき人間を助けました。しかし、翼は生えては来ません。それでもその者は諦めずにまた人間を救済する事を続けました。二人、十人、三十六人、五百五人、六千人、二万人、三十万四人、七千万人・・・そしてついに四億人目の人間を助け終わった、その時。ようやくその者にも二枚の白い翼が生えてきたのです。」
よん・・・・なんだって?
「四億ですよ。膨大な数でしょう?」
・・・ああ、そりゃもう膨大な数だよな。・・・・そうとしか言いようがない。
世界中のほとんどの人間を助けて、それでその対価がようやく生えてきた二枚の翼・・・?
・・・・っほんとに冗談きついな。だいたい四億もの人間を助けるのに一体どれくらいの月日がかかる?
それは気も遠くなるような時間だろう。毎日毎日、人助け。
これだけ善行を積んでいるのにいまだ自分にはその対価は支払われていない。
そうしてずっと人助けを続けてきたそいつの気持ちは一体どんなものだったんだろうな・・・・?
「嘘・・・じゃないのか?」
「嘘をついてどうなると言うのですか。これは貴方にもあの子の修行がどれ程困難なものかをお分かり頂けるようにしたお話です。」
「でも・・・っ、それじゃあ翼なんかが生えてくる前に死んじまうだろ!」
「生憎、我ら天使は貴方達脆弱な人間と違って、とても長い寿命を持ち合わせています。しかし、その天使見習いだった者は生涯天界で過ごした時間よりも、地上にいた期間の方が長かったと伝え聞いております。」
「そんな・・・っ、無茶苦茶だ・・・っ!!」
「そう、無茶苦茶だからこそこうして私が貴方に頼んでいるのです。この例外的に準天使になるための修行は、救済策としてスクールを卒業出来なかった者でも翼を持つことが出来るようになります。しかし、修行を終えぬ者は天界には帰れず、翼が生えてくるまでに救済しなくてはならない人数は完全に個人差があるとしかいえません。・・・だからこそ、その分リスクも大きいのですが。」
「だから、それをあんたが手伝ったら駄目なのかって聞いてるんだ。俺なんかじゃなくて・・・。」
同じ天使だというのなら明らかに人間である俺よりも明らかに力になれることが多いだろう。そして、それならばわざわざ俺なんかに頼む必要はない。
なら、この修行とやらにエルアは手出しできない・・・?
「ええ。これは修行ですから。私を含めどの天使も手助けなどすることは出来ません。もし、仮に手助けをすれば・・・一生あの子が翼を生やすことは無くなる・・・。」
「翼なんて・・・いらないんじゃないか?だいたい翼なんてあってどうする?エリアも天使だっていうなら、別にわざわざ翼を生やすことも無いだろ?そりゃ・・こっちの絵画の天使なんかは翼を持って描かれてるけど・・な。そもそもそんな修行はハイリスクすぎるだろ・・・!一体いつまでかかるかはわからないなんて・・・っ。」
「この・・・・っ、人間風情が口を慎め・・・っ!天界でどれほど翼を持たない者が蔑まれているのかお前は知っているのか・・!?あの子が・・っ、エリアが周りから何と言って侮辱されているか・・・・っ!!羽根なしだ、能なしだ、役立たずだ・・・っ!あの子の才能は全部姉である私が持っていったとさえ囁かれている・・・!あの子は・・・っ、あの子は・・・っ、本当に優しい子なのに・・・・っ!!それなのに誰も翼がないからといってあの子を正当に評価さえしようとしない・・・!!父と母でさえエリアを見捨てた・・っ!あの子は一生落ちこぼれだって・・・!それを・・・っ、やっとあの子も翼を持てるチャンスを迎えたというのに、お前は・・・っ、何も知らないくせに全てを知ったような口をして・・・っ!!これを逃せば、あの子は・・っ、あの子はぁ・・・っ!!」
冷めやらぬ興奮からか、ふるふると震えるエルアの体。それと共に揺れ動く六枚の羽根。
突然の激昂を迎えたエルアは、怒りを込めた眼差しで、ぎらりと俺を睨みつける。
彼女からしたら全くの余所者である、さらに天使を信じてさえいない俺が不用意に妹に関するささやかな慰みを口にした事が、どうしても許せなかったようだ。
どうやら天使の世界とやらにもいろいろと確執があるようで、お気楽な人間が考えているほど天使の世界も生易しいものではないらしい。
エリアも天界から来ただとかほざいていたから、てっきり彼女らの言う天使とやらの仲間なのかと思っていたが・・・・エルアの話からするとエリアはまだ正当に天使としては認められてはいないようだ。・・・・姉の口ぶりからすると、今回の修行とやらは絶好のチャンスで、これを逃すとエリアは一生周りから侮蔑の目を受け続けることになるのだろう。
・・・・天界なんてものも、結局はこのどうしようもない人間世界と大した違いはないみたいだ。
誰かが誰かを見下して、自分が一番良く見られようと他人を泥の底へ蹴落として、生きる限りずっと競争から逃れることは出来ない・・・。
ああ、いったいどこに行けば救われるなんてことになるんだろうな?
天使とやらを妄信してやまない俺の父さんや、将来天国に行くことを夢見ている人間たちにも、この救いようがない事実を教えてやりたいところだった。
「悪かった・・・、その・・何も知らない俺が不用意にそんな事を言って・・・。ただ、天界とやらがそういう確執があるなんてこと思わなくてさ・・。」
「我ら天使というものは一様にプライドが高いと言えるでしょう。それぞれが完璧な自分を自負しているからこそ、我らの中に入り込もうとする不完全な存在を許すことが出来ないのです。・・・そう、私の妹のように。」
先程よりかは少し落ち着いたように見えるエルアは、静かな口調でそっと俺に告げる。
静かな怒りが燃えていたさっきまでと比べて、エルアの瞳には深い悲しみが浮かんでいるような気が・・・した。
「だからこそ私は、ちゃんとエリアに翼を生やしてもらって、もう妹が羽根なしと呼ばれるような事など無いようにしたいと思っています。それで、天使ではないただの人間である貴方に妹を陰ながら助けてやって欲しいのです。」
「・・・・修行なんだから人間だろうが何だろうが手伝っちゃいけないんじゃないのか?」
「実は、天使以外の者が修行者を助けてはならないという決まりはありません。我ら同属の者が手を加えてはいけないというだけで・・・。実際、過去に人間の力を借り、今は偉大な天使として君臨していらっしゃる御方もいます。」
・・何だよそれ、凄く曖昧なんだが・・・。
実際に人間風情が何も出来やしないと高を括って、そう明言しなかっただけかもしれないが、現に人間様に助けらけれてやっと天使になれたっていう奴もいるわけだ。
どこのどいつなのかは知らないが、そいつこそ随分と偉大な奴だと思えて仕方ない・・・。
「そのくだらない考えを止めなさい、野元真崎。その御方は現在神に仕える三神官の一人となっております。天使として最高位の位に立つ御方なのですよ?貴方ごとき一介の人間が、軽々しく皮肉を叩ける方ではないことをお忘れなく。」
・・・ったく、本当に心の中を探られるっつうのはいちいち面倒くさいもんだ。
そのなんとかかんとかやらが天使の中でどれくらい偉かろうが、俺には関係のない話だっていうのに・・・。
「でも、いわゆる落ちこぼれからそんなトップクラスにまで上り詰められるもんなんだな。一体どうなってるんだ?」
「大抵、天界から地上に修行に出されたものは、天界に帰った後異例の出世を遂げています。地上に行った後は、一様にみな何かの変化が起こっているようです。」
「何かって?」
「さあ・・・、私には分かりかねます。」
「じゃあ・・・エリアもそうなる可能性があるという事か?」
「ええ、可能性は。あの子があちらに帰って異例の出世を遂げる事は十分にありえると言われています。・・・なにせ、過去の前例がありますから。ですから、貴方にはそのお手伝いをして頂きたいのですよ。」
「・・・・断ると言ったら?」
だらり、とまた額に勝手に冷や汗が浮かんでくる。
エルアは落ちこぼれと言われている妹とは違って、天使としての実力というか、俺には考えもつかない不思議な力を宿している。
抵抗したくても、俺にはきっと抵抗する余地なんてないだろう。
だから、これはただの確認にしか過ぎない。・・・もし、俺が断ればどうなるかの。
「あら、消し炭にでもなりたいのですか?」
にこり、と冷ややかで冷酷な笑みを浮かべて。
エルアはある意味で死刑宣告とも取れるその言葉を発する。
・・・やっぱりか・・。俺の口から今日何度目かわからないため息が漏れる。
エルアは頼み込むという形を取ってはいるものの、そもそも俺に頼むつもりなんてこれっぽっちもなかった。
もし俺が断ろうものなら、実力行使を厭わない・・・・つまりは、絶対に俺を従わせようとする強い意思を持って彼女はここに来たのだ。
それは、彼女自身ではなく妹の為なのかもしれない。
今まで俺がエルアを観察してきた要素で彼女の人柄を判断すると、どうやら彼女は妹思いの随分と出来た姉らしい。
姉妹愛に心打たれたなんてわけではなんでもなくて、ただ自分の身の保全の為に、俺は渋々ともはや脅迫の域に達した頼みを受け入れることにした。
「分かったよ、わかった。とりあえずエリアに羽根が生えればいいんだろ?やってみるだけの事はやってみる。ただし、俺にだって事情がある。来年は俺も受験だ。それに、四億だとかめちゃめちゃな人数助けるなんていうのは俺には明らかに無理だ。だから、今年限りだ。今年限りやれるだけの事はやって、それでも駄目なら俺以外の奴をあたればいい。別に俺じゃなくたっていいんだよな?」
今はまだうららかな五月。今年だけ、と言ってみたもののそれでもかなりの月日がある。
これは、来年受験を控えた俺が出来る精一杯の譲歩だった。
「・・・いいでしょう、貴方にも事情があるというのは分かりますしね。そもそもエリアが貴方の前に誤って落っこちなどしなければこんな事にもならなかったでしょうに・・。」
「ああ、まったくだよ。本当にツイてないんだ、俺は・・。」
まさかこんな不遇の事態に巻きこまれようとは・・・!
これもまた何回目だかわからないが、俺は改めて自分の運の悪さを呪った。
「それはお気の毒に。」
人事のように(まぁ、確かに人事なんだが)簡単に言うエルアに少しの苛立ちを覚えたその時、急にドアが勢いよくバンッと開く。
開かれたドアの先に立っていたのは、今度こそまぎれもなく本物のエリアの姿だった。
「すいません、お風呂借りました~・・・・・ってえええええ!?お姉ちゃん!!!?」
驚愕して、へたりとその場に座り込んでしまったエリア。
そんな妹の姿に、姉であるエルアは怪しげな微笑を浮かべて、つつと詰め寄る。
「エーリーアー?少しお姉ちゃんからお話があるんだけど、いいかしら?ああ、野元真崎。貴方はそこで待っていてください。」
そう言って、エリアの首根っこを掴んで、無理やりずるずると引きずりながら、はた迷惑な姉妹は俺の部屋から出て行ってしまった。
バタン、と閉められた扉の音に続いて、急に飛行機が離陸する時に起こるような激しい耳鳴りがする。
その途端、少しの雑音も俺の耳は拾わなくなってしまって、無音に包まれた世界に言い様のない不安を覚える。
まさか、急に耳が聞こえなくなった・・・・?そんな、馬鹿な。
いや、でも聴力を失う時は案外突然に訪れるとも言うし・・・・・、じゃぁ・・・っ、本当に・・・・・・っ!
恐怖に飲み込まれそうだと思った次の瞬間に、不安に押しつぶされそうな俺の事を知りもしないんだろう、やけに暗い顔をしたエリアと、せいせいとした表情を浮かべているエルアとが俺の部屋に戻ってきた。
・・・・・そして、どういうわけか俺の聴力が突然回復し始める。
今や俺の耳にはいつもと同じように、厳しく妹を叱り付ける姉の声と、うなだれた妹の声とがしっかりと届いていた。
「また・・・お前の仕業なのか、エルア?」
「ええ、少しご家族の迷惑になると思ったので。一時的に聴覚を奪わせて頂きました。でも、もうちゃんと聞こえるでしょう?」
・・・・・一体、この天使はなんと恐ろしいことをさらりと笑顔で口にするのだろう。
というか・・・・そんな事もできるわけだ、天使という存在は。
本当に便利な奴だな・・・・。
「ご家族って事は父さんも母さんもか?」
「はい、でも今の貴方と同じようにもう聴覚を取り戻していることでしょう。何か問題でも?」
いや・・・かーなーり大有りだ。こっちがどれだけ心配したと・・・・!
ああ、でも実際こんなにやきもきしていたのは家族の中で俺一人だけなのかもしれない。
母さんはいつもぼんやりしているし、父さんは多分・・・まだ自分の世界に飛んでいったまんまだと思うから。
・・・にしても、一言聴力奪いますよくらいは事前に声の一つでもかけて欲しいくらいだ。
本当に・・・・余計な心配をした。よくよく気付いてみれば、俺のTシャツがじわりと汗で滲んでいてかなり気持ち悪い・・・。
「それは失礼をしたみたいですね。では、これからは聴覚を奪う際には何か一言申してからにしましょう。」
・・・・・・・、おい。それは違うだろ明らかに。
もう聴覚だの何だの、とりあえず五感を奪われることだけは御免だ!そこら辺よく覚えておけよ?エルア・・・・!
俺が心の中でそう念じたことが通じたのか、エルアは少し表情を和らげた。
「では、私はそろそろ帰らなければなりません。まぁ、また来ることになるとは思いますが・・・。次に会う時は翼が生えた貴女を迎えに来る時だといいですね、エリア?」
「うん・・・、そうだねお姉ちゃん。」
エルアに何か言い残したことがあるのか、もぞもぞと不穏な動きを見せ始めるエリア。
もちろんそれに気付かないエルアではない。
彼女が出来る限りの優しさで、そっと妹に尋ねる。
「どうしました、エリア?なにか私に言いたいことでも・・・?」
「そのっ・・・・、あの・・・ね!らっ・・・ラヴェリーちゃんのライブの映像・・・持ってきてくれた?」
エリアがそう語り始めた、その瞬間。
エルアの顔に薄っすらと筋が浮かび、俺の家に文字通り雷が落とされたのだった・・。