3 ホットカーペット
クリスマスから年末にかけては、僕も省吾もアルバイトで大忙しだった。
いつものコンビニのアルバイトに加えて、道路工事の警備員だとか、酒造会社の工場で化粧箱いりの祝い酒を大量に準備する短期アルバイトだとかを、お互い目いっぱいに詰め込んでいたからだ。
あと数日で大晦日という日には、とうとうこの冬いちばんの雪がちらほらと街に降り、底冷えのするような朝になった。
実は「年末年始ぐらいはこっちに戻ってこられないの」と、田舎の母から何度か電話が来たのだけれど、僕は今年はこのアパートで新年を迎えることに決めていた。
もちろんここに、省吾という人がいるからだ。
「自分のことなら心配しないでください。俊介さんはどうぞ、ご実家に戻ってもらったら。ちゃんと留守番はしておきますから」
省吾はそのことを気にして何度もそう言ったけれど、僕は笑って耳を貸さなかった。
いかつい見た目とはうらはらに、彼が実はとても気持ちが繊細でひどく寂しがり屋な人だということを、僕はとうに知っていたから。
それに、本当はほかの理由もあった。
管理人兼大家さんである澄子さんが、少しまえに省吾のことで僕に耳打ちしたことがあったのだ。
「あの子、本当にこのところよく働いているみたいだけど。ちょっと無理しすぎなぐらいよ。だけど、十分実入りも増えたでしょうし、そろそろ別の部屋に移っても大丈夫じゃないかと思うのに、全然そんな気、ないみたいなのよねえ」と。
僕にはなんとなく、その理由が分かる気がしてしまった。それに僕自身も、帰れば誰かが「おかえりなさい」と言ってくれ、うちにいれば「ただいま」と言って帰ってくるひとがいる、そんな暮らしが不思議に愛おしいような気持ちになっていた。
こんな小さなアパートの同じ建物の中だとはいっても、ひとたび別々の部屋になってしまったら、今と同じというわけにはいかなくなる。ほかの住人と同じように、時間が合わなければ普通に何ヶ月も顔を合わせることさえない、そんなごく薄まった関係になってしまうばかりだ。
それが、どうしてだかは分からないけれど、僕はひどくいやだった。
彼とそんな風になりたくなかった。
そして多分、省吾もきっと、それをいやだと思ってくれている。
別に確信があるわけではなかったけれど、僕にはそう思えてならなかったのだ。
◆◆◆
「今年もあと、一日ですね」
安物のダウンジャケットの襟をかきあわせるようにして帰ってきた僕に、温かいコーヒーを淹れてくれた省吾がそう言ったのは、十二月三十日の夜中だった。
彼自身は僕とはちがって、帰省とかなんとかいったことは言葉の端ににおわせることさえしなかった。要するに、彼には帰るべき家などないのだ。相変わらず、そこにどんな事情があるかは話してもらえなかったけれど、彼には彼を迎えてくれる温かな場所はもうないのかも知れなかった。
「年越し蕎麦、一応準備していますから」
「うわ、ほんと? 嬉しいな……」
「あの、でも、おせちまでは作り方がよく分からなくて。ごめんなさい……」
「えっ? とんでもないよ。なに言ってるの、省吾くん。謝らないでよ……!」
「あ、でもお雑煮は作ります。おすましと味噌味、どっちがいいですか? あ、あと、俊介さんはお餅はまるいほうがいいですか?」
「ええ? そ、そんなことまで……?」
なんだか本当に、素敵な奥さんでもいるみたいだ。去年のこの時期には、僕のそばにこんな人がいるだなんて想像だにしていなかったのに。
と、僕はふと先日から考えていたことを口にした。
「そうだ、省吾くん。炬燵は邪魔になるからって諦めていたんだけど」
「はい?」
「大学の友達で、いらなくなったホットカーペット、譲ってくれるって人がいるんだよね。どう思う? そんな大きなものじゃないっていうから、この部屋にも合いそうなんだけど」
「あ、いいかもしれませんね!」
省吾がにっこりと嬉しそうに笑う。
はじめて会ったときには本当に短くしていた彼の髪は、このところ少しずつ伸びてきて、首の中ほどまでを隠すようになっている。相変わらず茶色みの強い髪だ。伸ばすと少し癖毛なのが見て取れる。ふわふわ柔らかそうな髪の毛が、彼の繊細な人柄によく似合っているように思われた。
今は大家さんから息子さんのお古だとかで貰ったセーターの上に、僕からのプレゼントのあの半纏を着てくれている。
実は省吾は、最近では僕の部屋のみならず、このアパートの廊下やら外壁やら小さな庭やらといったところまで、気がつけば掃除をしたり、壊れた部分を直すなど、澄子さんの手伝いみたいなことまでしてくれている。だからなのかここのところ、ただ古ぼけて暗い雰囲気だったこの建物がふしぎに明るく、きれいに見えるようになってきた。
別にそれをあてこんでしたことではなかったろうけれど、大家さんの澄子さんはそのことで、いたく省吾を気に入ったのだ。最初のうちは多少胡散臭そうに彼を見ていた彼女が、近頃ではすっかり「省吾くん、省吾くん」となにかというと彼を頼り、可愛がるようになっている。
そんなふうになっていることが、僕もなんだか自分のことのように、ただただ嬉しく思うのだった。
「ホットカーペットは炬燵と違って膝のあたりが寒いけど、代わりに毛布をかけるといいんだって」
「ああ、なるほど……」
「じゃあ明日、一緒に貰ってこようか。省吾くん」
「はい、是非。わあ、あったかくなりそう……」
にこにこしている彼の顔を見ているだけで、僕の胸の中はもっともっとあったかくなった。
(……不思議だな)
彼が笑っているだけで、僕もこんなに嬉しくなれる。
それがどうしてなのかなんて、鈍い僕にはちっとも分かっていなかったけれど。
でも多分、彼はきっと気づいていた。僕が気づくずっと前から、彼は自分の心の中で芽生えていたその小さな感情を大切に守っていたのに違いない。
それはその時、彼にとって命がけで守らなくてはならないような秘密だった。
僕は彼の気持ちになんてまったく気づかず、それどころか自分自身の感情にすらひどく疎くて。
……結局それで、彼を傷つけることになったのだ。